第五十四話 包まれた価値
サーパマド伯の処刑の翌日。王都の空は青く、乾いた風が住民の間を吹き抜けていた。肌に触れる空気はいよいよ冷たく、水仕事に励む者たちの表情が文字通り凍てつき始めていた。
ボナパルトは王宮に居を構えてはいるが、執務の大部分を没収した王宮に近い貴族の屋敷で行っていた。女王が住まう王宮で誰かと面会し、あれこれ指示を出すのは権威と礼節の問題から避けている。
今日の訪問者はボナパルトの資金源を支える大商人ネーヴェンとその息子リニーヴェン。それに「川辺の都」にて軍の財務と補給を担当しているフランス人のブーリエンヌと、発明家のコンテだった。
「ナブリオーネ! 久しぶりだ」
ボナパルトが応接室に姿を見せるなり、ブーリエンヌは椅子から立ち上がり両腕を広げて顔色をほころばせ、ナポレオンのコルシカ時代の呼び方、ナブリオーネを使って呼びかけた。ボナパルトはその態度にむすっとした表情で応じる。
「ブーリエンヌ。他人がいる前でなれなれしい態度をとるな」
「ちぇっ。幼年学校からの付き合いなのに偉ぶっちゃってさ、友達に冷たい奴だ。了解であります司令官閣下!」
「私がお前を補給担当にしている意味をよく考えろ」
「そりゃ俺が有能な行政官だからさ……」
お前が有能? ボナパルトは自分より背の高いブーリエンヌを下から睨みつけた。
「お前は人並みの仕事ができればそれでいいんだ。私がお前に期待しているのは忠誠心。ただそれだけだ。お前は古い友達だからな、ブーリエンヌ」
「勿論だとも」
ボナパルトが後方の行政官に期待しているのは卓越した能力ではない。ただ報告を正確にし、職権を利用した不正を行わず、物資をきちんと前線の軍に送り届けること。それだけである。補給担当者というのは職権上「役得」が多い。商人と結託して物資を横流ししたり、数字をごまかして代金を懐に入れる輩などいくらでもいた。
「私はこの前、不正を働いた大隊長を処刑した。もし同じことをすればお前だって関係ないからな」
「まさか。俺は知ってるよ。お前が友達に酷いことはできないって」
「……」
「わかった、わかったよ。誠心誠意、正直に職務に精励します」
「よし」
ボナパルトは席に着くとネーヴェンに声をかける。息子のリニーヴェンがそっと手を伸ばすので、その手を取る。リニーヴェンにはクルーミル同様に精霊の力を介して手に触れた人間の意思を伝える力があった。
「ボナパルト様。お久しぶりです。王都の攻略をお祝い申し上げます」
「ネーヴェン殿には感謝している。ご子息を連れていたのを不思議に思ったが、通訳か」
「はい。それだけでなく、これから閣下の活動範囲が広がることを考えますに、息子には私の分身として閣下との連絡係をやらせようと思うのです。これもそろそろ世を知るべきでしょう。本来なら私が直接出向くべきですが……」
「大商人ともなれば無理もない。ご子息の勇敢さと聡明さは知っているつもりだ」
褒められてリニーヴェンは少し顔を赤くした。
「ネーヴェン殿、先にこちらの要件をお話してもよろしいか?」
間にコンテが割って入る。流暢なグルバス語だ。
「どうぞ」
「司令官閣下。学士院から提案があります、御覧いただけますか」
コンテは淀みなく言葉をフランス語に切り替え、何枚かの書類を差し出した。そこには奇妙な建物がいくつもスケッチされている。円柱型の建物、その頭上には両腕を伸ばした人間のような器具がぶら下がっている。
「これはなんだ?」
「通信網の改善設備です」
「説明しろ」
「原理は簡単です。この装置は『腕』を折り曲げることでいくつかのポーズを取る事が出来ます。例えば、右腕を挙げて、左腕を下げれば『A』、右腕を水平に、左腕を上げれば『B』といった具合に。事前に単語に対する意味を伝えておけば、『V』の一文字で『勝利した』という意味を伝えることもできます」
「海軍の旗信号のようなものか」
「その通りです。この塔を都市と都市の間に、それぞれ互いが見える位置に設置して、伝言ゲームをさせるように合図を出しあえば、馬を飛ばすよりも早くにメッセージを伝えることができる。というワケです。フランス本国では既に実施されている手法で、その効果は実証済みです。二十五キロ先に十分足らずで文章を送信可能です」
