第六十三話 草原遭遇戦
『驢馬の市』でグーエナス伯を長とするダーハド派諸侯が『蹄鉄砦』での籠城を決した翌日。ミュラ将軍率いる軽騎兵の偵察隊は『驢馬の市』まで十キロに接近していた。
街道の真ん中を占めて進むフランス騎兵の外側、冷たい風に抑えつけられるように茂る草場をクルーミルに味方する草長の国の騎兵たちが取り囲むようにして走り回る。
時折、口笛をピュウ、ピュウと吹いて合図を送り合う。一定のリズムや鳴らし方でフランス兵が持つラッパよりもよく響くそれを、草長の国の人間は鳥笛と呼んでいた。
「地図じゃそろそろ『驢馬の市』です。……閣下、なんで来たんですか?」
白馬カロリーヌ号に跨って風を切るミュラはその威風堂々とした体躯を縮めて、隣の騎手に話しかける。彼が身を屈めて話すのはこの国ではたった一人だった。
その人物はミュラに比べると見劣りする。濡れた捨て犬のような黒髪を二角帽に押し込み、灰色のコートを着こんで痩せた馬に跨っていた。フランス軍の総司令官、ボナパルトである。昨夜、ミュラの部隊が宿を取っていた村に突然僅かな護衛と共に現れてそのまま先遣隊に合流していた。
「驢馬の市の城壁と道路の具合もよく調べる必要がある。それにお前たち最前線の部隊を引き締めにきた。お前たちは東部地域に足を踏み入れる最初のフランス兵、全軍の顔の一つだからな」
「……にしたって、幽霊じゃあるまいし夜中に来るこたァないでしょう。……顔ってコトなら俺よりいい男はいませんよ。"顔の一つ"ってどういうことです? 二つも三つも顔はないでしょう」
「東部地域はこれまでの地域と違って村の数も、道路の数も多い。デュマとクレベールの部隊が横並びに進軍してるんだぞ。地図上では四キロと離れてないはずだ。部隊は全て相互に掩護ができるように配置している」
「そんなに近くに? このだだっ広い、何もない草原で? 見えないのが不思議だ……」
ミュラは大げさな仕草で当たりを見回した。その時、前方からひときわ甲高く短い鳥笛の音が響いた。
「敵だ!」
そう叫んだのはボナパルトの後ろを追走していた槍のサオレだった。道案内を兼ねて五十騎ほどの部下を従えて随行している。フランス軍の周囲を固めている百騎ばかりの騎兵たちも彼女の配下だった。
「数は……かなり多いぞ。待ち伏せだ!」
周囲からピュウ、ピュウと吹き鳴らされる鳥笛の意味を理解できたフランス兵はいない。サオレが笛を吹き返す。
一瞬にして騎兵たちが殺気立つ。サーベルを抜く金属音が響き渡り、ボナパルトの護衛隊長を務めるベシエールが右手を挙げると、馬と人間の壁がボナパルトの周囲にそびえ立った。
「こんな見通しの良い場所で待ち伏せなんて!」
ボナパルトの横にいた副官のウジェーヌが懐からピストルを抜きながら驚嘆する。彼の視界にはどこまでも、はるか地平線の先まで見通せる草の海が横たわっているようにしか見えない。
「浮足立つな。砲を据えろ!」
ボナパルトが鋭く吠える。護衛隊が曳いていた一門の大砲が準備される。ボナパルトは護衛部隊に必ず騎馬砲兵を連れていた。戦闘用というよりも、象徴的な意味合いで連れていた代物だが、無いよりはマシだ。
敵はどこだ。ボナパルトが背伸びして周囲を窺う。その時、何もなかったはずの草原の至るところから、白、黒、茶、鹿毛、とりどりの馬と、それに跨った人間が姿を見せた。それはあたかも大地が起き上がるようなさまだった。
「精霊の仕業か!」
どこからともなく軍勢が姿を見せるなど、ボナパルトには理解できない。この異世界の神秘、精霊の力としか考えられなかった。
「違う! 奴ら伏せてたんだ。草原に!」
サオレが叫ぶ。
「草原に伏せててたァ?」
ミュラがボナパルトに代わって驚きの声を上げた。
「お前たちには分からんだろう。草原は平坦ではない。でこぼこした起伏がいくつもある。そこに馬と一緒に身をひそめて、我々を待ち伏せしてたんだ。奴らには判ってるんだ! どこが見えて、どこが見えないのか!」
「ちっ」
ボナパルトは舌打ちを一つすると、一瞬沸騰した思考を冷たくして望遠鏡を覗き込み、四方八方から草原を踏み荒らして黒土を掻き込むように疾走してくる敵を素早く見渡した。
