第五十五話 名誉の軍団(後編)
2024.5.12.
一部加筆修正しました。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。
ボナパルトが徴募兵軍団についてランヌ、ランポン両将軍と会談して数日後。
フランス軍の古参兵、ヴィゴは当面の宿泊先として割り当てられたグルバス人の老夫婦の家でヒゲを剃っていた。昨日買ったばかりの、何を搾ったのか得体の知れない油を髭に塗り、曇った手鏡を見ながら使い古した剃刀でヒゲを整える。
「うちの部隊を司令官が見に来るなんて急に言われてもなあ……」
ヴィゴが慎重に剃刀を扱う横でぶつぶつと不満をたれるのは彼とペアを組む新兵のジャック。
「司令官が突然なのはいつものことだ」
「花形帽章なんかなくしちゃったよ……」
「他の部隊の奴から借りてこい。服のボタンはきちんとつけろよ」
ヴィゴはヒゲを剃りながら横眼でボタンを縫い付けるのに苦労しているジャックを見た。
「うへえ。ヴィゴさんはなんでそんなに物持ちがいいんですか。服のボタンは全部そろってるし、ゲートルはキレイだし」
「お前とは場数が違うのさ。靴も借りてこい。靴用のワックスもな」
「ねえねえジャック。私は何を着て行ったらいい?」
針に糸を通そうとするジャックに野原を走りまわる小動物を思わせる少女が話しかける。この二人のフランス兵と共に行動するハンド・カノン兵のワフカレール。「川辺の都」で徴募されたワフカレールら現地の兵士には制服と呼べるものがなかった。麻布で出来た普段着を着ている。
「ワフカレールいまちょっと近づかないで。決まりがないからなあ……そのままでいいんじゃない?」
「頭に花をさしていこうか?」
「いいんじゃないかな……」
「私もジャックたちみたいに綺麗な軍服が欲しいなあ。騎士みたいでかっこいいし」
「そうかな」
「貴族の戦士たちはみんなお揃いのマントとか、コートを着てるよ。誰がどこの人かすぐわかる」
「そういえばそうか……制服にはそういう意味もあるんだなあ」
ジャックはたいして感銘を受けた風でもなくボタンを縫い付けた。
◆
正午。「王都」の城壁の外、兵士たちの閲兵に用いられる草原に徴募兵軍団が勢ぞろいした。青々と茂っていた草は繰り返し兵士たちに踏み均されてすっかり失われている。
ボナパルトは「王都」を占領してから頻繁に閲兵を繰り返した。二日に一度は各師団から選ばれた半旅団や大隊を整列させ点検した。
これには兵士たちの士気を高めるほかにも狙いがある。クルーミルの元に集う貴族たちに自分の軍事力を誇示するのだ。千人の兵隊を戦場に集める事はこの世界の貴族にとってさほど難しいことではない。
しかしそれを常に。となると話は変わる。貴族が集める兵士の大部分は農民や町人であり、彼らは日々畑を耕し、薪を割り、糸を紡いでいる。彼らを兵士として動員し続ければその分、領地の生産が滞り致命的となる。ゆえに、常に兵士たちを集め続けることは難しい。
傭兵を雇うという手もあるが、その場合は費用がかさむ。戦闘があるわけでもないのに兵士を集め、いつでも動けるように留め置くのは困難である。それをボナパルトはやっている。
整列した徴募兵たちは定員千人のハンド・カノン組と定員九千人の槍組に分かれる。
それぞれが百人単位で一塊を成していた。しかしそれはフランス軍のように統率の取れたものではなく、単に人数を数えるのに便利だからそうなっているにすぎない。
槍の長さに規定は設けられたが明らかに不揃いで二メートルもないようなものもあれば、三メートルを超えるものもあり、兵士たちの服装もバラバラだった。
支給された給金でヘルメットや胸当てを買ったものもあれば、全て飲み代に換えてしまい槍一本が全てという者までいる始末だった。
ハンド・カノン組は服装こそまちまちだったが獣の角をくりぬいて作った火薬入れを腰に提げ、支給された先端に壺が付いたような見た目のハンド・カノンを誇らしげに右肩に担いでいる。中でもひときわ背の低いワフカレールはここにいる。
部隊を統率するランヌ将軍が改めて数えさせると、ハンド・カノン組は七百二十人、槍組に至っては四千と六百五十八人しかいないことが分かった。
