第六十六話 闇の向こう側
陽が落ちて大地が闇に飲まれる。光の殆どない世界ではわずかな月明りが世界をうっすらと暗い青に染めていた。蹄鉄砦の城壁に立つダーハド派の貴族は異様な光景を見ていた。
「奴ら、溝を掘っているのか……」
点々と設けられた焚火の頼りない灯りに照らされて無数の兵士たちがツルハシを振るって大地を掘り進み、土をシャベルで積み上げていくのだ。それは這いまわる巨大な蛇が忍び寄ってくるように感じられた。ガチャガチャと工具が立てる金属音、林がざわめくように交わされる異国の言葉、暗がりからまさに自分たち目掛けて忍び寄ってくる音だった。
「水桶を並べろ。ここの地質は掘りにくいが、坑道を掘っているのやもしれん。内壁に対抗道の準備だ」
城門を守るひときわ高い塔の上からその様子を眺めていたグーエナスは部下に命じた。城壁を越えるには三通りある。一つは、梯子などを使って城壁によじ登る。もう一つは、投石機や破城槌、大砲を使って城門や壁を破壊する。最後の一つは、城壁の真下まで穴を掘り、城壁を掘り崩すというものだ。それぞれ対応策もある。
梯子をかけるというなら、城壁の兵士たちが矢と剣で迎え撃つ。一人ずつ無防備に上ってくるのだから簡単に仕留められる。投石機を使うなら、こちらも壁上に据え付けた投石機で反撃する。破城槌が近づいてくるなら、油を撒いて火矢で焼き払う。坑道を掘って下から攻めてくるというなら、こちらからも壕を掘って水を流し込む。
「敵は閣下の策に乗りました! 近いうちに強襲をかけてくるでしょう。銃とやらには勝てませんが、城壁下で接近戦なら我らの勝ちは疑いありません!」
「うむ……」
迫る戦いの気配に当てられて興奮する部下が戦意をむき出しにするのをグーエナスは抑えた。
「敵をこの砦におびき寄せて攻撃させるのに成功した。ここまではこちらの読み通りだ。だがまだだ。敵の攻撃を撃退し、援軍との間に挟み撃ちを成功させクルーミルとボナパルトの首を挙げてようやく我らの勝利だ」
「はっ……」
策に乗せた。と呼べるのだろうか。グーエナスは目を伏せた。確かに敵をここに誘い込んだように見える。しかしそれはそれが最善だったのではなくそれ以外に手が無かった。からに過ぎない。敵の進軍速度があまりに早すぎて兵を集める時間がなかった。三千の兵で一万を超える敵に野戦は挑めない。ボナパルトによってこの砦に押し込められた、という感も否めない。しかしそれを部下に悟らせるわけにはいかなかった。
おぎゃあ、と不意に赤ん坊の泣く声が響いた。およそ戦場には似つかわしくない声だった。グーエナスが外に向けていた視線を城内のほうへ向けると、赤ん坊を抱えた母親と、その裾に不安そうに縋り付く子供の姿があった。
「……」
「あれは。……お恥ずかしながらあれは私の妻と子です」
傍にいた若い騎士の一人が白い歯を見せて笑い、妻子のほうへ手を振った。
「平民ならともかく、貴族の一族ともなれば敵の手に落ちればどのような目に合うか分かりません。どうしても連れてくる他なかったのです。妻子が背にいると思うと、たとえこの命尽きるとも、城壁を守り通す覚悟です」
「よろしい。見張りに戻りたまえ」
若い騎士が息を弾ませて城壁を駆けていくと、グーエナスはため息をつき、腹心の部下を呼びつけた。
「……ここは戦場になる。乳飲み子を連れてくる場所ではない。私はここに兵士だけを集めるよう命じたはずだ」
「申し訳ありません」
結局、その命令は遵守されず兵士とほぼ同数の非戦闘員がこの砦に押し込まれることとなった。食料は十分足りるだろうが、寝床や居住の空間が明らかに足りず、石造の狭い小部屋に何十人もが詰め込まれ、廊下にすら溢れかえっている。
「籠城する人数が増えればそれだけ兵糧も水も要る。寝床もな。……戦場にならなかった『川辺の都』や戦わずに降伏した『驢馬の市』とは違う。女王の都である『王都』とも違う。剣を交えた後に陥落すれば、敵は勝利者の当然の権利として全てを奪い、破壊するだろう。我々がそうしてきたように」