「八百から、一千といったところか。もっとか?全体が見えん……」
「一千ですか。俺の部下が二百騎、ベシエールの護衛隊が……今は五十騎ぐらい? 後はサオレのが百五十。ざっと三対一か」
「敵の数が足らんか? 行って蹴散らしてこい!」
ミュラは口笛を一つ吹くと煌びやかなサーベルを抜いて雄たけびを上げた。それに歴戦の男たちが応える。
「よし。我がサオレの一族が武勇を王の友殿にご覧にいれよう!」
槍のサオレも顔を覆う兜をかぶると槍を振り回して配下を鼓舞した。
「ミュラ殿、旗を見るに敵は地元の戦士たちだ。円を描きながら投槍と矢を浴びせてくる。囲まれるな!」
サオレの言葉にミュラは頷き、白馬の腹を蹴ると敵に向かって一直線に駆け出した。
「ベシエール、護衛を下馬させろ。馬と人で方陣を組め。この国の騎兵は方陣を破れん」
ボナパルトが策を立てる。
「義父……じゃなかった。司令官閣下、救援を求める伝令を出しますか?」
「いや。連中はこちらを待ち伏せしていた。伝令を逃がすまいと兵を置いているに違いない。二、三騎伝令を出しても殺されるだけだ。だからといって数十騎を割けば持ちこたえられない」
「ですが、助けを呼ばなければいずれ追い詰められてしまいます」
「心配しなくても砲声が味方を呼ぶ」
ボナパルトは三倍の敵に奇襲を受けたにも関わらず、まるで自宅の書斎にいる時のように落ち着き払っていた。その様子を見て、彼の傍を固める兵士たちは勝利を確信するのだった。
敵に向かって躍り出るミュラの騎兵たちが敵と接触するより先に、大砲が火を噴き戦いの始まりを告げた。
◆
諸侯の騎士たちは数騎ずつに分かれて伏せ、集結する間もなく各々が遮二無二フランス軍へと突っ込んでいく。敵集団を中心に、徐々に円を形成して矢と投槍の雨を浴びせかけるのが常套戦術である。敵が矢を浴びて傷つき、疲弊して陣形を崩せば後は兎を追うように狩りたてる。
フランス騎兵の先頭に立ち、白馬に跨って煌びやかなマントを風になびかせながら突き進んでくる男を見てダーハド側についた若い騎士たちが叫ぶ。
「あの白馬! 王の馬だ! あれがボナパルトだ!」
「奴を討ち取れば一番の手柄ぞ!」
早合点して血気にはやる騎士たちがミュラ目掛けて殺到し、包囲の輪が乱れる。まばらに殺到する敵をフランス騎兵はがっちりと組んだ陣形で迎え撃つ。それは巨大な花崗岩に小石がぶつかって砕け散る様に似ていた。フランス軍は矢を浴びて誰かが倒れると、即座に隊列が埋められて何事もなかったかのように列を埋めて一丸となって敵を追い立てていく。
「いい馬だ。これまでの戦いで俺たちフランス騎兵が劣っているとこの国の奴ら思い込んでやがる。今までの礼をたっぷりとさせてもらおうぜ!」
真正面から向かってきた敵の右腕を切り飛ばしてミュラは叫ぶ。これまで劣った馬で戦っていたのだ。この国の素早い優秀な馬が手に入った今、恐れるものなど何もなかった。
「フランス人どもめ、意外とやるではないか」
敵の心臓に突き刺した槍を引き抜きながらサオレは感嘆の声を漏らした。フランス騎兵という狂暴な獅子が喰い荒らした残りにありつくのは少し気に入らなかったが、彼らが勇猛な戦士たちであることをサオレも、その部下も認めざるを得ない。
「あの人数、あの速度で隊列を保つのはよほどの手練れ共ですな……」
「遺体が身に着ける紋章を見るに、敵はバラバラの一族の寄せ集め連中です。到底、あれに対抗する陣形は組めぬでしょうな」
「勝利は堅いぞ。敵の首を挙げて武功を立てろ!」
◆
「うわあ……戦況はどうなってるんだろう」
人馬で築かれた小さな城塞の内側で馬から降りたウジェーヌは焦燥と興奮の混じった声を上げた。護衛の兵士たちがピストルや騎兵用の短銃を絶えず撃ち放って接近しようとする敵騎兵を撃ち落とす。くわえて、黒色火薬の白煙が視界を遮る煙幕の効果を果たしている。おかげで内側は比較的安全だったが、逆に外の様子は殆どわからなくなっていた。
「落ち着きなさいウジェーヌ。ほっといても勝つものは勝つわ」
