第四十八話 水面に映るもの
「はあああああ……」
湯気の立ち込める熱い浴槽に身を沈めたボナパルトは深い息を吐きだした。
アビドードの甥でありクルーミルの側近でもあるノルケトに部屋に案内された後、ボナパルトはそこに執務用の机や家具、書類を運び込むように副官のウジェーヌに命じると、部屋の模様替えが終わるまでの時間を利用して宮殿の浴槽に浸かることにしたのだった。
「しばらくは毎日風呂に入れるかしらね」
独り呟いてボナパルトは浴槽の縁を軽くコンコンと打つ。大理石でできているのだろうか。緑と白がコーヒーにミルクを垂らしたようにねじれながら複雑な模様を示していた。浴槽はクルーミルが「大きい」と言っていただけあり、小柄なボナパルトなら縦に二人は入るほどで横幅も両腕を広げるに十分ある。
全身が温まり、水の中の身体が浮き上がるような感覚に身を委ねてボナパルトは目を閉じた。
身体はなんと幸せだろう。このように風呂に入れば日々の疲れから逃れることができる。だが脳は、思考は、精神はそうはいかない。常に緊張を保ち走り続けることを義務付けられている。考えることは多い。フランスに帰る。これが最大の目標だ。そのためには東に進む必要があり、その前には数万の敵が待ち構えている。戦闘になれば必ず勝つ。勝算の問題ではない。必ず「勝たねばならない」のだ。負ければ我々に戻る場所などない。この異国の地に全員が骨を埋めることになる。
我々には大砲がある。銃がある。歴戦の将軍たちがあり、熟練の兵士たちがある。おそらくこの世界で最も強力な軍勢であることは間違いない。だが、戦うには兵士たちにパンを食わせ、靴から帽子、サーベルから銃に大砲を与えなければならない。大砲も銃も撃てば消耗するし、火薬も弾丸もなくなる。サーベルとて折れるだろう。
学者たちに兵器工場を作らせ、火薬を製造させてはいるが、時間がかかるだろう。艦隊の火薬を融通させよう。ブリュイ提督は渋るだろうが、今は動けない軍艦よりも陸軍に火薬が要る。
人手も金も必要だ。この世界に突然、文字通り降って湧いたような我々には人手と金を用立てる術がない。それらを用立ててくれるのはこの国の女王、クルーミルだ。この国で正当な女王として認められる彼女の同盟者であるという立場だからこそ、我々は必要な物資を比較的苦労せずに調達することができる。少なくとも、なんの後ろ盾やツテも無いよりははるかにやり易い。
クルーミルとしては、我々の強力な軍事力が国をまとめ上げるのに必要だ。自分の配下の殆どを戦いで失っているクルーミルには固有の軍事力が少ない。諸侯を従えるための強大な武力を我々フランス軍に頼っている。
我々はクルーミルが提供する資源が必要で、クルーミルは我々の軍事力を必要とする。互いが互いを必要としているからこそ、この同盟関係は成立しているのだ。
クルーミルと良い関係を築き、この地に我々の科学技術や軍事技術を提供する。学校を建設し、工房を建てて、道路を整備していくのだ。そして彼らのことを学び、交流する。互いに持ちつ持たれつの互恵的な関係を構築している現在の関係を、帰国できるまで維持する。これが現状であり、最も望ましい選択肢だ。
「はあ……」
両手で湯をすくって顔を洗う。
それはいつまでだろうか。
クルーミルは王都を取り戻した。諸侯たちは早速彼女の下に集まっている。これからその数は増えていくだろう。そしてクルーミルは本来の力を取り戻していく。『草長の国』の貴族たちを中心とした力を。
『草長の国』の人間にとって我々は得体の知れない異国人である。それも強力な武力を持ち、自分たちを脅かすことが可能な。好ましいはずはない。ライオンが隣に居て落ち着いていられる人間がどれだけいるだろう?
『草長の国』の貴族たちにとっては我々は自分たちの力を削ごうとする女王の後ろ盾でもある。愉快であろうはずはない。
遠からず、貴族たちはクルーミルと我々の関係を切り離そうとするだろう。
クルーミルはどうか? 彼女はとても友好的に見える。夕食を共にした。馬や、毛皮を贈ってくれた。怪我をしたと聞けば駆けつけて心配してくれた。そして何より私が侮辱された時には怒りを共有してくれた。彼女は私が侮辱された時、非力な己を嘆いていた……
しかし、彼女の個人的な親しさと女王としての判断は分けて考える必要がある。
王とは優しい笑みを浮かべた顔のまま友人を処刑できる者にしか務まらない。
今のところ彼女は我々と組んで王権を強化し、貴族と敵対する道を選んでいる。だが状況は変わり得る。いつ我々を切り捨て、自国の貴族たちを選ぶかわからない。そうなったとき、我々はこの異世界で孤立し、消耗し、やがて消滅するほかない。フランス軍の軍事的優位など所詮はこの程度のものに過ぎないのだ。
逆に我々の選択肢はどうだろう。
一つは国に帰ること。クルーミルの言うように、東へ向かい船を動かせる術を使う者に船を動かしてもらいフランスに帰還する。これは全てのフランス兵が望んでいることで覆せない決定事項だ。
だが、兵士や将軍たちはそれで万事解決かもしれないが、私はそうはいかない。元々我々は東方軍。エジプトを征服するために組織された軍団だ。それがエジプトにもたどり着けず、異世界を彷徨って物資と兵士を消耗した挙句、なんの成果も無く戻ってきました。では司令官である私はタダでは済まない。最悪の場合は銃殺。そうでなくても軍人として栄達する道は絶たれるだろう。待っているのは冷笑と軽蔑、嘲笑、侮りの眼差し。
……私はそんなものを受けるために生まれてきたわけではない。
私は誰にも私を侮辱させたりはしない。だからこそ権力が欲しいのだ。だからこそ、エジプトへ出征したのだ。数百人の学者、数万の軍勢、数百門の大砲、騎兵、軍艦。歴史上比類ない征服による栄光!
