第四十四話 紅い儀式
ボナパルトとクルーミルが『王都』を包囲する軍勢の陣営に戻って二日。天候は回復し、晴れやかな青空が一面に広がっている。
ボナパルトはクルーミルと共に歩いている。テントから這い出てきて焚火を囲み、朝食の支度に取り掛かったりヒゲを剃ったりしているフランス兵たちの間を行き、その表情や服装を確かめて健康状態や士気を確かめるのだ。毎日欠かさず報告をさせているとはいえ、実地での点検は欠かせない。兵士たちも自分たちの総司令官が歩いているのを見て安心するのだ。
通りかかった兵士の一人をボナパルトは呼び止めた。
「兵隊、靴はどうした」
彼は裸足だった。
「前の会戦で破れました。替えが無いので……」
兵士はそう言うと咳き込んで鼻をぬぐった。
「風邪を引いているのか?」
「そうかもしれません。ですが戦えます、閣下」
「そうか。靴はすぐ手配してやる。行ってよし」
兵士は敬礼すると足早に立ち去っていく。ボナパルトは思う。靴が無いのはあの兵士だけではあるまい。風邪を引いているのも一人ではないだろう。士気は高いが、長引く野営と物資不足は兵士たちの健康をむしばんでいるようだった。
「少し寒くなった気がするわ」
「雨の後ですから。風邪をひかないようにお気をつけてください。後で暖かい羊の毛布を届けさせます」
「この前貰ったヤツがあるわ。あれで十分よ」
「もっと厚手のものを」
「そう。……この世界に冬はあるの?寒くなる?」
「もうふた月もすれば吐く息が白くなり、水桶に氷が張るようになるでしょう」
「雪は積もる?」
「うっすらと積もる日もあります。動けなくなるほどではありません」
ボナパルトはクルーミルと繋いでいない右手を顎にあてて考えを巡らせる。雪はそんなに積もらないらしいが、気温が下がる中、兵士たちをいつまでもテント暮らしさせるわけにもいかない。いい加減屋根と壁のある寝床を与えてやるべきだし、都市に入って休養もさせたい。兵士たちは耐えろと言えば耐えるだろうが、兵の忍耐力に甘えるのはあまり良いことではないだろう。……そろそろ王都を落としにかかるべきか。
「司令官閣下」
不意に聞きなれた声がしてボナパルトは思考の底から意識を現実に戻した。副官のウジェーヌが来ていた。
「各師団長が司令部に集まりました」
ボナパルトはクルーミルのほうを見た。クルーミルはその燃えるように赤い瞳でボナパルトを静かに見つめ返しているだけだった。
「よし」
あまり広くない司令部は混雑して人の放つ熱気と雨で湿った空気で快適性を欠いている。狭い机にはボナパルトとクルーミルを中心に、右を見れば参謀長のベルティエ、師団長のクレベール、ボン、騎兵総監のデュマ、砲兵総監のドマルタンといったボナパルトの将軍たちが、左を見ればクルーミル派の貴族たちの顔がある。ボナパルトは誰が誰だかうろ覚えで、頭の中で彼らの顔に「なんとか伯」とか「なんたら公」と適当なラベルを貼っていた。しかし名前の下には「兵八百、騎兵二百」とか「兵一千、騎兵百」といったそれぞれの貴族が抱える兵士がしっかりと記載されている。ベルティエの報告を受ければ名前のほうもはっきりするだろう。
書類を手繰りながらベルティエが口を開く。
「まず、司令官閣下が戻られる直前に発生した戦闘についての報告です。ダーハド軍の陣営から騎兵数百騎による襲撃と、それに応じて『王都』城内からいくらかの敵が脱出したことが確認されています」
「脱出した敵の素性は?」
ボナパルトの問いかけにクルーミルの将の一人から声が上がった。アビドードの甥、ニッケトである。隣には瓜二つの顔を持つノルケトがいた。
「戦場に残された紋章などから、ドルダフトン公の臣下であると判りました。おそらく公が脱出したものと思われます」
諸将の間でざわめきが起こる。
「指揮官が逃げ出すとはな!」
クレベールが嘲笑混じりに言う。
「ダーハド軍の動向は?」
「はっ。ドゼー将軍の報告によれば、緑の精霊門から通じる大街道を通り東の『斧打ちの国』方面へ既に四十キロ余り後退していっています」