ボナパルト音の暴風雨で動じない。本人は馬上に留まるつもりだったが、司令官が敵の的になるのを恐れたベシエールに馬から降ろされていた。
「どうしてですか」
「この国の騎兵連中は強いわ。産まれた時から馬に乗ってるような連中だもの。一対一で打ち合ったらうちの騎兵は負けよ。ミュラみたいなのは別だけど」
「……」
「十対十でも同じでしょうよ。でも、百対百ならうちが勝つ。敵が千、こちらが百でもこちらが勝つ。なぜなら連中は個々人の技量で戦うのに、私たちは一つの集団として戦うから。言うなら無数の小人と巨人の戦いだからよ」
「なるほど……」
「極端な話、百対一を繰り返せば百倍の敵でも破れる。そして戦いは、いかに敵を分散させ、こちらを集中させるかというところにその真髄があるのよ。それを可能にするのは、国レベルなら司令官の頭脳、優秀な参謀、先進的な軍の制度。戦場レベルなら直観に優れた指揮官と、よく訓練された兵隊」
ウジェーヌは義理の父親を畏敬の眼差しでもって見つめた。
「軍隊は突然出てきたりはしない。組織化されるなら必ず存在が察知できる。察知できなかった、不意に湧いてきた敵ということは、そこらの寄せ集めが条件反射的に集まった烏合の衆に過ぎない。敵の指揮官がいかに優れていても、そんな連中じゃミュラの集団を崩すほどの連携はできない。だからこの戦いの勝敗は最初から見えてる」
淡々と思考の種明かしをするボナパルトは、半ば恍惚としたような表情で自分を見つめる義理の息子に近づくと、その耳を軽く引っ張って囁いた。
「あるいは、もし連中が私の目と耳を欺いて兵を集めるほど賢明なら、今更ジタバタしても仕方ない。堂々と死ぬほうがいいわ」
その言葉にハッと心臓を握りつぶされたような感触に囚われたウジェーヌはボナパルトを見なおす。ボナパルトは口角を釣り上げる、意地の悪い笑みを見せた。
「義父上……」
ウジェーヌが言いかけた時、視界の外から飛び込んできた光がボナパルトの馬を貫いた。それは投槍だった。
心臓を一突きにされた馬が悲鳴を発する間もなく手綱を握っていた従卒を巻き込んで倒れた。
「閣下!」
ベシエールが叫ぶ。
「私はなんともない。にしても、不運な馬だ」
◆
「レスナスト様、味方は追い散らされ、崩されつつあります」
「そのようだ」
「敵の歩兵が急速に迫っています。このままでは我らのほうが挟まれますぞ」
「既に諸侯の半分は矢を射つくしました」
矢を射つくす、とは戦場から離脱するという遠回しの表現だった。
「ふーむ……」
レスナストは生えそろっていない顎髭を撫でながら驚くでも、落胆するでもない表情を作っていた。
「まさか、奇襲が失敗するとは……」
「サオレの一族です。あやつらがいたために……」
「騎兵戦で敗れるとは……」
「ダーハド王でさえ敗れたのだ。我らには荷が重すぎたのではなかろうか」
「……」
数で勝り、奇襲を仕掛け、その上得意とするはずの騎兵戦ですら完敗という有様で参加した諸侯は恐怖と失望が混合した声を吐き出していた。
「我々は戦場であの悪霊に勝てんというわけか。しょうがない。引き上げるとしよう! グーエナス伯が蹄鉄砦に入る時間ぐらいは稼げたのだから、無駄骨というわけでもあるまい!」
狼狽する諸侯を前にレスナストはからっとした笑みを作った。
「なぜそんなに余裕そうなのですか。我々は負けたのですぞ」
「負けたからこそ、笑わねばならんよ? 戦場で追い散らされたといっても、討たれた騎士はそう多くはない。戦いはまだ先がある。撤退するとしよう」
「では我々も蹄鉄砦へ?」
「何を言っている。我々は別の退路をとるのだ」
「といいますと」
「戦場で勝てぬなら、別の戦いをしようではないか。集団で勝てぬなら、一対一の戦いをしようではないか。我々の古い戦をしよう」
◆
日が高くなり、砲声を聞きつけたクレベール師団の前衛部隊が姿を現す頃、諸侯の軍勢は次第に数を減らし、蜃気楼のように消えていた。後には百あまりの死体と負傷者、血に濡れて踏み荒らされた草原、そしてフランス軍が残り『驢馬の市』への道が開かれた。