第四十五話 凱旋
新しい章に入りました。
少しややこしいお話かもしれませんがお付き合いいただければ幸いです
遠く地平線の端に煙が立つのを『斧打ちの国』の王ダーハドは馬上から見た。彼の率いた軍勢は『王都』にやって来た時三万を数えた。その後戦闘で失われた者、逃亡した者、故郷へ帰した者たちから残る者を差し引いた一万余りが長い列を作って王の背後に続いている。周囲を固める側近たちはその煙が『王都』のほうから上がっていることを告げ、王の顔を窺った。
「我が妹クルーミルはどうやら、我々を追うのではなく『王都』を落とすほうを選んだか。これで追撃を受けずに悠々と国に帰れるな?」
王は不安そうな表情を浮かべる家臣たちに向かって自信に満ちた笑みを浮かべた。それにつられるようにして、彼らも笑う。王の余裕に満ちた表情を見ると、不思議と何事も乗り越えられそうな気がするのだった。
一人だけ笑わぬ者がいた。都の守備をしていたドルダフトン公である。彼は落城の数日前に密かに都を脱出するよう命を受け、僅かな側近と共に敵中突破という困難を成し遂げて主君の下に帰還していた。
「臣の力が及ばぬばかりに都を失うこととなり、弁解のしようもありません」
「謝罪など無用だ。むしろ謝すべきは包囲を破れなかった余のほうであろうよ」
ダーハドは輝くように見事な金の前髪をかき上げて謝罪する臣下を許した。
「都を失ったとてまた奪い返せばよい。都はどこにも消えはせん。失った兵士はまた募ればよい。国に戻れば幾千の勇士たちが武器を磨いて待っている。だが、卿のような忠実な臣下はそう簡単には得られん。むしろ余はこの一連の戦い、わが方の勝利と見ている」
「何故そうお考えですか」
臣下の一人、スヌエビラが尋ねた。右耳からこめかみ、目にかけて横に大きな傷が走る彼はダーハドの重臣の一人であり、前衛部隊を率いて敵に突進し果敢に戦う勇者だった。
「一つには、敵の実力が分かった。敵は轟音の鳴る武器を持ち、非常によく訓練されている。一方で防具は脆く接近戦に弱い。もう一つ、クルーミルの友、ボナパルトの性格と傾向を知れた。王都を攻撃するにあたって、ボナパルトは多くの兵を抱えているにもかかわらず強襲を避け、我々に到着の時間を与えた。最初は慎重な性格ゆえかと思っていたが、ボナパルトの戦場での采配はあえてこちらに一翼を潰させ、もう一翼でこちらの背後を突く大胆なものだった。そのうえ、背後でサーパマド伯の蜂起が起こったと聞いて奴はだたちに一軍を率いて鎮圧に向かったと聞く。会戦前に出した講和の使者を一蹴したとも。即断即決の人物だ。さらに加えるなら、敵は兵力の補充に困難を抱えている可能性が高い」
「と、仰いますと?」
「ボナパルトは即断の人物だ。そういう人物がもたもた城攻めに時間をかけ、解囲の敵が現れるのを許したのは、接近戦に弱いことに加えて城を強襲して兵を失うのを避けたかったからに違いない。思えば、ツォーダフ公と戦う時は兵を少なくして公を『剣造りの市』より出撃させ、ドルダフトン公と『川辺の都』を争った時には先に着陣して街の外で待ち受けたのだからな。奴は野戦を好み、攻城戦を嫌っている。もし兵が十分ならあのようなタイプの指揮官が攻城を躊躇う理由はない」
「なるほど」
スヌエビラは大きく頷き、君主の聡明さに舌を巻いた。
「さらに敵の行軍速度も分かった。奴らは我が軍勢が十日かかる距離を僅か二日で駆け抜けることができる。そのことを知らずにいれば後の戦いで思わぬ大敗を喫したかもしれない。敵についてこれだけの情報を得た。翻って我々は会戦に敗れたと言っても、失われたのは『草長の国』の者たちと領土。長馬弓のサオレをはじめ、勇敢な者たちを失ったのは確かに惜しいが、我が精兵と忠臣は健在で、損失は僅か。領土は戦禍を免れている。天秤はこちらに大きく傾いているではないか?」