ベルティエの報告にデュマ将軍が付け加える。
「騎兵を偵察に送り出したところ、奇妙な事に敵の兵力が減少していることが確認されています」
「クルーミル女王、ダーハドの兵が減った理由に心当たりは?」
「恐らくは、対陣が長引いたので徴募した兵たちが帰郷したのだと思います。歩兵の大部分は農民ですから収穫期の今は戦場よりも畑にいたいはずです。農民たちを連れて参戦している貴族たちも農民を帰らせたいに違いありません。農民を畑に帰して収穫をさせなければ税を取れないのですから。それでも、敵は弱くなったわけではありません。ダーハドの下に残っているのは彼に忠実で、戦場に兵を留め置ける財のある者たち、すなわち精鋭です。数が減った分、結束し、動きも良いはずです」
ボナパルトは思案する。ダーハドはこれ以上戦場に兵を留め置くことができなくなった。王都の包囲を解くことを諦めるほかない。ならば、せめて有能な家臣だけでも脱出させた。筋が通る話ではある。とすると、とるべき道はどれか。
一つは守将の居なくなった王都に総攻撃を仕掛けて落城させる。守将が理由はどうあれいなくなったとあれば兵の士気は落ちる。兵数で上回り、城壁のいくつかは崩れている。容易に落とせるだろう。
もう一つは、『王都』を無視して兵が減少したダーハドを追撃する。全軍をサオレ河の北へ渡して追いかける。一万そこらに減少した敵を二万以上で追撃すれば勝利は間違いない。ダーハドさえ仕留めればこの戦乱にケリがついたも同然だ。しかし、緑の精霊門方面、つまり王都の北岸側は小舟を繋いで板を渡した簡単な橋が三本あるのみ。戴冠の丘で戦う時などにも軍を渡したが、あれは補給馬車の類を置き去りにした一時的な措置だ。ダーハド軍を追いかけるとなると下手をすれば十何日もの追跡行になる。補給路に不安が残る。もし、追撃の途中にサオレ河が荒れて船橋が流されてでもしたら全軍が敵中で孤立することになる。リスクが高い。
さて、どうするべきか。
「ベルティエ、火薬の残量は?」
「手元にある分は僅かです。ドゼー、レイニエの師団は優先的に供給したのでいくらかあるでしょうが、残りの部隊は全力で会戦すれば持たないでしょう」
「クルーミル女王、手持ちの兵はすぐ動かせますか」
「準備はできています」
ボナパルトは決心した。
「明日、王都を総攻撃する。攻撃の主力はクルーミル女王の軍勢とする。ボン師団長は予備。ドマルタン将軍、王都の敵に夜通し砲弾を浴びせて、眠れないようにしてやれ」
その一言にクルーミルを除く全員の背筋が伸びた。女王は、深く頷いてボナパルトの顔をじっと見つめている。
イタリアで戦っていた頃なら敵軍を追いかけて兵士を歩かせていただろう。道中で兵士たちが倒れても、本国から補充の兵士が来る。占領するべき範囲も、敵の総数も分かっていた。だがここでは違う。倒れた兵士の替えは利かない。戦いもいつまで続くか分からない。敵国がどれだけの軍勢を繰り出してくるかも不透明だ。堅実に行くべきだろう。
諸将が解散し、各々戦いの支度に取り掛かるために散って行き司令部にはボナパルトとクルーミルが残った。
「いよいよ王都に戻る時が……『川辺の都』を発った時から、いいえ。貴女と出会ったあの浜辺から、私はこの時を思い描いてきました。でも、改めて目の前に来ると震えるものです」
ボナパルトは繋いだ左手に力を込めた。
「『王都』を取り戻すのはまだ通過点だし、まだ陥落してない。震えるのは早いわ。明日は貴女の軍が主力よ。王都を落すための準備はしてきたけどまだわからない。気を引き締めておきなさい」
「分かっています。ここまで貴女の軍勢に頼りっぱなしでした。今回の戦いも負うところ大ですが、王都の城壁に我が旗を掲げるのは、自分の力で果たします」
クルーミルはボナパルトが繋いでいる左手の上に自分の右手を重ねた。
