第六話 呼び名
称号とか異名とかって良いですよね
「この地を離れることができない」
ベルティエからの報告にボナパルトは血相を変えた。
「どういうことだ、説明しろ」
「はっ、ブリュイ提督の報告によれば羅針盤等は相変わらずまったく使い物にならず、それでもフリゲート艦を何隻か送り出したものの、そのすべてが押し戻されてきた……と」
「押し戻された?」
「はい。陸地が見えないほど沖に出ると途端に無風状態になる上、強烈な海流で陸地まで押し流されるようです」
「…………」
ボナパルトは俯いて腕組みする。ベルティエは背を屈めて自分より背の低い上司の顔を伺った。
「浜辺に残した部隊を任せているクレベールはどうしてる?」
「クレベール将軍は周囲の木を伐りだして本格的な野営地を準備しています」
「よし。さすがだ」
「閣下、どうしますか。このままではエジプトどころかフランスに帰ることすらままなりません」
「わかっている」
ボナパルトは考える。この地を離れることができない。どういうわけかはわからないが、海と船に精通しているブリュイ提督がそう言うのだからどうにもならないだろう。
「とにかくもっと情報が必要だ。ここがヨーロッパなのか、それともアフリカなのか、大陸なのか島なのかそれすらわからないようでは手の打ちようがない」
「はい」
「とりあえず兵士たちにはこの事は隠せ。私たちは遭難なんかしてない。予定通り目的地に到着している事にすること」
「はい」
ボナパルトはクルーミルに向き直った。
「いや、失礼しました。ちょっとした報告がありまして」
「なにか慌てていたようですが」
「いえ大したことありません。ベルティエにはちょっとしたことでも報告するよう言ってあるので本当にちょっとした事でも大げさに報告してくるのです。いや本当に大したことはありませんご心配なく」
ボナパルトはあわただしく喋った。
「なら良いのですが。ボナパルト、話の続きですが。貴女たちにはこれからも協力していただきたいのです。お願いできませんか」
「あー……」
「貴女たちの力があれば、王位を取り戻し、国を統一して民に平和と繁栄をもたらせると思うのです」
「そう、そのことですがもう少しこの世界について詳しく教えていただけませんか最初に言いましたが私たちは海の向こう……『日の住む大河』の向こうにあるフランスから来たのです。この世界の事情がまだよくわからない」
「……そうでしたね。改めて私のことを話します。私はクルーミル。偉大なる王グルバスの娘です。父は四方を『日の住む大河』に囲まれたこの大地の民を統一した偉大な王でした。父王が亡くなってから国は兄と姉、そして私の三人に三分割して与えられました。私が与えられたのが『草長の国』です。父王は「兄弟仲良くし、民を治めよ」と言い残しました。しかし『斧打ちの国』を与えらえた兄のダーハドはその遺言を守らず私たちの国を攻撃してきたのです。私たちは抵抗しましたが、ダーハドの軍は強く、抗いきれませんでした。戦いに敗れ、私はこの地まで落ち延び、貴女たちと出会いました。そこからは御存じのはずです」
「……つまりこの国は分かたれた国の統一をかけた戦争の最中というわけか」
「その通りです」
「貴女は何度敗れた?」
「26回の戦いに敗れました」
「26回も?」
ボナパルトは驚いた。それほど戦いに負けてなお、彼女は戦場に倒れることもなく捕らえられる事もなく、戦い続けたというのか。一度や二度の敗北ならともかく、それほど敗れることが出来るというのは「それだけ戦えた」ということに他ならない。
25回敗れてなお、26回目の戦いを挑める兵を集められる資金力、人望、組織力が彼女には残されていたということだ。それは驚異的なことだ。なによりその意志。それほど敗北を重ねれば「もう勝てない」と思うのが人間というものだ。あるいは、それだけ負けても学習しない無能の輩か……
「ボナパルト、改めてお願いします。私に力を貸してください私に国を統一し、民に平和で安らかな日々を与える力をどうか私に」
クルーミルはボナパルトの前に跪いて見せた。そばに控えているアビドードが息をのむ。
「その見返りは?」
「私が与えられるもののうち、貴女のお望みのものを」
私の望むもの。
ボナパルトは思う。
私が欲しいもの、私の野望。
ボナパルトは渇望する。
クルーミルの後ろにはアビドードをはじめ彼女の家臣たちが不信そうな表情でボナパルトを見ていた。ボナパルトは彼らの目をよく知っていた。
よそ者を見る目。
フランスに征服されたコルシカ島で生まれ育ったボナパルトがフランスの軍学校に入学してからずっと向けられていたその目。
「お前は俺たちとは違う。お前は藁っ鼻のよそ者だ」
不信と嘲笑、侮蔑と軽蔑の眼差しを受けて生きてきた。
フランス人たちに自分を認めさせてやる。それはエジプトとその先に広がる世界で叶えるつもりだった。
だが、その前にここにいる連中に自分を認めさせてやる。ボナパルトの青みがかった灰色の瞳。焼きつくし、燃え尽きた後の灰のような輝きを持った瞳がろうそくの灯を反射した。
「クルーミル女王、どうかお立ちください。貴女の民を思う気持ち、承知しました。改めて貴女に協力をお約束しましょう」
「本当ですか? 本当に?」
「ええ。本当に。お約束します」
「ありがとう!」
クルーミルは思い切りボナパルトを抱きしめた。
「ぐえっ」
彼女の強い抱擁にボナパルトは一瞬呼吸が出来なかった。
「貴女に呼び名を与えます。偉大なる王グルバスの娘クルーミルの友にして『草長の国』の王の友、日の住む大河の先の人および炎と雷鳴の使い手、勝利者……」
「長い。何者であるか尋ねられたら王の友であると答えれば?」
「ええ。そういうことです。私のことを公の場で「我が友」と呼ぶことを許します」
「これまで通りクルーミル女王と呼んでも?」
「個人的な場所ならクルーミル、と呼んでください」
「……わかりました。ところで「我が友」」
「はい。なんでしょう。「王の友」ボナパルト」
「この世界に風呂はある?」