第七話 浴槽にて
『斧打ちの国』の将軍、ツォーダフが居住していた屋敷をとりあえずの司令部としてクルーミルから与えられたボナパルトは部下に命じて早速風呂の準備をさせることにした。
浴室は青を基調としたタイルで飾られており大工の腕の良さを感じさせ木製の大き目の浴槽には魚の模様が彫られていた。
「はあああああ~……」
大きな湯舟の中でボナパルトはその小さな身体を伸ばして脱力する。
この世界にも入浴の習慣があり、身分の高い人間の屋敷には浴槽があるというのがボナパルトにはありがたかった。
「やっぱり風呂はいいわ。全身が温まって血の巡りが良くなって頭が冴える。疲れも取れる。一日中浸かってたいわ……フランスを旅立ってからいままで風呂無しでやってきた私を褒めてあげたい」
ボナパルトはばしゃばしゃと湯舟の中で足を動かしてお湯の感触を味わった。
「司令官閣下、失礼します」
参謀長のベルティエが脇に書類を抱えて浴室に入って来た。
ボナパルトは入浴中にも軍司令官としての仕事をする。イタリア遠征時代からの習慣だった。
入浴中の女性の浴室に入って仕事をすることにベルティエは最初は驚いて顔を背けたり赤くしたりしていたが今や別段気にすることはなくなっていた。慣れというのはどのような事にでもある。
「ご命令通りドゼー師団と学者団をこちらに呼び寄せています。カファレリ将軍の工兵隊とデュマ将軍の騎兵には周囲の地図を作製するよう命令していますクルーミル殿から周辺をわが軍が探索する許可証を出してもらいました」
師団は軍の基本的な単位の一つである。師団の下には歩兵・騎兵・砲兵から成る戦闘部隊のほかに
後方支援を行う部隊も配備され一定期間独立して行動することができる集団である。ボナパルトが率いてきた東方軍には全部で5個の師団がある。師団は二個から三個の半旅団から成っており半旅団は三個大隊から成っている。師団の兵員は時々に応じて増減するがおよそ五千人前後であった。この他に、工兵と騎兵、砲兵の専門部隊も存在する。
「よし。とにかく地図がないことには話にならないわ。兵士たちの様子はどう?」
「とりあえず食料の供給を受けて満足しているようです。受け取った穀物は小麦に似ており、パンが作れます。この街の連中の大部分はスープにして食べているようですが。肉類や野菜もあります」
「酒は?」
「数樽分。ぶどう酒に似ていますが、やや甘い味です」
「飲んだの?」
「いえ。部下からの報告です。舌触りに比べて強いらしく飲んだ兵士が8人、目を回して倒れました」
「そう……」
ボナパルトはお湯をすくって顔を洗った。
「久しぶりに街らしい街に入って兵士たちの規律が緩まないよう軍紀の順守を徹底させなさい。違反者が出たら見せしめに吊るすことも許可するわ。規律の無い兵隊なんかすぐごろつきと区別つかなくなるんだから」
「はっ……」
「どうしたのベルティエ」
「司令官閣下、本当にここの連中に手を貸すおつもりですかイギリス軍やその同盟国と戦うのならともかくここの連中の事情はフランスの国益となんら関係ないのではありませんか?軍を私物化して個人的な冒険をしていると言われるかもしれません」
「クレベール将軍あたりが言いそうな事ね。ベルティエ、あなたの意見は?」
「ご存じのはずです。司令官閣下のお考えが私の考えです」
「よろしい」
ボナパルトはざぶっと浴槽から立ち上がると掛けておいたバスタオルで体をふき始めた。ベルティエは水が書類にかからないように後ずさりする。
「なんにせよ……フランス本土と連絡が取れないのは致命的よ。兵員、武器、弾薬、医薬品、その他一切の物資の供給が途絶えてしまっている以上私たちは必要なものをここで調達しなければならない。現地の人間全部と敵対して略奪して回るより、一部でも味方につけておいた方がいろいろと都合がいいでしょ。」
「たしかに」
「食料はなんとかなるとして。問題は武器と弾薬ね。補充がなければ弾薬はいずれ底をつくし、武器も消耗する。ここには銃も砲もないときた」
「学者団の持ち込んだ機材と彼らの知識でどうにかならないでしょうか」
ボナパルトのエジプト遠征には多くの学者が同行していた。エジプト遠征は単なる軍事的征服ではなく、文化、芸術の調査でもある……というのがボナパルトの考えからである。フランスの頭脳と言ってよいほど優秀な人材が集められている。
「どうにかならないか? じゃないわ。どうにかするしかない。それにしても材料も人手も場所も要る。この辺は女王様に相談ね」
ボナパルトは体をふき終えて浴槽の横に置いてあるテーブルに畳んでおいてある服に着替えた。
フランス軍の将軍が着用する、金の刺繍が施された紺色の軍服。一着一着が職人の手によって仕立てられているので本来であれば身体にぴったり合うはずなのだがボナパルトは「これから成長するから大き目に作れ」と注文をつけていた。イタリア遠征の頃から着用しているのだが、結局成長することなく一回り大きめに作られたせいで袖が大きく余っていた。仕立て直す機会もあったのだが、もともと服装に頓着しない性分もあって結局そのまま袖をぶらぶらさせている。
浴室を出ると外には護衛を務める擲弾兵とウジェーヌが立っていた。
「ウジェーヌ。どうしたの」
「はっ、クルーミル殿が今晩の夕食を共にしたいと言伝を」
「ウジェーヌ!」
「はっ!」
「報告があればすぐにしなさい!」
「はっ、申し訳ありません。ですが入浴中には……」
「私が風呂にいようが寝てようが何かあったらすぐに伝える!」
「はっ!」
ボナパルトの叱責にウジェーヌは律義に頭を下げた。
ボナパルトはベルティエとウジェーヌ、護衛の擲弾兵を従えて兵士たちが野営している街の外を目指して歩き始めた。
2023.12.11
部隊編成について、八個師団と書いていたものを五個師団に訂正。騎兵・砲兵・工兵の部隊は師団ではありません。