征服。そう、このグルバスを征服するという選択肢がある。ネーヴェンら都市商人層と結びついてクルーミルとは独自の基盤を築き、権力を奪取する。抵抗する気骨ある者たちを会戦で倒せば、日和見者たちを支配するなどたやすい。この地を征服すればそれを手土産としてフランス本国に帰っても面目は立つ。この世界で最高権力者として振る舞うという選択肢もあるだろう。
しかしそれは、クルーミルへの裏切りだ。
裏切り! 裏切り! 恥知らずの臆病者がやるこの世で最も許されざる所業。名誉も無く、誇りも無い。己の利益だけを図り、信用を損なう最低で卑劣な行為。人間が行う最も邪悪な行いの一つ!
「裏切者! コルシカの恥め!」
「パオリを裏切った卑怯者の子め、フランス人の犬め」
「お前の中にも裏切り者の血が流れているぞ。お前はフランス人でもコルシカ人でもない!」
脳裏に言葉が落ちる。幼い頃から聞いていた故郷の人々の呪いの声。
「うるさいっ! 黙れッ!」
両耳を塞ぐと頭を湯舟の中へ沈め、潜る。鈍い水音が声をかき消して取って代わる。誰の声も聞きたくない。
パオリ! パスカル・パオリ! 故郷独立の英雄。
私が生まれる前からコルシカに生き、征服者として現れたフランスと戦い、敗れて故郷を追われた英雄!
フランスの軍学校に入った私はいつも嘲笑と軽蔑の的だった。「コルシカの田舎者」「俺たちの親父たちが征服した、ちっぽけな島のちっぽけな奴」「俺たちの言葉を喋ってみろよ。その下手くそなフランス語を聞かせてくれ」……
パオリはそんなフランス人たちと戦った。戦い続けた。コルシカ島を守るために戦った英雄。パオリ、私はあなたをどれだけ尊敬したことか。私はどれだけあなたに救われたことか。立派な軍人になって、いつかあなたの下で戦うことを夢見て過ごした。
そして私は自分の父親がパオリを見捨ててフランスに寝返った男であることをどれほど憎み、自分の中に流れる血をどれだけ軽蔑したことか。
大革命が起きた。そしてあなたはコルシカに帰って来た。私はフランスで夢を見たのです。人が生まれではなく、その実力で認められる世界を。空想だったその世界が、今まさに実現しようとしている様子を。そして故郷でも同じことが行われることを。過去の憎しみを水に流して、フランスに認められ、彼らと共に歩む理想を夢見たのです。
そして私とあなたは共にコルシカの為に働くことを誓いました。けれどあなたは、あなたの古い理想を抱えたままで……フランス人と解け合い、新しい時代を望んだ私と、フランス人を憎み、古い時代を望んだあなたは道を違えるしか。
あなたにとって私は、裏切り者の子、フランスの思想にかぶれた異端者だったのでしょうか?私はあなたに許されはしないのでしょうか。
フランス人からはコルシカ人と罵られ、コルシカ人からはフランスかぶれの裏切者と言われる私は、一体何者なのでしょうか。征服された国に生まれ、征服者になろうとしている私は一体何者なのでしょうか……あの燃えるように輝く赤い瞳に、クルーミルの瞳に、裏切者として映りたくはない。嫌だ。ならば私は国に帰り、大人しく遠征失敗の責任を取れば……それも嫌だ。私は侮りを受けたくはない。どうすれば? 私は矛盾しています。それでも、この引き裂かれた心に空いた大きな穴を埋めるものが欲しいのです。さもなければ、この巨大な暗闇が私を貪り食っているのです、パオリ……
◆
ボナパルトは息が苦しくなって顔を上げた。肺一杯に空気を吸い込むと、折れた肋骨が銃剣で突き刺すような激しい痛みを生じて全身が雷で打たれたように軋んだ。
「……酷い顔ね、貴女」
水面に映った自分の顔を見てボナパルトは呟く。赤く腫れあがった目。泣きじゃくった子供のような顔だった。
不意に部屋の扉が叩かれる。
「誰だ」
「ベルティエです。司令官閣下」
ボナパルトは両手で湯をすくうと顔を二、三度洗い、立ち上がって着ていた白い亜麻のシャツの裾を絞って水気を抜いた。
「入れ」
入室したベルティエは自分の司令官の顔を見て、僅かに眉を動かしたがそれ以上は何も言わなかった。
「湯舟で足を滑らせて、このザマよ」
ボナパルトは自分の酷い顔の言い訳をした。
「各師団から最新の報告書が届きました。すぐ御覧になるかと思いお持ちしましたが……」
「よし。もう少し風呂に入ってたいから風呂で読むわ。下がってよし」
「かしこまりました」
ボナパルトはベルティエから受け取った書類の束に目を通し、一枚一枚、一行一行を慎重に点検した。それは将軍の表情だった。
「なんにせよ……」
時間は進むものであるし、状況は移り行く。己の過去に苦しんだところで誰も待ってはくれないし、立ち止まることは許されない。自分の肩には数万の人間の生き死にがのしかかっているのだから。たとえ心の内に何があろうと、進み続けるほかにないのだ。そう思考を進めてボナパルトは湯舟から出た。