ダーハドは余裕に満ちた笑みを浮かべてみせた。周囲を固める側近たちも笑う。彼らはみな『斧打ちの国』の貴族たちだった。確かに犠牲となったのは『草長の国』の者たちばかりだ。
片足を失ってなお先陣を切った馬長弓のサオレのことは皆の記憶に新しい。騎士たる者は彼のように死ぬべきだろう。だがそうした勇者に対する尊敬と憧れとは別の価値観もあるのだった。称賛に値するとはいえ、しょせん彼はよそ者であるのだ……
もし『草長の国』の貴族がいたなら顔をしかめただろう。自分たちの犠牲をこの王はなんとも思っていないのだから。
ダーハドは側近たちに行軍の監督をするように命じて解散させる。ほとんど全員が散って行ったが、一人だけ残る臣下がいた。オーセトフク伯。まだ若いはずだがその顔はやや老いた印象を与える。他の者たちが鎧を身に着けている中、一人だけ長いゆったりとしたローブを纏う彼はダーハド王の外交官であり、相談役でもあった。
「何か言いたいことがあるのだろうオーセトフク?」
「陛下は事の重大さをご理解なさっているのか、心配になりました。我が方は戦に敗れたのです。『草長の国』における王の権威は損なわれ、クルーミルは力を盛り返すでしょう。敵は城壁をがれきと化す武器を用い、兵は優れています。危機感を抱かれるべきでしょう」
「お前はいつも慎重だな。忠告はよくわかっているとも」
ダーハドは腰に提げている儀礼用に装飾が施された手斧を取り出すとその刃を撫でた。
「ボナパルトは確かに強かった。あれを打倒するのは容易な事ではあるまい。『草長の国』の征服まであと一歩だったのが、振り出しに戻ってしまった。こちらの従順で勇敢な者たちを大勢失った」
ダーハドは手斧を弄び、くるくると回してみせた。その表情に笑みはない。
「だが、嘆いたところではじまらん。嘆くのはお前に任せよう。見ようによっては好機ではないか。クルーミルとこの国を争った時、『王都』より東側では抵抗に遭った。それゆえ、余は彼らを敵対者としてまとめて排除することができたが『王都』を落とした後、王都より西の貴族たちは戦わずに次々と降伏した。余としても降った者に厳罰を下すわけにはいかず、彼らの勢力は温存されてしまった。だが、今回の戦いはよい口実になろう。次に遠征するときには、『王都』より向こう側の貴族共もまとめて処罰できる。『草長の国』の貴族共を一掃して、我が国の貴族に置き換える良い機会だ」
「確かにそうですな……勝つことができれば、ですが」
「勝つとも。案ずるな。それよりも余は敵がもう一度戦えるかどうかが心配だ」
ダーハドは斧を鞘に納めた。
「と、言われるのは?」
「ボナパルトは流浪の集団の長だ。クルーミルの下にいるのを良しとせず、反旗を翻すかもしれん」
「ですがボナパルトは我々の誘いに乗らず、王妹の側に立っておりました」
「今までは、な。今まではさしあたり、我らという敵がおり、クルーミルの支配する領域も狭かった。反旗を翻したとて、得るものも少なかった。しかしこれからは違う。王都を手に入れたクルーミルの下には多くの権力と富が集中するだろう。はたしてボナパルトは、あの軍勢の主はクルーミルに忠実でいようとするだろうかな? クルーミルにしてみても、あれほど強力な軍勢の主をいつまでも傍に置いておけるだろうかな……内部分裂を起こして崩壊することも十分あり得る話ではないか?」
「そうなってくれれば我々は楽ですな」
「だが、興醒めもよいところだ。我らの敵には相応しい強さを期待する」
「『鉄は打つことで強くなる』ですか」
オーセトフクは国に伝わる警句を唱えた。
「そうだ。強い敵と戦うことで民は強く、国は豊かになる」