翌朝。陽光が昇り始める頃『王都』の城壁の数百メートル手前は磨き上げられた鉄が反射する光で煌めいた。整列した『草長の国』の戦士約三千が持つ武器と防具の輝きである。列の前方を見れば、軽装備の弓射手やクロスボウの射手が揃い、後ろの列を見れば重々しい金属性の鎧から厚手の皮に綿を詰めた防具に身を固める者が並ぶ。各々の手にはサーベルや槍、斧、棍棒が握られる。これから始まる戦いではフランス兵が持つ火薬の武器にも劣らない威力を発揮するだろう。
それぞれの部隊を率いる貴族たちが馬に跨って兵士たちの間を駆けまわる。
「戦いの時! 栄光の死の時! 戦の精霊に汝らを示せ!」
「最初に城壁を登った者には金貨百枚と剣を授けると女王の御達しだ!」
「お前たち『王都』の城壁を越えるなど一生に一度の誉れとなるぞ。武勇を子孫に語って聞かせよ!」
整列する兵士たちを前に白馬に跨ったクルーミルが進み出る。その両脇には王の所在を示す緑の大旗を持ったニッケトと、戦斧を持つノルケト、そして女王の近衛兵が続く。
王のためにあつらえられた鎧が鈍く輝く。兵士たちが剣を盾を打ちつけ、武器の柄で地面を叩いて女王を歓迎する。
クルーミルが剣を抜き『王都』の城壁を指し示す。彼女はボナパルトと違って、戦いを前にした兵士たちを奮い立たせるような言葉をかけたりはしなかった。
「開戦!」
短く鋭い一言が草原を走る。大地を揺るがす兵士たちの鬨の声が上がる。
『王都』攻めが始まる様子をフランス兵たちはやや後方から見守っている。第二派、第三派として控えている彼ら目の前で繰り広げられる戦いの様子を固唾を飲んで見守るほかない。
崩れかけた城壁から守備兵が矢を射掛ける。大盾が並べられ、攻撃側の射手がそれに応戦する。城壁に届く長さの梯子がかけられて勇敢な戦士たちがそれをよじ登ろうとする。すかさず城壁から煮えた湯と石、矢といった人間を傷つけるものが降り注いで戦士の鉄製の兜に命中して落下していく。砲撃で大きくへこんだ城門に向かって破城槌がゆっくりと前進していくのが見えた。四つの車輪と木と毛皮で出来た屋根を備えた破城槌は遠くから見れば四角い箱のようにも見える。中には鉄で補強された丸太が入っていて、それを城門に鐘をつくように叩きつけるのだ。接近を阻止しようと火矢が飛ぶがひるまずに破城槌は前進する。城壁の各所には矢を射掛けるために小さな小窓が設けられているのだが、かなりの数がフランス軍の砲撃で潰されており、効果的な防御を妨げていた。
フランス兵たちにとって剣と矢で成される戦いはおとぎ話の世界になって久しい。彼らの知る戦争は銃と砲でされるものだ。兵士たちはその光景に古い百年戦争の英雄たちを連想した。フランスの兵士たちがまだ彼らのような恰好で戦争をしていた頃の物語を。
クルーミルの軍勢は南の赤の精霊門と青の精霊門に集中している。その数は三千。対する『王都』の守備隊は三千前後と数の上では互角だが、北の二つの門にもフランス軍が並び、攻撃の態勢を取って威嚇しているので、彼らはそちら側は囮だと思いつつも四つの門に守備隊を分散しなければならないので、それぞれの門で戦力比はクルーミル側に傾いている。加えて、守備隊は救援に来た王の軍勢が撃退されたことと指揮官の逃亡で勝利の見込みを失い士気が低下していた。
いくつも架けられた梯子からついに一人が城壁に上がる。叫び声をあげて剣を振り回して抑えにかかる守備隊を追い払うと、そこからもう一人、二人と次々に城壁にクルーミルの兵が上がった。片や休養十分で勝利の見込みがあり、勝利の際には報酬が見込まれている戦士。片や、連日の砲撃で十分な休養を取れず、勝利の見込みも不透明で、勝ったとしてもまた次の襲撃に備えなければならない戦士。実力が互角ならより意志の強いほうが勝る。至る所で鉄の武具が激突する音が響き、戦士たちの上げる雄たけびが石造の城壁にこだました。
