第四十九話 鏡に映るもの
『王都』にある宮殿『石像の館』は『川辺の都』の『オーロー宮』と比べると、射手が敵を狙うための防御塔や壁に空けられた狭間の数が少ない。防御機能が無いわけではないが、より見栄えの良さが重視されており壁は白く塗られているほか、この世界では貴重なガラス窓が多く用いられている。この宮殿を作らせたクルーミルの父、グルバスはここを住居、社交や統治の場として整備してクルーミルに与えた。
『石像の館』の二階、鏡の部屋と呼ばれる一室がある。この世界では大変珍しい、大きな鏡が置かれていることからその名がついていた。女王の居室である。クルーミルにとって馴染み深い部屋。父王が存命中だった頃は広い国土を視察して回る父王に付いて回っていたので長く住んでいたわけではないが、父王が『草長の国』を巡る時にはここが住まいであったし、父王が没して正式に『草長の国』の女王として戴冠してしばらく、兄ダーハドとの王位を巡った争いによって都を追われるまで彼女はここに暮らしていた。
クルーミルはこの部屋で座り心地の良い椅子に腰かけて思案にふける。脳裏を占めるのはボナパルトと別れた後、諸侯からの話。クルーミルの侍女スーイラと側近のニッケトが傍に控えている。
諸侯の話は要約すれば二つ。一つはそれぞれの論功行賞。今回の戦いに際して手柄を立てたのだから、それに見合った恩賞や特別の配慮、従軍に際してかかった費用の補償を求める。というものだった。
貴族たちにはその地位を国王が保証する代わりに一定期間、王の求めに応じて軍に加わる義務がある。一定期間を超えると彼らが軍に留まり続ける義務はない。そこからは彼らを軍に引き留め続ける見返りが要る。忠誠心をつなぎとめるためにも必要だろう。
「諸侯は今回は義務期間を超えた日数分の軍の維持費と報酬を期待しています」
そう告げるクルーミルの側近、ニッケトの声色は低い。
「その求めは正当です。今回の戦いで得た戦利品を把握して、諸侯に分配するよう手配しましょう。足りなければ王の取り分を割くように」
「承知いたしました。これに関してもう一つ、報告がございます。例のサーパマド伯らの反乱の一件です。彼らに対する処罰ですが、反乱に加わった貴族たちの領地と特権を没収し、我々に味方する貴族たちに分配することで大方の諸侯の同意を取り付けることができました」
クルーミルは首を僅かに縦に動かした。
「この方法は今後も王の力を拡大するのに役立つかと存じます。すなわち、貴族たちに同輩の諸侯の領地や特権を奪い取る機会をチラつかせ、分裂させるのです。彼らの不和と分裂は王を利するものです。中立派を分裂させるのはいかがでしょうか?」
ニッケトは落ち着き払っている。
「ダーハドを破り、王都を奪い返した事で我々の武威は高まりました。中立の態度をとっている諸侯に、より強い態度で味方になるよう求めることができます。我が方に与すれば良し、中立は王に対する裏切りと見做すこともできます。罪状はいかようにも立てられます。従軍の義務を果たさなかった。ダーハドに兵を出した、あるいは領地を通過するのを黙認した、兵糧を提供した……反逆罪に問い、特権を奪えます。既に我々に味方している貴族たちは賛成するでしょう」
感情を表に出す双子のノルケトと違い、ニッケトはあまり感情を表に出さない。感情の無い、文章を淡々と読み上げるような口調で彼は話を続ける。しかし、表情や声には出さないもののその口数の多さが彼の熱意を証明していた。暖炉にくすぶる白くなった木炭のような静かに、しかし温度の高い熱である。
「ダーハドに味方したことを重く罪に問うなら、ダーハドに負けて諸侯を保護する務めを果たせなかった私も罪に問われるべきではありませんか?」
「王を裁ける者はありません。この策はお気に召しませんか」
「私は国を分裂させたいのではありません。統一したいのです」
「統一には王の強大な力が必要となります。たとえお心に背くとも」
「分かっています。私の個人的な好き嫌いを持ち込むべきではありませんね。その件は保留しましょう」
「承知しました。それともう一つの……」
「ナポレオンの事ですね」
「はい」
諸侯の話のもう一つ。王の友ボナパルトの扱いについて。彼らは控えめに、遠回しに言葉を慎重に選んではいたがボナパルトを遠ざけ、できるなら追い払うように求めている。
クルーミルは右手でこめかみを押さえた。その仕草があまりに自然で優美だったので侍女のスーイラは思わずため息をついた。
「以前、諸侯はボナパルトを軽蔑していました。今では諸侯はボナパルトを恐れています」
ニッケトは一瞬スーイラに視線を送り、改めてクルーミルをその視界の中心に捉えて言う。
「諸侯の懸念は尤もです。ボナパルトは野戦においてあのダーハド王の軍勢を打ち破り、攻城戦においては殆ど犠牲らしい犠牲も出さずに王都を陥落させました。いかに守備兵の士気が挫かれていたとはいえ、王都はこの国で最も強固な城壁を備えていました。それがこうも脆く破壊されたのです。もしこれらの力が敵に回れば、何人がそれを阻めるでしょうか」