それはダーハドとクルーミルの父、グルバスより伝わる言葉だった。グルバスも父からその言葉を聞いただろう。強い敵がいれば、強い軍隊が必要となる。強い軍隊とは突然湧いて出てくるものではない。人口、経済力、文化、風習、社会制度……指導者の力量。あらゆる要素の合計がその国の軍事力を形作る。会戦における勝敗はその結果だ。より強力な背景を持つほうが勝利を収める。
強大な敵がいる民は、強い軍隊を必要とする。強い軍隊を必要とする民は、強い民を必要とするのだ。
戦いは全てを明確にする。より強い集団を、より強い指導者を容赦なく選別する。強く賢明な人物を選び出し、戦いを司る精霊は腐敗と怠惰を許さない。鉄が打たれることで鍛えられるように、戦う事で国は強くなるのだ。
「ボナパルトの軍隊は我々とは違う。使う武器ではない。もっと別の部分で異なる存在だ」
オーセトフクは頷いた。
「クルーミルは我々に敗れた。だが、ボナパルトという強力な力を従えて戻って来た。まさに戦う事で強くなったわけだ。我らは今、ボナパルトに敗れた。今度は我らが強くなる番だ。我らが上回ればそれで良し。クルーミルがより優れていれば、クルーミルがこの国を継ぐだろう。それもまたよしだ」
それがこの国の古い習わしであり、掟だった。王が死ねば領地は子供たちに分け与えられる。子供たちは互いに戦い最も強い者が王国を継承する。
「楽しみな事ではないか?」
ダーハドは家臣たちに向けてみせた笑みではない、子供が明日のことを話す時のように笑った。
「私めは、統一王グルバス様が定められた長子の法こそ、王の正統性の証と考えております」
「父か」
ダーハドはやや力なく笑った。
元はと言えば統一王が事態をややこしくしたのだ。統一王の元々の国、すなわち『斧打ちの国』では王の子は均等に領地が相続され、領地を互いに争うものだった。それを統一王は改めた。長引く戦いに疲れ、自分の子供にそのような苦労をさせたくないと考えたのかもしれない。統一王は国の継承法を改め、王の第一子が全ての領地を引き継ぐこととした。王の領地は全て、ダーハド一人が相続することと定められた。
だがクルーミルが生まれた事で話は変わる。クルーミルの母は『草長の国』の小さな貴族の出身で、統一王グルバスは『草長の国』を征服する遠征の途中で彼女に出会い、その美しさに惚れ込んで第二王妃に据えたという。統一王グルバスは生まれた娘、クルーミルに土地を与えたくなったらしい。そこで自ら第一子を後継者とする法を定めておきながら、土壇場になってそれを覆し、昔ながらの法に戻したのだ。
統一王グルバスの元々の国『斧打ちの国』はダーハドに。征服した東の『盾固き民の国』はダーハドの妹、クルーミルの姉にあたるアリスタルドに。西の『草長の国』はクルーミルに、それぞれ与えられ『統一王グルバスの国』は三つに分割された。
ダーハドとアリスタルドの母である統一王グルバスの第一王妃とその一族は激怒した。本来自分の一族の子が継承するべき領地が、ぽっと出の第二王妃の娘に奪われたのだから。統一王の死後、当然のように軍が集まり『草長の国』の国境を越えた。
なんたる愚かな父王か。ダーハドは苦々しい思いを禁じ得ない。
「兄妹仲良く国を治めよ」などと妄言を残した父王の事をダーハドは尊敬する気にはなれなかった。もし本当に「兄弟仲良く」と思うのであればクルーミルに国を与えるべきではなかった。もし彼女に『草長の国』が与えられていなければ、彼女は今頃ダーハドの宮殿で王の妹として不自由なく暮らしていただろうに。
ダーハドは二重に父王を嫌悪した。兄妹同士で争う事になったのは国を分けたせいである。国を分けたのなら「兄妹仲良く」などと言うべきではなかった。国を分ける利点とは、再統一をかけた争いによって国を強くすることなのだから。「国を分けて仲良く」では国はバラバラに解体され、民は隔てられて弱くなる一方ではないか。
ダーハドは過去に思いを馳せて首を横に振った。父王譲りの見事の金髪が揺らめく。
