第五十八話 まなざし
雪が降る。昨夜のうちから粉をまぶすように降った雪は王都の建物と草原を白く化粧した。
病に倒れた兵士たちを見舞った二日後、ボナパルトは王宮である石像の館で催された祭りに参加している。
『草長の国』の伝統的なその祭りは麦の精霊に今年の収穫に感謝をささげるための祭りである。上は女王、下は平民まで今日という日は着飾って祝い、身分の別が無視される日とされている。農民たちは家畜を家に入れ、工房の親方は見習いたちの盃に酒を注いで回り、城では貴族たちが召使のために給仕する。それが終われば農民たちは種を蒔き、工房は槌を響かせ、城は台帳に筆を走らせる音と囁く声で満ちるだろう。
この世界で栽培される馬麦と呼ばれる麦は、フランス人の学者たちが推測するに麦の一種に違いなかったが、その育成条件はフランスの麦とは若干のズレがあった。冬の寒い時期に種を蒔き、夏の終わりに収穫するのだ。
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クルーミルとボナパルトから離れた一角では貴族たちが盃を交わしながら話し合いをしている。彼らにとって宴や祭りといった社交の場は酒を飲み踊るためだけの場所ではない。方々から集まった有力者たちと情報や意見を交換し、世情を探り、自らの立ち位置を求める政治の場である。噂話や単なる愚痴、不平、世間話といった泥の中から有益で希少な情報という砂金を拾い集めるのだ。
「御覧ください。あれはエレネト伯です。奥にいるのはアラカサの一族。ウェアザムト伯は代理を出席させたとか……」
「麦刈りの頃など、女王の首を挙げると言っていた者が大した忠節ぶりではありませんか」
「そういう貴殿は王の友殿を排除すると言うサーパマド伯に同意していたはずでしたな?」
「貴殿こそ何が"王の友殿"だ。この間までは悪臭のする異国の傭兵と蔑んでいたではないか」
「ご存じか。王の軍勢のいくらかが都を発ちましたぞ」
「相変わらず仔馬が立つより早い」
「軍には精霊の呪いが下ったと聞きましたが」
「それが女王陛下と王の友殿が見舞われ、ケジー老はこれは呪いではないと宣言されたそうで」
「なんと。老が……ではただの病ですか」
「さて……なんとも」
「そんなことよりも、ソチロタト公の事をお聞きですか。王宮馬事監に任じられたそうです」
「あの大した血筋でもない男がか」
「先の戦いでは参陣してダーハド王と槍を交えていますから。その褒美ということでしょう」
「ふむ……」
「我らも女王陛下にご挨拶申し上げに行くべきでしょうかな……席はまだ空いています」
貴族には多くの人間が仕えている。料理人から武具の管理人、馬の世話、領地や収支、公文書の管理、旅の世話役、乳母、医師、理髪師……そのほか。当然ながら女王にも多くの人間が仕えている。
ダーハド王に対する勝利と王都の奪還はクルーミルに対する諸侯の評価を変化さている。とりわけ、王が任命する官職に対する評価はにわかにその魅力を増していた。
クルーミルが強力なまでに力を増していけば、官職が持つ権限も大きくなる。比例するようにその「役得」も増えていく。最高権力者に側仕えするということが持つ価値は計り知れない。側にいない他の者よりも尊重され、いろいろと便宜を図ってもらえるというものである。
「思えば、あのアビドードが。女王の教育係に過ぎなかった男とその一族が今や宰相のごとく、第一の側近として振る舞っているような状態だ」
クルーミルは兄との戦いの中で多くの重臣たちを失っていった。それは同時に重臣たちが持つそれぞれの兵力や人脈といった有形無形の力をクルーミルから奪うものであったが、ここにきて「官職に空きがある」という不利はクルーミルの武器に反転している。
誰かを何かの地位に就けようとすれば当然、元々その地位にいる人間をその地位から追いやらなければならない。栄転させるにしろ、強制的に解任するにしろ簡単にいく話ではない。ところが現在のところ前任者の多くが不在であり空いた官職の椅子に誰を就けるかはクルーミルの一存で決められるような状況にあった。
いつの日かクルーミルがボナパルトに言った「何もないのが今は武器」とはこの状況を指す。諸侯らは目の前にぶら下がる富と権力の椅子を巡って水面下で駆け引きし、クルーミルにより自分を売り込もうと図るだろう。
