第四十三話 将軍たち
雷が落ち、辺りが一瞬白んで続いて全身を震わすような轟音が響く。近くに落ちたな、とフランス軍の古参兵ヴィゴは雨具から滑り落ちる水滴を見つめながら思った。使い古して穴が開いているそれは、バケツをひっくり返したように降りしきる雨を相手に用をなさず服の内側まで濡れて不愉快だった。補給された火薬だけは濡らさないように気を付ける。……全く、自分よりも火薬のほうを丁寧に扱うのは変な話だ。と思って陰気な笑みを作る。
兵士たちはそこらの草原にテントを張って数人単位で寝泊まりしている。指揮官が使うような立派なものならまだしも、一兵士が使うテントなど雨漏りしなければ上等も上等だ。地面に関しては工夫次第である。上手い場所にテントを張れば乾いた場所で眠れるが、下手をすれば水が流れ込んできて震えることになる。兵士たちがずぶ濡れになっている一方火薬のほうは、床と屋根がしっかりついた納屋や倉庫を接収して大事に仕舞われている。何しろ、兵士は濡れても戦えるが、火薬は濡れると使い物にならなくなる。
自分のテントのある場所に戻ると、ペアを組んでいる若い兵士、ジャックが濡れネズミになってテントの外に突っ立っていた。
「何やってるんだお前。身体洗ってるのか?」
「あ、ヴィゴさん。今、ワフカレールが着替えてるんですよ。それで……」
ワフカレールというのはボナパルトが『川辺の都』で集めたグルバス人の徴募兵の少女である。先の戦いで部隊が大損害を受けたので、臨時にヴィゴとジャックの部隊に転がり込んでいた。
「そうか」
「ええ。火薬の補充はどうでしたか」
「受け取ってきた。後でお前の分も渡してやる。補給担当の話じゃ、火薬も不足してきてるらしい。無駄に撃つなよ」
「分かってますよ。……いつまでここを包囲してるんでしょうね」
「さあな。司令官閣下の考え次第だ。だが、補給が足りなくなってるのを思うに、そろそろ動きがあるんじゃないか」
「はあ……ベッドはともかく、屋根のあるところで眠りたい……」
「ああ……」
二人は『王都』がある方角を眺めて言いあった。城壁は雨で霞んでいる。
「酷い雨と落雷だ。視界が狭いぞ」
『王都』を包囲するフランス軍が駐留する村、司令部として用いられている農家の中に入りながら騎兵隊の総指揮を執るデュマ将軍は雨具を脱いだ。払いきれない水滴が滴り小さな水たまりを作る。
デュマがその黒い巨体を椅子に沈めると従兵が温かい飲み物を差し出す。一口すするとほんのりとした苦みと温かみが口と喉に広がりそこから食道を伝って胃を温めた。
「敵の様子はどうだ」
問いかけたのはボナパルトが不在の間、軍の総指揮を執るよう命じられていたクレベール将軍だった。
「目立った動きはないが、補給馬車の往来が少ない。敵の兵力は二万と見積もられているが、妙だ、撤退しているのかもしれん。もっと詳しく調べたいが、偵察に出す騎兵は敵の騎兵に妨害される上、この豪雨ではな……」
「ボナパルトめ、太陽を一緒に連れて行きやがった。あいつと入れ替わるようにこの土砂降りだ」
「ボナパルトもこの雨に打たれているだろう。雨の中、強行軍させられる兵士たちが哀れだな」
「全くだ」
二人は顔を見合わせて陰気な笑みを作ったがそれもすぐに消えた。
「今、敵に仕掛けられるとまずいことになるぞ。この雨の中じゃ銃が撃てん」
「幸か不幸か雨で地面が柔くなっている。敵の主戦力である騎兵を動かすには不向きだ。何もしてこない……と思いたいな」
「俺が敵の指揮官ならこの雨は見逃さん。前衛のドゼーに警戒を厳しくするように言っておくか。もっとも、やつなら言われるまでもないことだろうがな……」
クレベールが言い終えて湯気を放つコップに手を伸ばした時、轟音が響いた。それは落雷のように聞こえるかもしれないが、二人はそれを正しく理解した。
「砲声だ。二回、三回だ。敵だ!」
デュマが勢いよく立ち上がり、椅子がひっくり返った。
「仕掛けて来たか。可愛げのない! 兵を集めろ、戦闘準備!」
クレベールとデュマは雨具も着ずに外へ飛び出す。後を追いかけるように副官たちが続く。
『王都』の北岸、『戴冠の丘』周囲に布陣してダーハド軍と最も近いドゼー将軍の前線部隊は雷雨に交じって響く馬蹄が大地を蹴る音を聞いていた。警戒の大砲が撃たれて兵士たちは雨を凌げるテントから這い出して戦うことになるのを罵った。
「ドゼー閣下、敵が出てきました。この雨では銃は使えません。どうしますか」