「ゆえに排除しろと言うのですか? 私の友はこれまで幾度となく私のために力を尽くしてくれました。それに刃で報いるのですか?ナポレオンの軍勢は極めて強力で、関係も良好です。諸侯からすれば面白く無いのは事実でしょうが、私たちにとっては必要不可欠です。諸侯が何を言おうが私は彼らと共に歩むでしょう」
「私が思いますに、諸侯がボナパルトを恐れ、排除しようとしているうちは何も問題になりません。問題は諸侯がボナパルトを支持し始めた時です。これからもボナパルトの力を借りる事となるでしょう。勝利の栄光が彼らの頭上に輝きます。……それに諸侯がなびいた時。まことに畏れ多い限り、不敬の極みと承知の上あえてこのような不吉な事を申し上げることお許しいただきたいのですが、万一にも、諸侯が女王陛下を排してボナパルトを新たな王として戴こうとし、ボナパルトがその気になったとして、果たしてそれを阻むことができるのでしょうか?」
「それは」
クルーミルはニッケトが言葉が完全に消えるよりも先に口を開いた。
「それは、なにか証拠があってのことならともかく、憶測でそのような事を言うのは王の友を陥れようとする讒言です。慎みなさい」
「申し訳ございません。ですが……あえて申し上げます。陛下を守るため、多くの者たちがダーハドとの戦いで命を落としました。陛下にはそのことをどうか」
「分かっています。彼らの事を忘れた事はありません。彼らの流した血に誓って、私は誰にも我が玉座を脅かすことを許しません」
クルーミルはその燃えるように赤い瞳でニッケトを見つめる。その身を焼かれたような感覚がしてニッケトは深々と頭を下げた。その頭上に降り注ぐように鐘の音が響いた。気づけば窓から差し込む陽光は赤みを帯び、光源は地平線に沈もうとしていた。
「夜には宴がありますから着替えます。スーイラ」
クルーミルが立ち上がる。ニッケトはもう一度深く頭を下げると、部屋を出た。
クルーミルは大きな鏡の前に立った。スーイラがリスが木を登るような軽やかで熟練した動きでクルーミルの衣服を脱がせていく。全身を映す鏡の前に立ったクルーミルは以前より少し背が伸びたように思った。
「ナポレオンは、鏡を見た事があるかしら?」
「こんなに大きな鏡は世界中どこにもありません。きっと見た事が無いと思います」
「もしそうなら、今度この鏡を見せてあげたい。驚くかしら。喜ぶかしら?」
「きっと喜ばれます」
「そうなら嬉しいわ。私はあの人を喜ばせてあげたい。浜辺であった時から、今まで。あの人には何度も助けられてる。もしあの人がやってこなければ、私はまたこうしてこの鏡を見ることはなかったもの。あの人にはこの国の宝を全てあげてもいい。なのに、皆はあの人を取り除きたがっている……」
「ニッケト様も、貴族の方々もクルーミル様の為を思ってのことと思います」
「ええ。分かっているわ。スーイラはどう思う? どうしたら良い?」
「わ、私にはわかりません。クルーミル様の思われること、なさることがいいと思います」
「そうね」
クルーミルは笑みを作った。
衣服が脱がされ、素肌が露わになるとクルーミルは右腕を伸ばした。白い肌に僅かに浮き出るように青い線が走っている。ここには父王から受け継いだ青き血が流れている。この血。この血が自分を女王たらしめているのは血。そうでなければ、鏡に映っているのはただの非力な小娘に過ぎない。
生まれながらにして、自分は不和の種だったのかもしれない。父王は自分に領地を残した。そのことが争いをもたらした。ボナパルトには、出会った時、ダーハドが一方的に攻め込んできたと言った。その言葉に嘘はない。だが全てでもない。自分がいなければ、そもそも争い等起きなかったのではないか。そう思う時がある。しかし自分は女王に生まれた。女王であることは自分そのものだ。自分はそれに拘った。大した才能に恵まれたわけでもないのに。そして、争った。敗れた。家臣たちがその報いを受けて倒れていった。自分は、自分で考えている以上に、冷酷で残酷な事ができるのかもしれない。いや、してきたのだろう。私の玉座は臣下の血の上に浮かんでいる。ああ、それでも。いや、だからこそ、自分は女王であることに拘るのだ。クルーミルはそう思う。
「私の望むこと。それは二つ。一つは国を一つにすること。もう一つはあの人が私の傍にいてくれること」
「ニッケト様はボナパルト様を恐れているようでした。クルーミル様は怖くないのですか? あの力は?」
「怖くない、と言えば嘘。でも安心もするの。それに怖がったところで仕方ないじゃない?」
クルーミルは笑った。
自分は多くの者たちに支えられてきたし、支えられている。ナポレオンはそのうちの一人だ。自分が今よりもっと大きな力を得ることができたなら、諸侯やニッケトが言うような排除論からナポレオンを守れるに違いない。あの人には助けられてばかり。これからもそう。それでも、自分の力を強めることで、臣下たちの血や、ナポレオンの恩に報いることができるだろう。力が欲しい。非力なままでは選択肢が少ない。望む未来を掴むことなどできない。であるなら、何があろうと、進み続けるほかないのだ。今更生き方を変えられるはずもない。クルーミルはそう思った。