第五十七話 駆ける目と耳
「極上の軍馬だ」
王都の郊外にあるフランス軍が練兵場として用いている平原の周囲よりも僅かに十メートルほど盛り上がった場所に立ち、フランス軍の騎兵を監督するデュマ将軍は上機嫌だった。乾いた寒風が肌を滑っていくのさえ、女神の愛撫のように感じるほどに。デュマの隣でそれを見ているクレベール将軍も興奮を隠しきれない。
デュマの最上級の黒檀を思わせる黒い肌に浮かび上がるように対照的な大きな白い瞳には、隊列を組み、草と土を勝ち誇るように踏み荒らしながら駆ける馬と兵士たちの姿が映る。一頭数百キロの人馬の塊がたてる轟音は鼓膜を激しく震わせ、一斉に百万の太鼓が打ち鳴らされるようだ。
高らかにラッパが吹き鳴らされると、騎兵たちは無言のうちにまるでパズルのピースをはめるように隊列を変え縦長の陣形を組む。もう一度吹き鳴らせば、次は横に並ぶ。まるで一つの生き物のように陣形を組み替えるのは長年の訓練と実践が可能にする達人技だった。
騎兵たちの群れの中で一騎が先頭に躍り出た。見栄えの良い白馬の上に跨るのは、ひときわ目を引く特製の軍服に身を包んだ騎兵隊長のミュラ将軍だった。彼が操る馬は他の駿馬の中でもひときわ力強い。王族の馬である。クルーミルからボナパルトに贈られ、ボナパルトからミュラに贈られたその馬にはカロリーヌという名前がついている。髪をなびかせ、サーベルを掲げるその様は一人、絵画の世界から飛び出してきたような風で、巧みに馬を乗りこなし、彼に従う騎兵たちは自分たちの隊長に口笛を吹いて快哉を叫んだ。
「相変わらず絵になる奴だ。そう思わないかダヴー?」
ミュラを見やりながらそう言うのは同じく騎兵部隊を指揮するラサール将軍。彼もミュラほどではないが見栄えが良く、戦場に出れば兵士たちの注目を集め、街を歩けば若い女性から中年のご婦人まであらゆる女性の視線を独占するような男だった。
「……」
言葉をかけられたダヴー将軍はまるで聞こえていないように黙ったままだった。ダヴー将軍は若いがミュラともラサールとも対照的にやや前髪が薄く、威厳がある、と言う言葉を通り越して苛烈と言えるような形相の持ち主だった。彼にとって戦いの場に見栄えの良さや派手さというものは不要である。
フランス軍はこのグルバスに来てからというもの、慢性的な軍馬不足に苦しんでいた。三千人いる騎兵のうち、馬に跨れた者は千名ほどで、残りは鞍を担いで歩兵のように戦うしかない有様である。そのためにボナパルトは戦場で敵を倒しても、それを追いかけて徹底的に打ちのめすことができず一度ならず勝利の美酒に泥を入れられた気持ちになった。
その状態がようやく改善されたのだ。ようやく軍に十分な数の馬が用意され、三千の騎兵たちは今までのうっぷんを晴らすように馬に跨り「草長の国」が誇る小柄だが軽快でバネに富んだ馬を乗りまわす。
「次の戦いでは敵を徹底的に叩きのめすことができるな。出動が待ちきれん」
デュマの横にいるクレベール将軍は強い風を受けてライオンのたてがみを思わせる髪をなびかせながら言う。デュマもクレベールもこの遠征には反対の立場だがこの時ばかりは大幅に強化された自軍で敵と戦いたい。という好戦的な感情が盛り上がるのを抑えきれなかった。
「ああ」
デュマは力強く答え、懐中時計を見た。
「そろそろボナパルト司令官が来る。行こう」
◆
王都包囲戦の際に司令部として用いられた農家がそのまま今もフランス軍の司令部として使われている。書類棚の類をはじめ、総司令部としての機能は王都に移されているが集会場としてはちょうどよかった。司令部を訪ねたデュマは蝋燭灯りの頼りない光に照らされた部屋の中に見知った顔を見る。
一人はサイズの合わない軍服の袖を持て余すようにしながら口をへの字に曲げるそれは不機嫌な子供を連想させるボナパルト司令官。その横に必ずいる神経質そうな参謀長ベルティエと、青白い肌と温和な目を持つ師団長のドゼー。子供と大人の中間地点の顔立ちを残すボナパルトの義理の息子、副官のウジェーヌ。
「デュマ将軍、ここ数日の騎兵の調練の成果はどうだ」
「万全です。馬は従順で我が兵士たちにもすぐに慣れました。極めて優秀な馬を得てわが軍は百人力といったところです」
「よろしい」
普段ボナパルトと不仲と言ってよいデュマも上等な軍馬の補充を受けて言葉を弾ませて応じた。対するボナパルトはそれに打ち解けた風でもなく、相変わらず部下に接するぶっきらぼうで尊大な口調で話を続ける。
「しばらく軍を王都で休めたが、前進の時だ」
ボナパルトは当然の口調で言うが、新たな戦いの予感にデュマとクレベールは心地よい緊張が流れるのを感じた。剣が抜かれる時が来た。
「この『王都』と『斧打ちの国』の間に横たわる東部地域へ先遣隊を送り出す。春の訪れとともに始まる本格的な進軍を円滑に進めるために、敵対勢力を排除し、現地の住民を従順にし、補給物資を運び込み、地理を調べ、軍の通行を妨げる要素を排除するのが任務だ」