部下のフリアン大佐が不安に問う。ドゼーは口に手を当てて少し思案した。容赦ない雨が全身を濡らして服をじっとり重くするがドゼーはまるで意に介さなかった。
「敵が出て来たと言っても、おそらく数十騎か数百騎程度でしょう」
そう答える。決して楽観ではない。もし敵の総攻撃なら数千、数万の騎兵を陣地から出して適切な陣形を組む必要がある。いくら豪雨で見通しが悪いといえど、その規模の人間が移動すれば必ず察知できる。
「陣地には簡単な防柵もあり小規模の襲撃でやられることはありません。兵士たちの動揺を鎮めて反撃の準備を。それと、騎兵部隊に出動命令。ダヴーの竜騎兵隊が近くに来ているはずです」
「応戦させますか」
「いいえ。数百騎程度の攻撃で我々は破れない。にも拘わらず、この悪天候で出撃してきた敵の意図が気になります。功を焦った突発的な攻撃か、あるいは嫌がらせか、もしくは……」
「もしくは?」
「包囲している『王都』と何かしら連絡を取るためか、あるいは要人の脱出のためか。『王都』方面に騎兵を放って阻止させなさい」
「はっ」
ドゼーがそう言って『王都』を指差した時、その方角が青白く輝いた。
「あの光……」
ドゼーには見覚えのある光。『川辺の都』をめぐる戦いの最中、敵将ドルダフトンが用いた精霊の力が発揮される光だ。恐怖が這い上がり、兵士たちを混乱に陥れるこの世界の常識を超えた力。
しかし今回、光が見えるばかりであの時感じたような、心の底から這いあがるような恐怖心はドゼーの内になかった。ただ光っているだけである。術が不発に終わったのか、クルーミルが連れて来た術師たちが抑え込んでいるのか、距離がありすぎるのか……いずれにしろ、敵が何か仕掛けて来たのは間違いなかった。
フランス軍の歩兵たちが雨で銃を使えず、見通しの悪い中を固まって敵騎兵に備えている。一方で『斧打ちの国』の騎兵たちは歩兵を積極的に攻撃しようとせず、遠巻きに矢を射掛けたり叫び声をあげて混乱を誘おうとしているようだった。戦闘は騎兵同士で発生した。
「ドゼー将軍からの命令だ。『王都』の門を見張る。我々は緑の精霊門だ」
叫ぶのはニコラ・ダヴー将軍だった。彼の指揮する第十四竜騎兵連隊の兵士たちは敵よりもこの指揮官のほうを恐れ、また尊敬している。彼らが見張る緑の精霊門と呼ばれる門は『王都』の北西の門でダーハドの軍に最も近い門だった。
眩い光が『王都』の方から発せられた時、ダヴーは咄嗟に右手で顔を覆った。雨音に交じって重たい鉄が動く音がする。敵の矢が届かないよう距離を取っているためよくはわからないが門が開く音に違いない。
「敵が城門から出てくるぞ! 行かせるな!」
ダヴーと配下の騎兵たちは城から打って出る人馬の影目掛けて突進した。数は百、いや、八十前後か。
『斧打ちの国』の騎兵たちも道を塞ぐフランス騎兵の壁を切り抜けようと突っ込み、双方のサーベルの煌めきが稲光に反射して輝いた。互いに声を張り上げる事も無く、金属のぶつかる音と傷つけられた馬のいななきが雨音に交じって不気味な合唱を生んだ。
ダヴーはサーベルを振り、すれ違いざまの敵騎兵の右胸を切りつけた。確かな肉の手応えを感じ、振り抜くと鮮血がほとばしった。この世界の騎兵は大なり小なり鎧を着ているものだが今回は着ていない。少しでも身軽になるためだろう。これは戦うために出て来たのではない。ドゼーの読み通り、逃げ出すために出て来たのだ!
「一騎たりとも通すな!」
逃げにかかる敵騎兵をフランス騎兵は容赦なく追い立てる。今まで騎兵戦で劣勢だったフランス騎兵はここぞとばかりに襲い掛かり、次々に敵を雨に濡れた草原や泥と化した道に倒していく。
全滅させられる、と思った瞬間だった。ダーハドの陣地から駆け抜けて来た騎兵たちが『王都』から脱出しようとする騎兵たちに応援に駆けつけてしまった。矢が降り注ぎ、今度はフランス騎兵が倒れる番だった。そのまま戦えば全滅するのはダヴー配下の騎兵たちだったろう。しかし敵は味方を救出するとそれ以上戦おうとせず、さっさと引き上げてしまった。
「クソッ!」
雨に紛れて遠ざかっていく敵を見ながらダヴーは叫んだ。なんという無様だ。
「将軍、これ以上は追撃できません。引き返しましょう」
部下の進言に黙ってうなずくとダヴーは馬首を返した。雨雲が敵と共に遠ざかっているらしく、南側からは久しぶりの青い空と陽光が見えている。そして地平線に見える一団も。
「あの集団はなんだ」
近視のダヴーが尋ねると部下は答えた。
「赤い馬車が見えます。総司令官が戻られたのでしょう」