第五十九話 見えざる手、見える手(前編)
「英雄の館」にて負傷兵への勲章の授与を済ませたボナパルトとクルーミル、随員たちはその足で隣の屋敷を訪れた。「英雄の館」の付近には王に近しい貴族たちの屋敷がいくつか連ねられており、王をはばかって豪華さや広さは抑えられているがそれでも十分な広さを持つ屋敷がある。その一つをフランス軍は接収し病気にかかった兵士たちの入院する病院として利用していた。
病院長の部屋に入ったボナパルトはそこでクレベールとドゼー、二人の師団長のほかに老け込んだ老人と合流した。
「クレベール、ドゼー。こんなところで何をしている?」
ボナパルトが問う。軍の出動準備に忙しいであろう彼らを呼んだ覚えはなかった。
「私がお呼びしました。両閣下にも話す必要があると思いまして」
答えたのはデジュネットで、ボナパルトは一言も発さなかったが自分の命令にないことをやった軍医監に刺すような視線を投げつけた。
「司令官閣下、こちらが副院長のケジー老です。彼がグルバス人の医者たちを統率しています」
病院を取り仕切る軍医監のデジュネットがボナパルトに紹介した。
「女王陛下とその友に精霊の声を聴く者がご挨拶申し上げます」
ケジー老と紹介された人物が恭しく頭を下げ、グルバス語で挨拶した。ボナパルトは皺が深い、枯れ木のような老人が子供のように瑞々しい声で挨拶することに少し戸惑うようにクルーミルを見た。
「ケジー老はこの国で指折りの精霊との交信者です」
ボナパルトの手を握るクルーミルが伝える。
「交信者? 医者じゃないの?」
「人を癒すのは精霊の領域ですから。交信者たちには癒しの術に精通した者が多くいます」
ふぅん、とボナパルトは納得した。神にしろ、精霊にしろ、いわゆる聖職者に分類される人間が医術を司っているのはこの世界でも元の世界でも似ているらしい。
ボナパルトは背後に控えている面々に視線を送った。クルーミルの家臣であるアビドードとニッケトが何やら両手の指を複雑に絡めてケジー老に差し出すような仕草をしている。カトリック教徒が十字を切るようなものかもしれない。と判断した。この世界の精霊や信仰について興味がないわけではないが、学者たちに委ねる範疇だろう。
「本題に入ろう」
ボナパルトが言うとデジュネットが数枚の書類を差し出した。それは入院患者の名簿であり、名前と入院日が記されている。「王都」の陥落から今日に至るまでその数はおよそ四百名を数えた。うち何名かの名前には赤線がひかれている。病死したのだ。
「もう一枚……」
別に差し出された紙にも目を通す。同じように名前が書かれていた。インクが乾ききっていない。その数は約百名。
「こちらは一週間に入院した兵士の名簿です。このうち四十名が昨日までに死亡しました」
ボナパルトは書類から顔を上げ、デジュネットの顔を見た。異常な数字だ。一個中隊に匹敵する兵士たちが一発の銃弾を撃つことなく倒れて失われている。これが十日も続けば一個大隊。百日続けば一個師団。あっという間に軍隊が消耗しつくす。軍隊にとって疫病は銃弾や砲弾よりも恐ろしい破壊者だった。
「患者の症状は軽い発熱にはじまり、血の混じった嘔吐と脱毛、脱水といった症状に見舞われ急激に死亡します。手を尽くしたのですが……隔離するのが精いっぱいです」
戦慄するべき致死率だった。
「申し訳ありません」
"本題"とはこのことだった。デジュネットは信用に足る軍医だった。軍内部に急激に疫病が蔓延している……といち早く報告を届けた。その報告を受けた時、ボナパルトの内心は穏やかではなかった。
報告を受けた後、ボナパルトは行動しなかった。というより打つべき手段が何もなかった。事が政治や戦争のことであれば稲妻より早く動くことができるだろうが、病気について打つ手がなく傍観する他なかった。
「致死率四十パーセントか。戦場にいたほうが安全だ」
クレベールが溜息をつきながらいう。ボナパルトがこれまで指揮した、どれほど激しい激戦だろうと参加した人間の五人に二人が死ぬような戦いはなかった。歴戦の勇者さえ怯まずにはいられない数字である。
「我々はこの報告を初めて受けますね。軍医監」
ドゼーは恐るべき報告書に目を通しながら言う。患者には彼の部隊の兵士も含まれている。
「兵の士気に関わるので司令官閣下から極秘にするよう命令がありました」
「師団長である我々はこれを知る必要があった。そうではありませんか」