「国に戻れば、難儀な仕事が山ほどあるぞ。オーセトフク」
「はっ。国境の街では王妃殿下と王女殿下が陛下のご帰還を心待ちにしておられることでしょう……」
「そうだな。それにしても、戦場の事だけを考えていられれば、なんと幸福だろうな……」
軍勢は国境の山を目指して雨に濡れた大街道を進んでいく。その様子は大蛇が地面を這う様のようでもあった。
ボナパルトとクルーミルは占領された『王都』に馬を並べて入城した。砲撃で破壊されつくし、損傷の激しい青の精霊門を避け、北側でほとんど戦場とならなかった白の精霊門からである。
ボナパルトの背後にはフランス兵が列を成している。それぞれの師団から選び出された「特に功績のあった部隊」で、一同は戦闘でほつれたり破れたりした軍服を大急ぎで繕い、靴を履いて参列した。ある兵士は帽子を失くしたので別の部隊の仲間から一杯の酒と引き換えに借りることとなった。また別の兵士は土汚れのついた軍服を川で洗ったが乾かず、じめじめと湿気た軍服を着る羽目になった。
古参兵のヴィゴと若い兵士ジャック、そしてハンド・カノンを持った徴募兵のワフカレールもこの一団の中に紛れている。ランヌ将軍の計らいで、徴募兵軍団からの参加者も認められたのだ。彼らの存在はこの世界の人々を新たに軍に勧誘するよい宣伝になるだろう。とボナパルトは踏んでいる。
軍が行進する大通りは『王都』の名に恥じぬ広々としたもので、石畳で舗装されている。しかし手入れが行き届いていないのか、いたるところに石の破損が見られる。人影はまばらで、女王を歓迎する歓呼の声も花びらの雨もなかった。彼らは包囲戦の後に始まるであろう勝利者の略奪に怯えていたし、数週間の包囲戦ですっかり飢えていた。いくらかの好奇心の強い人々や、子供たちが物陰から見たことのない恰好をしたフランス兵たちを興味深そうに眺めている。
ボナパルトはこれまでの事を振り返る。ここに至るまで多くの出来事があった。エジプトを目指して出発したはずが、謎の出来事によりこの世界へと漂着し、浜辺でクルーミルと出会った。出会った時の彼女は殆ど兵も持たず、追い詰められていた。そして我々は物資と引き換えに彼女に力を貸し、敵と戦った。この地に滞在することも考えて武器の生産に着手した。資金を集め、未知の世界を知るために、そしてフランスの知識を広めるために学校教育を提案したりもした。そして今、フランスに帰るため、東の地を目指して軍を進めている。クルーミルに軍事力を提供し、引き換えに軍を維持するのに必要な物資を調達している。我々は東を目指す事で一致している……
「……」
行進する軍の先頭でボナパルトはあることに気づいた。大通りに面した家々にはところどころ、破壊されたような跡がある。焼け焦げて黒くなった部分もである。今回の戦闘で破壊されたものかと思ったが、それにしては傷が古い。
「ナポレオン」
クルーミルがボナパルトから習った少しコルシカ訛りのあるフランス語で話しかけた。
「この都はダーハドに一度奪われ、略奪を受けました」
クルーミルが指差す先には焼け落ちた民家の廃墟が立ち並んでいる。都市の一角が丸ごと焼けたようだった。
「あれは弱い王だった、私の罪の証です。ここだけではありません。ここより東、国境にはもっとあるでしょう」
ボナパルトはクルーミルの燃えるように赤い、大きな瞳が潤んでいるのを見た。口を固く結んで心を鎮めようとしているようだった。やがてクルーミルは空を見上げた。
「でも貴女は強くなって戻って来た。そうでしょ?」
ボナパルトはコルシカ訛りのフランス語でそう告げる。
「……」
クルーミルの滲んだ視界には、広がる青空と翼を広げて旋回する一羽の大きな鳥がいた。
あれは果たして、勝利を祝福する鷲だろうか。それとも、死体をついばみに来た凶鳥だろうか。