戦死した者も多いが、脱走した人間も多い。高い給金や冒険を求めて大して考えもせずに志願したものの、恐怖に駆られて逃亡した者、故郷が恋しくなったもの、兵隊暮らしに嫌気がさした者が多数出ていた。
ある徴募兵は事前に担当者から従軍期間は二十五年と聞かされていたにもかかわらず、いつも貴族たちがやるような、農閑期だけの従軍と思い込んだまま軍に入り、王都が陥落した直後に退職時の土地と金を担当者に要求して困惑させていた。
当初集めた合計一万の兵士たちは一季節の戦役の間にすっかり半減してしまっていた。
「ある程度計算に入れていたが、これほど減っていたとはな」
整列した兵士たちを見てランポンが呟く。彼らとて指揮下の部隊を把握するのに務めていたが、指揮官と兵士たちとを繋ぐ中間の指揮官たち、伍長や大尉と呼ばれる下士官や士官が圧倒的に不足だ。
「質の悪い連中に出す金が減って好都合だ。兵士は数より質さ」
同じく、徴募兵たちを指揮するランヌは不敵な笑みを浮かべてみせた。
これらグルバス出身の徴募兵たちのハンド・カノン組の横に紺色の制服と三角帽子を被る一団が並ぶ。彼らはムヌウ将軍の師団、第十三半旅団から抜き出された約六百人の大隊である。彼らは経験未熟な徴募兵たちを掩護するために派遣された者たちだった。ヴィゴとジャックはここにいる。
「注目!」
整列した兵士たちの前方に設けられた簡素な舞台の上に彼らの総司令官が姿を現した。ボナパルトだ。背丈の小さな、子供と見紛うような姿だが、その眼から向けられる眼差しは文字通り光を放つように感じられる。
舞台の上にもう一人が上がる。ボナパルトとは対照的に美しく輝くような長い金の髪と暖かな眼差しを持つ女王、クルーミルだった。
「女王様だ。間違いないよ。フランス人が酒場に貼ってた新聞っていうやつの絵にあった」
「あれが?俺たちに何の用だろう?」
徴募兵の間でひそひそと話し声が漏れる。
ボナパルトは沈黙していた。ざわめきが次第に大きくなり、やがて薪を燃やし尽くして自ら消える炎のようにおさまってからようやく口を開いた。
「勇敢な大陸軍の兵士諸君」
その言葉が通訳の声を通して徴募兵たちに届く。
「私と女王は諸君らの戦いぶりに満足している。諸君らは、ダーハド王の率いる無敵の騎士たちを打ち負かし、王都に女王の旗をひるがえした。伝説の勇者たちでさえ、諸君らの示した勇気の前には赤面するに違いない! にも拘わらず、諸君らは歴史に不滅と輝く栄光を手にしていない」
ボナパルトはゆっくりと話す。
「ワフカレール! 川辺の都のワフカレール! 前へ出ろ!」
ボナパルトに唐突に呼び出され、ワフカレールは飛び上がった。
「は、はい!」
ハンド・カノンを杖のようにして前に進み出るワフカレールの身体はカクカクとぎこちない。戦場はともかく、人々の前に出るのは初めてだった。全ての人間の目が自分に注がれて、視線が痛い。
「壇上に上がれ」
壇の傍にズラリと並ぶクルーミルと家来とボナパルトの部下の前でワフカレールは緊張で固まる。
「ワフカレールだ。司令官に呼ばれてどうしたんだろう」
「さあな……」
ジャックとヴィゴはワフカレールを案じる。まさか処罰されるようなことはないだろうが。
壇上に上がったワフカレールの手をクルーミルがとる。白く、柔らかく、温かい手だった。徴募兵の間ではざわめきが再び起こる。貴族が平民に触れることなど、まして女王が兵士に触れることなど信じられないことだった。
「大丈夫です。緊張しないで。落ち着いて」
身体に流れ込むクルーミルの言葉にワフカレールは驚いた。優しく穏やかな気持ちになるのだ。精霊に愛された人間が使う術というものをワフカレールは初めて体験する。
「貴女に名誉を授けます。跪いて、私の右手にキスを」
ワフカレールには何が何やらわからなかった。目を白黒させて言われたままに跪く。
「聞け!」
クルーミルの腹心、ニッケトが声を張る。
「川辺の都のワフカレールは、先の「戴冠の丘」の戦いにおいて騎士を打ち倒した。その功績により、伍長の階級を与え、女王の名において名誉冠を授ける。さらにその名を「王都」に建てる戦勝記念の柱に刻むものとする」