無論、官職が空白であり続けることはクルーミルにとっても不利益であるし、諸侯があまりに納得しがたい人事を行えば反発も招く。慎重に取り計らう必要があったが、万事、選ばれる側よりも選ぶ側のほうが強いというのは変わらない事実だった。果たして、この戦乱の中で生き延びるのは、より多くのものを勝ち取るのは誰か。諸侯は油膜を張ったようにぎらついた瞳に彼らの金髪の女王を見つめた。
◆
ボナパルトはいつものように軍服の袖を若干ぶらつかせながら華麗な衣装を纏う貴族たちの発する香水だの香草だのの匂いと、アルコールの匂いに巻かれ広間の窓から広がる凍てついた空を眺めた。ここへきて数カ月たち、ようやく少しは顔を見知った星々が瞬いている。学者たちは今頃望遠鏡を手にして星の巡りを記すのに夢中になっているに違いない。
「これが兵の健康と行軍に響かなければよいが」
覆いかぶさるように降る星を前にボナパルトの口から出るのはおよそ詩的なものからはかけ離れている。
既にドゼー、クレベールの指揮下の師団は王都を出撃した。デュマ将軍指揮する騎兵部隊はいくつかの村に入ったとの知らせも届いている。ボナパルトの頭脳にはクルーミルから提供された地図が熟練の画家が模写するよりも遥かに正確に記憶されている。送り出した部隊は各地の住民を臣従させ、地図をより正確にするだろう。この世界の地図はあまり正確ではない。橋を一つ取ってみても、どこに橋があるかはわかるが、その橋は木製なのか石造なのか、馬車が通れる幅なのか、村人が往来する程度の規模なのかすら確かではない。道も同じ調子だ。
ボナパルトは絶えず思考する。草原に、空の星々のごとく点在する『草長の国』の街と村を。そしてそれを繋ぐ街道が星座のごとく結ぶ。古代のギリシャ人たちが輝く星を結んで神話を紡いだように自分は街と道を繋いで歴史を刻むのだ。そのように考えていた。
「諸侯が勢ぞろいですナポレオン。お体に障りはありませんか?」
声に振り返ると同時に右手が取られる。白く形の良い手から刺繍の施された緑のドレスの袖へ、肩をなぞって顔を見れば、そこには煌々と燃える薪の炎のように明く赤い瞳があった。クルーミルだ。背後には彼女の忠臣であるアビドードの姿もある。参加している諸侯たちへの挨拶をひと段落つけ戻ってきてたのだ。
「大丈夫よ。貴女こそ大丈夫?」
兵士たちを襲った致死率の高い伝染病。その感染者に直接触れ、その血や吐瀉物に触れた。伝染の危険が十分にある。
「貴女が倒れれば全て終わりよ。病気になんかならないで。いいわね」
クルーミルが病に倒れるようなことになればこれまでの労苦が水の泡と化す。ボナパルトは心の底から切実にクルーミルの身を案じた。
「貴女も同じです」
「……」
ボナパルトは気づいた。家族以外の誰かの身を心から心配したことなど今まで何度あったろう? この赤い瞳の女王が変わらず健在であることはどれほど自分にとって大切なことだろうか。どことなく心にさざ波が立ったような気がしてボナパルトは顔をしかめた。
「どうかなさいましたか?」
「別に」
「諸侯があなたと話したがっています。ご紹介しましょう」
クルーミルのドレスの影から何人かの貴族たちが姿を現した。薄い灰色の衣装を着た給仕の者が金の盃に酒を満たすと、ほのかに林檎のような香りが立つ。
「女王陛下と王の友殿に」
「感謝いたします……」
ボナパルトはようやく覚え始めた挨拶の言葉をフランス訛りのあるグルバス語で返して盃を干す。
「この方はエレネト伯です」
右手からクルーミルの声が響く。盃をあおったのは人名を思い出せなかったからだ。
「……エレネト伯殿」
酒を飲み終え、度数の低いアルコールと共に名前を呼ぶとエレネト伯とやらはにっこりと笑顔を作った。ボナパルトは喉まで出かかった大きなため息を飲み込む。フランスにいた頃もそうだが、社交の場というのはどうにも慣れない。言葉や仕草、あらゆるものが取調べを受けているような視線を浴びて不愉快になる。どんなに模倣したところで、赤ん坊のころから所作を叩き込まれている貴族の子弟には見破られるものだ……
こんな時、彼女がいてくれたらどんなに良いだろうか。ボナパルトはふと、ある人物の事を頭に思い浮かべずにはいられなかった。
思考を過去の回廊に進めようとしたとき、また別の人物が前に現れて、それを遮った。
「女王陛下! 陛下!」
数百人を超える人間が立てる声や物音を貫く、広間の天井を叩くほど通る声が響いて、諸侯の耳目は一点に集中した。