「ですが、だからこそ兵士は勇敢に戦います。砦が落ちれば、全てを失うのですから」
グーエナスは視線を城壁の向こうに戻す。闇に浮かぶ不気味なかがり火を見渡し、敵の司令官の天幕を見出そうと目を凝らした。
「ボナパルト。戦いとはままならぬものだ。そう思わぬか」
グーエナスは暗闇の向こう側にいる敵将に語りかけた。
◆
そのボナパルトは副官のウジェーヌと師団長のクレベールの二人だけを従え、兵士たちが掘り抜いた坑道の一つに身を隠して城壁を偵察していた。壕の深さは一メートルもなく、身体の半分は晒されていた。
「この部分はどうだ?」
望遠鏡を覗き込んだボナパルトが城壁の一角を指差す。砦から漏れる僅かな灯りと月明りがぼんやりとその輪郭を示して、色あせた赤色のレンガが見えた。
「だいぶ脆くなっているようです。この部分は崩しやすい」
望遠鏡を受け取ってクレベールが応じる。彼は建築について心得があった。
「よし。ではあそこに火力を集中しよう」
「城壁から狙われます司令官閣下。下がりましょう!」
ウジェーヌが司令官の服の裾を掴む。城壁では数人の兵士たちが弓をつがえたり、クロスボウを構えて狙いをつけていた。
「慌てるな。もう少し城壁を調べる。火薬も砲弾も有限だからな少しでも節約するために効果的な場所を見つけておきたい」
「ではせめて腰を低くしてください!身を隠して!」
背後で慌てる義息子にボナパルトは振り返った。
「安心しろ。この暗闇で撃ってはこない。それに、奴らは撃てない」
「どう言うことですか?」
「向こうが撃てばこっちも撃ち返す。なし崩しに戦闘が始まるかもしれない。末端の兵士には戦闘をはじめる、なんて怖くてできない。指揮官なら、今は少しでも開戦を遅らせたいから、仕掛けてはこない。そう言うこと」
ボナパルトは呆然とする義息子の頬を軽くつねると、城壁へ向き直った。
「……クレベール、見えるか。城壁の下、矢を射るための狭間がある。あそこから十字射撃を浴びせられる。あそこも砲撃で潰さなくては」
ウジェーヌは自分より小さいはずの義父の背中が城壁より巨大に思えた。確かに、義父の言う通りかもしれない。しかし、そうではないかもしれない。誰かが射てきても、なんら不思議はない。あの人は自分の判断に命をかけているのだ。いつも、いつも。それはなんと勇気のいることだろうか、と。
◆
地平線の向こうから光が射す。星が塗りつぶされ、インクを垂らしたように暗かった地面が赤茶けた輪郭を現わしていく。ボナパルトはその光に目を細める。襟を立てた灰色のコートをはおったボナパルトは、城壁を調べた後、一晩中歩き回って作業を監督していた。その横では義息子にして副官のウジェーヌが寝不足でおぼつかない足取りで辛うじて立っている。
砦に近づくための壕を掘る者たち以外は、赤茶けた不毛の大地に穴を掘って眠っていた。それがむくりとあちこちで立ち上がる。寒さでよく眠れず、寝不足で落ちくぼんだ瞳を持つ彼らが、風で飛ばされてきた土を払いのけて起き上がるそれは地底から這い出した怪物たちの姿にも似ていた。
薄暗がりの中をボナパルトは歩き、砲兵陣地へ向かった。既に十門の城攻め用の重砲と臼砲が配置についている。重砲は城壁を吹き飛ばし、臼砲はその山なりの弾道で城壁の内側にある構造物を破壊するのだ。
「司令官閣下!」
砲兵陣地ではドンマルタン将軍以下、砲兵たちが準備を整えていた。砲の傍で眠りについた彼らは火薬に引火する危険があるので近くで焚火も焚けず、将軍であるドンマルタンを含め全員が凍えて紫色の唇をしていた。異様に輝く瞳だけが活力に満ちている。
彼らは砲の仰角を調整し、火薬と砲弾を砲に押し込み、導火棹に点火して司令官の号令を待っていた。
「準備はできてるな」
「はい。全て完了しています。いつでも発射可能です」
「よし。砲撃開始だ」
ボナパルトはそっけなく右手を上げて、振りおろした。