召使が持ってきた羊の骨で出来た白い冠をクルーミルがワフカレールの頭上に載せる。それは古の時代に貴族たちが戦いに赴くときに被ったもので「草長の国」の民にはなじみ深いものだった。昔の英雄たちの物語を演じる演劇では必ず英雄が被る冠なのだ。それは英雄の証である。手柄を立てた貴族の騎士が被る事があっても、平民が被ることは決してない。
「さあ、立って。皆さんに手を振って」
冠を受けたワフカレールはゆっくり立ち上がり、そのまま兵士たちのほうを向いた。驚きに満ちた無数の顔が見える。ワフカレールは気恥ずかしさと、心の底からふわふわと沸き上がる得体の知れない高揚感に包まれていた。
「これより先、戦場で功績を立てた者は、名誉の冠を受ける。私は諸君らに黄金の富を約束した。今度は不滅の命を約束しよう。すなわち、名誉だ。この少女、ワフカレールは今後、部下を持つこととなる。さらに能力があれば、百人、千人の部下を持つ指揮官になるだろう!」
次いでボナパルトは懐から掌ほどのメダルがついたネックレスを取り出すと、ワフカレールの首にそれをかけた。少女の胸元に黄金のメダルが輝く。
ボナパルトはワフカレールを皆の前に立たせると続いて部下の名を呼んだ。
「第十三半旅団のヴィゴとジャックも前に出ろ!」
名を呼ばれた二人は顔を見合わせて、それから前に進み出た。二人を見つけたワフカレールが緊張した顔を少しほころばせる。
ボナパルトは現れた二人の散兵にも同じように勲章を授けた。無邪気に喜ぶジャックの横でヴィゴは首に下がる鎖を不吉なもののように感じる。それでも、確かな高揚感があるのは疑いない。
ジャックとヴィゴ、そしてワフカレールの三人を推薦したのはランヌ将軍だった。功績もある。フランスとグルバスの混成部隊。二つの世界の住人の結束を示すにはちょうど良い見本にもなる。
彼らは昇進と名誉に向かって結束する一つの軍団となるのだ。
「秀でた功績を立てたものには、フランス、グルバス、平民、貴族を問わずにこのメダルを授与する。このメダルを受ける者は新たな集団に属する。富でも血筋でもなく、ただ己の、名誉ある行いによって定められる地位。名誉の軍団に属するのだ」
ボナパルトが言葉を続けると事態を理解したフランス兵の間でまず拍手が起こった。要するに、昇進したのだ。兵卒から伍長に。フランス兵の間で勇敢な人間の昇進というのはごく当たり前の出来事だった。
そして同時に少女から下がるメダルに視線を注いだ。輝かしい行いの証。名誉、栄光、賞賛の対象であることが一目で分かる輝きを放つもの。
一方で「草長の国」の徴募兵たちは事態を理解するにつれてざわついた。
「戦ったら俺たちでも指揮官になれるだって?」
「部下を持てるなんて本当か」
「あの名誉冠を俺も?」
「俺はなりたい。金なら畑を耕しても稼げる。でも部下を持つなんてことは!」
徴募兵の多くは生まれてから死ぬまで農民や町人として生きる。一つの定職を得られるならおそらくそれを死ぬまで。都市の日雇いなら仕事を変えることもあるだろうが、日々、その日の食事のために働いて生きる。常に最下層の人間として、誰かに命令され、指図され、従って生きる。兵士になったとしてもそれは変わらない。
何かをやって地位を高めることができる等、何千という人間の前で賞賛されることなど、まして女王の手に触れることなど。信じられないことだった。もし自分の人生を自分の力で切り開けるなら。高貴な血が流れていなくとも、書物を読む学が無くとも。ただ己の度胸と勇気、両手と両足でそれが掴めるなら。誰かの上に立てるというのは。物語の英雄たちのように、下っ端から上へと上ることができるなら。
光輝く名誉の魔性に魅入られ、野心に火をつけられた者たちの大地を蹴る音と叫びが晴天の霹靂のように草原を駆けた。
ボナパルトは彼らの瞳に火が灯るのを見た。さらに上へ、高くへ、舞い上がろうとする人間の意志が放つ輝き。全てを照らして、全てを焼き尽くすそれを人は栄光と呼ぶ。それは人を力強く結びつける絆であり、人を引きずるための鎖なのだ。
集団の中で認められる、憧れの対象となる。すなわち、日の当たる居場所を得るということ。それは人の奥底にある切なる感情。それを巧みにくすぐり、富と権力で彩ってやれば抗える人間など多くはない。
ボナパルトにはその魔力がよくわかる。なぜなら自分もまた、それに引きずられ、追い求める人間なのだから。