クルーミルとボナパルトの前に跪いたのは、血よりも赤い深紅の長髪を三つ編みにし、額に傷のある女だった。ボナパルトはその顔に見覚えがある。
「サオレデュラの領主、槍のサオレが陛下に拝謁致します!」
戦場の喧噪にあっても、その声は百人の部下に聞こえるだろう。晴れやかな声だった。突然の挨拶に背後に控えているアビドードがクルーミルと彼女の前に壁を作ろうとして、クルーミルの左腕に制止された。サオレデュラの領主といえばさほど有力な身分ではない。本来であれば女王のほうから声をかけなければ口を利く事すら非礼とされる。
「今日は麦の精霊の日です。アビドード」
クルーミルは無礼を罰しようとした重臣を諫めた。建前とはいえ、今日は身分の別を忘れる日である。サオレはその建前を生かして女王に願い出た。
「ようこそ。槍のサオレ」
クルーミルは微笑みで応じた。
「あの時の女領主か」
「ご存じなのですか?」
「王都包囲戦の前に捕虜にして尋問したことがあるわ。こんなところで何をしている?」
「王の友殿が軍を動かしたと聞き、ぜひその旗下に加えていただきたく参上いたしました」
ボナパルトはクルーミルを見る。
「既に進発しているデュマ将軍が道案内を務めることができる地元の協力者を求めているわ」
「今後、諸侯の兵を募るにしても味方にするのが良いと思います。一度は敵対した人間を用いるのは政治的な効果も期待できます。しかし軍の判断は貴女にお任せしますナポレオン」
「よし」
ボナパルトは槍のサオレに向き直った。
「従軍を望むなら私の命令に絶対服従してもらう。それは良いか」
「母なる河に誓って」
「動かせる兵は」
「騎兵が四百」
「東部地域の事情に詳しいか?」
「生まれた時より存じています」
「明朝、出発できるか」
「今夜にでも!」
「よろしい! 軍に加わることを認める。立て」
「ありがとうございます」
顔を上げた槍のサオレは大輪の花が咲くように破顔して立ち上がった。
「では明朝、夜明けに緑の精霊門の前に兵を集めろ」
「はっ! ……して、それとは別に王の友殿」
立ち上がったサオレはクルーミルの背丈とほぼ等しかった。すなわち、ボナパルトは彼女を見上げる格好になる。サオレが口を開く。その言葉は意味ではなく感覚としてボナパルトに伝わった。痛みとして。
クルーミルと繋いでいるボナパルトの右手が絞り上げるようにキツく握られた。
「痛ッ、なによ」
「あの、目の前にいらっしゃるサオレが言うには、自分を妻に娶って欲しいと……」
クルーミルは半分呆気にとられたような表情で、サオレのほうを向いたままボナパルトに伝えた。
「なに? どういうこと? は?」
ボナパルトには自体がよく呑み込めない。
「ですから、彼女は自分と結婚しないか、と……」
「……」
ボナパルトにはようやく事態が飲み込めた。なるほど。政略結婚の勧めである。有力者に嫁いで一族の関係を強化し、立場を強くするのは貴族にとって当然の選択肢だ。そう考えれば意外な話ではない。自分は数万の軍の長であり、今やこの国に強い影響力を持っている。自分に近づこうとする者が現れるのは何ら不思議ではない。自分にもその経験がある。駆け出しの貧乏士官だった頃は財産のある女性に脈絡なく求婚の手紙を書いて送ったりしてみたものだ。成果は無かったが。
それにしてもこのサオレとか言う人物は女王に話しかける胆力といい、一度は敵対した側に加わる決断といい、これといい、なかなか度胸があると言うべきか。いささか唐突で性急だが、攻撃というのは奇襲でこそ威力があるというものだ。一族の命運をかけているに違いない。これは、戦力としていくらか期待が持てるかもしれない。ボナパルトの思考はそう傾斜した。
「ナポレオン?」
クルーミルの不審げな声でボナパルトは現実に引き戻される。
「ああ」
「ご返答は?」
「私は既に妻子がいるので妻にはできない。そう答えておいて」
ボナパルトの思考は既にサオレの騎兵をどう動かすかにシフトしている。
「痛ッ!」
もう一度、今度はより強く手が握られた。
「あの、ご結婚されていたのですか? お子さんが?」
クルーミルが雷に打たれたような顔をしてボナパルトを見ていた。二人の間でだけ飛び交った電流を知覚し得ないアビドードとサオレは表情を目まぐるしく変化させる女王と手の痛みに口をへの字に曲げるその友を交互に見やった。