城門に乱打される破城槌が五十回目の衝突を迎えた瞬間、内側から門を支えていた閂がついにその力に屈してへし折れた。城門が断末魔の悲鳴のような金属音を立ててこじ開けられ、戦士たちがなだれ込む。先頭に揃うのは質の良い金属鎧で固めた貴族とその従者たちから成る一団で、最前線に立つ栄光が彼らを突き動かしていた。彼らは鍛え抜かれた筋肉を躍動させ、迎え撃つ敵目掛けて重たい甲冑ごと身を躍らせる。全身を武芸のために磨き続けた戦士たちの突撃を受け止める事は容易ではない。たちまち守備隊の陣形が崩れる。すかさず後続の、防具の質も練度も大して高くはないが戦意十分の若者から成る戦士団が飛び掛かり、守備兵を押し倒し、斧で兜を割り、剣を腹へ突きこんで倒していく。
城壁の上にも負傷者と死体が積みあがる。その多くは守備隊側のもので、城壁はクルーミルの戦士たちで埋め尽くされ始めた。射手たちが占領した櫓や塔から下の守備隊目掛けて矢を浴びせかけて次々と倒していく。
とうとう太陽が頂に達する頃、最も激しく攻撃されていた青の精霊門の『斧打ちの国』の支配を示す深紅の旗が引きずり降ろされ、『草長の国』を示す緑の旗が翻った。
ボナパルトはその光景を望遠鏡で確認していた。クルーミルの兵士たちは期待通りの働きをしてくれたようだ。右手を挙げて合図を送り、ボン将軍率いるフランス軍四千名に彼らが確保した城門から侵入するよう指示する。ひとたび城門を破ってしまえば勝敗は決したも同然だ。後は、犠牲者の数が多いか少ないか。
旗の色が変わった事に守備隊は気づいた。もはや、城壁は破られた。あとは数に勝る攻撃側が洪水のように押し寄せてきてすべてを決するだろう。勝利の道は絶たれた。
城壁に隣接する塔や守衛詰め所といった場所で抵抗を続けていた場所で続々と兜が掲げられ始めた。降伏の合図である。多くの兵士たちは陥落する城と運命を共にするつもりはなかった。守備司令官が逃げ出しているのだ。なぜ自分たちが殉じる必要がある?
降伏した兵士たちは賢い選択だった。血みどろの戦いで殺気だった戦士に勢い余って叩き殺された不幸な幾人かを除けば降伏は受け入れられた。一つには守備側の抵抗が予想よりも小さかったことで、攻撃側の戦士たちに心理的な余裕があったことがあるかもしれない。
城壁を離れて市街のほうへ逃げ出した者たちは不幸だった。都市の住人たちは元はと言えばクルーミルの領民だった。自分たちの都を占領している者たちを、しかも不利になっている側を、積極的に匿う理由などどこにも無かったうえ、戦火が居住区に及ぶことを恐れた市民は逃げてくる兵士に容赦しなかった。
戦いは急速に収束へ向かった。攻城戦は解放に来た部隊が撃退された時点で勝敗がついているようなものだった。これは勝利か、敗北かの一戦ではなかった。あらかじめ決まった勝利を確認するための儀式のようなものだった。血で彩られる儀式である。
戦いの最終盤、ほとんど全ての者が降伏する中、抵抗を続ける者たちが居た。『王都』中心部にある王宮の手前にそびえる翡翠の塔と呼ばれる小さな塔に立てこもる一団が居た。
「お前たちの負けだ。降伏せよ! 女王陛下はそなたらに寛大な処遇を約束されたぞ!」
クルーミルの側近の若武者、ノルケトがよく通る声で叫んだ。彼の鎧は血で赤黒く染まっている。
塔の上から高笑いと張り上げる声が降って来た。
「笑止! 我らの勝ちだ。ドルダフトン公は都を無事に脱出された。お前たちが空の都を攻める間にダーハド王は国に戻り、兵を整えらえる!」
「負け惜しみを言うな! 降伏しろ」
「寛大な女王陛下に万歳! だが我らは降伏などせん。我らが頭を垂れるのは、頭が首から離れる時だ。来たりて取れ! 我がアーボゼグの武名を轟かせん!」
ノルケトは歯をむき出しにして笑った。
「お見事! 今行くぞ!」
ノルケトは四、五人の供を連れて塔の扉を蹴破り、中に待ち受けた戦士たちと剣を交えた。熟練の戦士たちに長い時間は必要なかった。十五分ほどしてノルケトは六つの首を切り落とした。クルーミルはその話を聞き、翡翠の塔をこの戦いで戦没した者たちを称えるための記念碑とするよう命じた。
クルーミル側に二百名、守備していた『斧打ちの国』側八百名の血が流され、王都はその所有者を変える儀式を終えた。
第四章部分完結です。
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