冬の間じっとしているボナパルトではない。『斧打ちの国』へ至る地域を確保する準備を整えていた。ボナパルトは軍馬が整うのを待っていた。騎兵は地形を調べ、敵を探り出すための目であり耳である。騎兵の準備が整わないというのは目と耳をふさがれているに等しかった。今や、その目と耳は改善され活動するに十分である。
「一週間のうちにドゼー、クレベール両師団とデュマ将軍の騎兵隊を動かす。準備せよ」
「はっ」
三つの声色が重なる。
「改めて言うが、現地住民に対する略奪や徴発は一切許可しない。規律に違反した者はその場で処罰せよ」
ボナパルトの言葉にデュマはとりわけ深く頷いた。
ドゼー、クレベール、デュマの三人の中でデュマだけがボナパルトのイタリア遠征に付き従った経験がある。イタリアでのボナパルトは現地政府や住民から容赦ない物資の徴発を行い、反乱を起こした村を躊躇せず焼き払うまさに歩く地獄のような人物だった。デュマが何度それをやめさせるよう求めても応じることは決してなかった。
◆
デュマは記憶の回廊からイタリア遠征での一幕を思い起こす。ボナパルトの命令である村から強制的に小麦と家畜が徴発されたことについて抗議に出向いた時のことだ。
「閣下、民衆から奪うとは何をお考えなのですか。我々はこの地に自由と平等をもたらすために来たのではありませんか。それがこのような……」
ボナパルトは報告書に目を落としたままデュマに応えた。
「兵士たちが飢えている。共和国政府は軍に必要な金も物資も送ってこない。私は兵士たちを食わせなければならん。貴官にもそのことは分かるはずだ」
デュマは答える術がなかった。現実問題として兵士たちを餓死させないためには食料は必要であり、それを得るには奪う他に選択肢はなかった。ボナパルトは兵士と民衆を天秤にかけ、兵士を選んだ。その決断の非難しておきながら、その恩恵に浴している自身も非難を避けられる立場でないことを知りつつ、デュマは司令官に忠告した。
「それは百も承知です。しかしながら閣下。必要であるということは道義にもとる行いを何ら正当化しません。そのことをお忘れなく」
ボナパルトは顔を上げると、そびえる山脈のような巨体を誇るデュマをまっすぐ見つめた。その燃え尽きた灰のように青みがかった灰色の瞳に射抜かれたデュマは一瞬呼吸が止まるように感じたのを覚えている。
「心得ているとも。下がり給え」
イタリア語のアクセントを感じる、コルシカ訛りのフランス語で司令官は答えた。
◆
そんな人物がこの世界に来てからと言うもの、住民との関係を重視し、現地の支配者を尊重している。今回の軍馬の補充についてもそうだ。
馬ならなんでもよい。ということなら「草長の国」には十分な馬がいた。草原地帯に住む人々はフランス軍に馬を売る。
しかし荷物運びをする馬は良いが、騎兵が跨る軍馬となると事情は違う。轟音と血の匂いが充満する戦場にあって怖気づかず、乗り手に従順に従い、敵に向かって全力で駆け抜けることができる馬は貴重なもので馬にまたがる民である「草長の国」の人々はその価値を十分承知し、何十代にもわたって優秀な馬同士を掛け合わせ、血統を守り、質を高めた。軍馬は大砲や軍艦同様に重要な軍事物資なのだ。
軍馬を生産管理する「草長の国」の貴族たちはそうした重要な軍馬をよそ者に売ろうとはしなかった。金貨を積み上げようと軍馬だけは頑なに引き渡さなかった。
イタリアにいた頃のボナパルトなら貴族たちから強制的に馬を差し出させたに違いない。しかしボナパルトはまずクルーミル女王に軍馬を求め、それを受けた女王が敵対した諸侯から没収した軍馬や税として諸侯から集めた軍馬を提供するという形でボナパルトに届けたのだ。
諸侯たちからすれば愉快なハズはないだろうが、少なくとも現地の法に基づいたものである。馬以外の食料をはじめとした物資についても強制的に奪うことをしていない。
行動が変化したのは司令官が変わったのだろうか。イタリアでは出来なかったことが、この世界では出来るということなのだろうか。イタリアとこの世界では何が違うのか。それとも、あの赤い輝くような目をした女王がいるからだろうか。デュマは判断がつかなかったが、ともかく自分が不名誉な略奪者にならずに済むことを感謝した。そしてそれが続くように願う。
「それは良いですが司令官閣下、現地の情報が欲しいですな。地図などはないのですか」
クレベールが言う。
「無論、地図はクルーミル女王から提供してもらっている。後で渡そう。だがやはり自分の目で見る必要がある。この世界の地図はあまりアテにならんからな」
「もう一つ、現地の事情に詳しい協力者が欲しいところです」
付け足したのはドゼーだった。
「出兵にあたってクルーミル女王からも兵が出るだろう。その者たちがアテにできるはずだ。ほかには……」
ボナパルトと三人の将軍たちは軍を動かす詳細について議論を進めた。決して大きな声ではないが、それは遠くで響く雷鳴であり、数千、数万の男たちが立てる軍靴の響きの序曲であった。