第五十八話 忠誠と勇気により
ボナパルトが『草長の国』東部への進軍を決定した翌日。都は晴れていた。陽光は都にいくつかある丘の一つにあるひときわ大きな屋敷にも注ぎ込んでいる。
かつては王が所有した「隼の館」と呼ばれたその屋敷はボナパルトによって「英雄の館」という名に改められ、今はフランス軍の外科医のトップであるドミニク・ラレの管理下の元に負傷して手足を失ったり、目や耳を傷めた負傷兵のための治療と療養の施設となっている。フランス人、グルバス人を問わず負傷した兵士がここで清潔なシーツと十分な食事を与えられ過ごしていた。
その「英雄の館」の大門を、遠くからでもよく見えるように赤く塗られた六頭立ての馬車がくぐる。降りてくるのは不機嫌な狼か、さもなければ雨に濡れた捨て犬を思わせる印象を与えるボナパルト。明るく周囲を輝かせるほど見事な金の髪を持つ女王のクルーミル。続いてその横にピタリと影のように付く参謀長のベルティエ、ボナパルトの義理の息子で副官のウジェーヌが続く。
整列した軍楽隊の奏でる勇壮な音楽が全員を出迎える。
「女王陛下。司令官閣下。お待ちしておりました」
出迎えたのはラレとデジュネットだった。ラレが外科を司り、デジュネットが内科を掌握している。
ボナパルトとクルーミルはこの日、負傷兵に勲章と年金を与えるためにこの場を訪れていた。
中庭に並んだ兵士の数は二百と十一人。騎士の斬撃で斬り飛ばされた左手、槍で突き刺され手術台で切り落とされた右足。矢に射抜かれた右目。中には友軍の誤射を受けた者もいる。並んだ者たちは一様に身体のどこかを失っていた。
クルーミルはその光景を見て痛ましいと思わずにはいられない。自分が行っている事とはこういうことなのだ。死者と負傷者を無数に生み出しながら、その一方で死を悼み、負傷者を憐れむのはなんという矛盾だろうか。戦場跡で繰り返し幾度となく見た傷ついた者たちを見るたびにクルーミルは自問せずにはいられなかった。
この人はその答えを知っているのだろうか。クルーミルは隣に立つボナパルトの顔を見た。
「私はこの光景を見るたびに己を疑ってしまいます。私の行いは、正しいのかと」
「それで?」
「いつもその答えを出せずにいます。貴女には答えがわかるのでしょうか?」
「答えを私たちが知ることは永遠にないわ。私たちに出来るのは舞台の役者のように、ただ振る舞うこと。評価は観客がする。そう思ってるわ」
「観客とは?」
「さあ? 後世の民衆よ。気まぐれで移ろいやすい」
ボナパルトは思い出す。民衆の喝采を受けて冠を戴いた王が、罵られながら首を刎ねられる様を。冴えわたる弁舌で民衆を導いた革命家の死に涙を流したはずの民衆が、その遺体を引きずり出して投げ捨てた事を。権力の頂点を極めた男が一夜にしてその地位を失い断頭台に乗せられたことを。
「民衆が私を見る……」
クルーミルはボナパルトの言葉を響くように感じた。自分は王の娘として生まれ、玉座こそが己の証明と思い戦ってきた。国の統一も己のためだ。そのために命を落とした者たちに報いたいという思いもある。が、それは個人的な意思に過ぎない。
より大きな視点があるとは、統治する民が自身を判断するなど思いもしなかった。クルーミルはその燃えるように赤い瞳を大きく輝かせた。
「それなら、後の世に評価を委ねましょう。そして、評価に値するよう振る舞います」
クルーミルはゆっくりとボナパルトから手を離すと、召使が持ってきたメダルを整列する負傷兵の一人の首にかけた。銀で作られた掌の半分ほどの大きさのそれには表にグルバス語で「忠誠と勇気により」と刻まれている。裏には戦いの場所と、名前が刻まれる。
「あなたの忠誠と勇気に王の名を以って報います」
勲章を受けた兵士の頬に静かに涙が流れる。
このメダルは単に名誉のものではなく、三十日に一度このメダルを持ちそれぞれの街に置かれる王の代理人の館を訪ねれば一定額の年金をもらえることになっていた。多いとは言い難いが、日々の食事にありつける額が保証された。資金は女王から出される。
兵士たちは女王のために戦い傷ついた英雄として故郷に帰る。彼らはもはや除け者ではなく誇りとなる。女王と民を結び付ける絆の一つになるだろう。とボナパルトは見込んでいる。負傷兵の救済を通じて民衆に女王の威光と恩寵を知らしめていくのだ。そうすることで、彼らを一つに結び付けていく。名誉と富で結びつけられた、銃後のもう一つの軍団だ。
その隣の兵士の首にも同様にメダルがかけられる。ラレにはメダルを受ける兵士の顔に見覚えがあった。あの、腕を失くして泣いていた兵士だ。名誉といくらかの富は決して腕の埋め合わせとはならないだろう。しかし、何もないよりは遥かに良いに違いない。
「女王万歳!」
兵士は腕を失った時と同じぐらい大きな声で叫んだ。
「女王万歳!」
「万歳!」
負傷兵たちの間でそれは波紋のように広がり唱和される。
クルーミルは瞳に溢れるものを零さぬように空を見上げた。どこまでも青い空が広がっている。