「知ったとして、何かできたか。士気が下がるだけだ」
ドゼーはボナパルトのへの字に曲がった口元を見、それから青灰色の瞳を見た。もしこれが逆なら、我々が手の施しようのない悪い情報を隠したとしたら、あなたは雷のように叱責するでしょうに。と口には出さなかった。
二人のやりとりを聞きデジュネットは疑念を深めた。もし自分が将軍たちを呼ばなければボナパルト司令官はこの疫病を秘密にしておくつもりだったのではないか。兵士たちが陰でのたうちまわっているのに、それを平然と無視したのではないか? 我々はこの異世界で運命共同体であるからには、全ての情報は司令官から兵卒まで共有されるべきではないのか……
ボナパルトから事情を聴くクルーミルはその赤い瞳を衝撃で満たしている。
「なぜこのことを黙っていたのですか?ナポレオン」
「……」
ボナパルトはクルーミルから顔をそむけた。フランス軍が疫病に苦しんでいるなど、弱みを見せるわけにはいなかった。たとえそれがクルーミルであっても。
「ですがここにお呼びだてしたのは、ただ報告を見せるためだけではありません。事態についてケジー老が打開策を見つけたとのことですが……高度な政治判断を必要とすることでしたので、閣下と女王陛下のお二人に……」
「ほう。ぜひお聞かせ願いたい。しかし病気の治療に政治に関わるとは?」
ボナパルトにとって関心があるのはそこだった。
「これは精霊のもたらす呪い。この都は精霊に愛されるドルダフトン公が治めていました。彼と戦ったことで精霊が怒り、災いを異国の人間にもたらしたのです。この病から逃れるには精霊の怒りを鎮めるほかありません」
ケジー老の声色が奇妙に変化する。若い子供としゃがれた老人が単語ごとに交互に喋っているような声色である。
「我ら民には守護精霊がつき、他の精霊の呪いを受けにくいものですが、このフランス人たちは違います。彼らには精霊がない。ゆえに、精霊の呪いを受けやすいに違いありません」
「悪霊がフランス人に呪いをもたらしているというのですか?」
「その通りでございます」
「ばかばかしい!」
ボナパルトは吐き捨てた。
「もし精霊がフランス兵に呪いをかけられるなら、なぜ私を呪わない? 兵隊を百人殺すより私一人を殺したほうがずっと簡単だろうに。そんな馬鹿な話があるものか。デジュネット、こんな妄言を吐く人間の言葉を信じたのか?」
「この世界は我々にとって未知です。少しでも可能性がある以上、閣下のお耳に入れないわけにはいきません」
「ばかばかしい」
ボナパルトは繰り返した。
「ですが、ケジー老の言葉で納得がいく部分もあります。この世界は我々にとって未知です。かつて我々はアメリカ大陸に疫病を持ち込みました。それとは逆のことが起きているのではないでしょうか。この世界の人間には耐性があり、我々にはない風土病のようなものが」
「……」
「王の友殿が信じようと信じまいと、兵が倒れている事実は変わりません」
ボナパルトは精霊が呪いをもたらしているなど信じる気にはならなかった。
「ナポレオン、これは大変なことです。精霊の呪いとなると」
クルーミルがボナパルトの手を強く握った。
「馬鹿ね。そんなものがあるわけないでしょう。風土病か、タチの悪い伝染病か何かよ」
そう判断するに足る理由はある。王都に入城以前からフランス兵たちは劣悪な野外に長く置かれたし、入城後は人口は過密状態だった。冷え込んできて、街にはネズミが出る。疫病が流行るには十分すぎる条件がそろっている。少なくとも、得体の知れない精霊の仕業などではない。
「そうかもしれません。しかし、軍が呪いを受けたと聞けば諸侯の判断に響きます」
ボナパルトは歯噛みした。精霊であれ、何かの病気であれ兵が病に苦しんでいるのは現実だった。精霊がフランス軍を罰している。そういう風聞がたてば信心深い者たちの支持を得るのは難しくなるだろう。元の世界で言えば、ローマ教皇に神の敵だと言われているようなものだろうか。疫病が広まり軍が弱体化すればさらに問題は広がるだろう。せっかく築き上げたものが、打つ手のないまま崩れ落ちていく。そんなことは断じて許容できなかった。
「よろしい。これから私が患者たちを見舞おう。それではっきりする。もし精霊が軍を呪っているなら、その呪いは必ず軍の指導者である私を呪うだろう。私が病にかからなければ、ただの病気だ!」
後編は土日のうちに更新されます