その通信速度にボナパルトは目をみはった。「王都」から「川辺の都」まで百キロと少しを一時間もかからずに情報が駆け抜ける。しかも双方向に。こちらが命令を発した数時間後には返信を受け取ることができる。
「ふむ……だが問題があるな。この信号装置はどこからでも『見る』ことができる。敵に通信を解読される危険がある」
「馬での伝令も捕まる危険はあります。暗号を作ったり、『腕』のポーズに対応するアルファベットを変更することなどで十分対応できるかと思いますが」
「……採用しよう。人手と資材が要るな」
ボナパルトはネーヴェンのほうを見た。
「コンテ殿から既にお話は伺っています。費用については我々がご用立てできるますが、条件がございます」
「というと?」
「その装置を我が商会にも利用させていただきたい。日にニ、三回、数十文字を送信させていただくだけで結構です」
軍人と同じく商人たちにとっても情報の早さは運命を左右する価値を持つ。他の商会よりも先に商取引の情報を交換できたなら。どこで何の商品が値上がりしているか、値下がりしているか。需要があるか。それらをいち早く入手できたなら莫大な利益を生み出すことができるだろう。
「よし。認めよう」
ネーヴェンの商会が利益を上げるということは、商会の経済力を背景にしているボナパルトにとっても利益があることだった。
ネーヴェンは続ける。
「ありがとうございます。費用についてはお約束できますが、建設にはもう一つ問題があります」
「それは?」
「この通信装置はその性質上、いくつもの貴族の領地を横断することになります。いくら金があっても、土地の貴族の許可なしに建物を建てることはできません。その点は閣下に解決していただきたいのですが」
「わかった。それは私が女王に掛け合おう」
「ありがとうございます」
「コンテ、早速仕事に取り掛かれ。冬を越したらわが軍は進軍する。冬の間に完成させろ」
「最善を尽くします」
コンテは書類をまとめると速足で部屋を出た。リニーヴェンの目線がそれを追いかける。先生はいつも素早い。
「ボナパルト殿、もう一つお話がございます」
リニーヴェンの手を伝ってボナパルトに言葉が流れる。
「伺おう」
「物資の購入についてですが、ブーリエンヌ様の依頼で私どもが会計を調べましたところ、物資の買い付けにあたって、私どもの商会の商人たちが不正に値段を釣り上げていたことがわかりました」
「ほう……」
異世界からやってきたフランス軍にとって、この世界の品物の相場など分かったものではなかった。よほど法外な値を吹っ掛けられない限り、現地の商人からすればぼったくりのような値段でも何の疑問も感じず支払ってしまうことがよくあった。
「詳細をまとめた報告書はブーリエンヌ様にお渡ししてありますが、二千と五十六枚の金貨をお返しします」
「それはありがたく受け取ろう。しかし、黙っていれば分からないだろうに。あなたがたは損をしたことになるが?」
ボナパルトが言うとネーヴェンは懐から握りこぶしほどの黒い布袋を取り出した。口は赤い紐で縛られ、ネーヴェンの商会を示す紋章が描かれている。テーブルに置くとチャリンと音が鳴った。
「この中には金貨三十枚が入っている。……ということになっています」
「どういう意味か?」
「この袋の中は本当は銀貨かもしれなければ、鉄くずかもしれません。ですが金貨が入っている。という約束にして互いに信じあい、金貨三十枚として取引します。現在、この世界では実際に存在する金貨よりも大きな額が帳簿の中に存在します。全てを現物の金貨で取引していては間に合いません。信用が商売を大きくするのです」
「ふむ……」
「それに閣下には戦いに勝利していただかなければなりません。閣下の力を弱めるような事は決して行いません。我々の利害は一致しているのですから。私は閣下『の』味方です。どうかそのことをお忘れなく」
リニーヴェンは父親が握る手に込めた力の強さに驚いた。
「この金貨は閣下に差し上げます。王都陥落のささやかな祝いの品とお思いください」
◆
全ての会談が終わって客人たちが帰った後、ボナパルトは応接室に一人残ってネーヴェンが置いていった金貨の袋をじっと見つめた。そしてゆっくり袋を縛っている紐をほどいて中身をテーブルの上に広げた。
ちゃり、ちゃり、ちゃりと音を立てて黄金色の硬貨が滑り落ちる。表には王冠、裏には斧が描かれたミナル金貨。その数は三十。