第四十話 雷鳴の主
『川辺の都』に朝が来る。夜通し続いた激しい雨と雷は遠ざかっていく。思い出したかのように都の各所で散発的な銃声と兵士たちの叫ぶ声が発せられて、雨音に取って代わった。
「こうも濡れては王宮に火を放つのも難しかろうな。まだ門は破れんか?」
「抵抗が激しく……」
オーロー宮を取り囲む反クルーミル派の兵士たちの主、サーパマド伯は苛立った声で部下に問いかけた。蜂起して既に四日。未だにオーロー宮にはクルーミルの旗とボナパルトの三色旗が翻っている。突入した部下たちは予想以上に激しい抵抗を前に傷つき、数を減らして戻ってくる。
「伯、時間はあります。急がずともよろしいかと」
側近の一人が言う。
「それはそうだ。クルーミルめは今頃、ダーハド王に散々に打ち破られて逃げ戻る途上であろう。ここまでたどり着くことすら危ういかもしれん。だが、もたもたしていればダーハド王が来てしまう。そうなればここにもまた連中の貴族が入るだろう。せめてここだけでも我々の力で落とし、これ以上『斧打ちの国』の貴族共が出しゃばってくるのを防がねばならん」
この戦いはクルーミル派とダーハド派という構図だが、ダーハド派の中にも『草長の国』にルーツを持つ貴族たちと『斧打ちの国』にルーツを持つ貴族たちがいる。サーパマド伯は『草長の国』にルーツを持つ貴族だった。
「非力な女王も、よそ者の王も、異郷の傭兵共も。みな、この国から叩き出してやるのだ」
都の城壁の内側でサーパマド伯とその部下たちが戦っている中、城壁の外側ではロッソワム公が兵を率いて集結していた。その数は歩兵と騎兵合わせて一千。
「おい。なにか音がしないか」
雨上がりのじめじめした感触と泥まみれになった地面に不快感を催しながらロッソワム公の騎士の一人が従者に尋ねる。先ほどから、微かにだが何か響くような音が聞こえてならなかった。
「雷ではありませんか? 雨は『王都』のほうへ遠ざかって行きましたが」
「あれはなんだ」
なだらかな草原の丘の頂に何かうごめくものがその騎士には見えた。
「人でしょうか? それとも、近くの羊飼いの羊?」
「こっちに来るぞ。……人だ」
無数の人の群れが次から次へと丘を越えてくる。百や二百ではない。千か、二千、それよりも多いかもしれない。それらは大街道から逸れて形を変えていく。横に、細長いいくつもの集団に。
「あれは、フランスの軍だ! ロッソワム公にお伝えしろ、フランス軍が来た! 何千といるぞ!」
従者は大急ぎで馬に跨ると駆けていく。
「数千のフランス軍とな」
ロッソワム公は食事の最中に駆け込んできた従者の報告を笑った。
「まさか、クルーミルが戻って来たのでしょうか?」
「それはあり得ん。大方、クルーミル派の連中とボナパルトの後方警戒の寄せ集めだろう」
蜂起から四日。敵の使いが『王都』にたどり着くのに、どんなに早くとも一日か二日はかかる。それから軍を取って返すなら十何日とかかるのが普通だ。そうでなくとも、クルーミルの前にはダーハドの軍が居る。軍勢が戻ってくるなどあり得ない。となれば、いくらかの後方部隊が戻って来たに過ぎない。
「慌て者めが、敵の数を過大に見積もったのだろう。敵はせいぜい、数百かそこら。食後の運動がてら、蹴散らしてやろうか」
「それがよろしゅうございますな」
ロッソワム公は悠然と食事を続け、葡萄酒を飲み干してからようやく立ちあがった。
「鎧と槍を持て、馬を引け。者どもを集めろ」
丘陵の上、赤く塗られた馬車からボナパルトが降り立った。ズキリと肋骨が痛むのを奥歯を噛んで堪え、望遠鏡で『川辺の都』の郊外に陣取る敵を見やる。
「鈍い。数も少ない。一気に押し出して蹴散らせと部隊に伝えろ」
傍に控えた義息子で副官のウジェーヌが司令官の命令を伝えるべく駆けだしていく。
同じく馬車から降りたクルーミルは、丘を下って攻撃を始めるフランス兵たちに感嘆せずにはいられない。彼らは二日間、雨に打たれながら僅かな休止の時間を除けばほとんど休みなしで歩き続けた。そして今、そのまま戦闘を始めようとしている。『草長の国』いや、この世界にこのような事ができる兵士はいるだろうか? 肉体面だけなら可能だろう。
ボナパルトが用いた術は二つある。軍の移動速度を上げるために足の遅い補給馬車の類は連れない事だった『川辺の都』が自分たちの拠点であるため、都を制圧すれば物資の問題は片付く。もう一つは、兵士をほとんど一日中歩かせることだった。一時間に三キロ移動できるなら、十六時間歩けば四十八キロになる。これはやろうと思えばグルバスの軍隊にも模倣できるだろう。
だが、問題は精神的な面にある。何が彼らにそうさせるのだろうか。自分の横にいる、この人には数千の兵士たちを不眠不休で歩かせることができる力がある。彼女と軍隊の絆がそうさせるのだろうか。それとも、利害の一致がそうさせるのだろうか。自分にも、それは可能なのだろうか……
半ば戦闘準備の整わぬロッソワム公の軍勢にフランス兵たちは容赦なく襲い掛かった。彼らは疲労していたが、それを上回る怒りがあった。自分たちの背後から突然襲い掛かって来た者たちを、兵士たちは許しはしなかった。
「殺せ! 卑怯な裏切者共を殺せ!」
「殺せ!」
狂乱する兵士たちは次々と隊列も乱れがちで指揮も執れていない敵に銃撃を加え、銃剣を突き立てた。
「馬鹿な。数が多すぎる。なんだこれは、どうなっているのだ?」
ロッソワムには状況がまるで分らない。これほどの軍勢がなぜここにいるのか。
「ボナパルトの兵が、なぜこれほどここにいる! 各拠点の守備隊が合流してきたにしても、数が多すぎる!」
「まさか『王都』から引き返してきたのでしょうか?」
「馬鹿を言うな。どれほど距離があると思っておるのだ。落雷に乗って来たとでもいうのか。草原渡りの風に連れてこられたとでもいうのか! いいや仮にそうだとしても連中の前にはダーハド王の軍がいたはずだ。王が、背を見せる敵をむざむざ見逃したというのか?」
いくら叫ぼうが、考えようが目の前に広がる現実をロッソワムは受け入れるほかなかった。彼の部下たちは次々と倒れていき、戦闘と呼べる状態ですらなかった。殺す側と殺される側が一方的なものになりつつある。
「公、これではもはや勝負になりません。降伏し、女王の慈悲にすがりましょう。我らロッソワム家はグルバス王に従った一族。女王とて、厳罰にはできますまい」
ロッソワムは降伏を勧める自分の家臣を睨みつけた。
「馬鹿者が。裏切者にどのような許しがあるというのだ。追放刑が縛り首になるだけだぞ」
「我々はダーハド王に一度降伏し、クルーミル女王にもう一度降伏したではありませんか。二度が三度になったところで……」
「話にならん! そう思うなら許してつかわすゆえ、クルーミルにそう申し開きせよ。ワシは処刑など耐えられぬ。かくなるうえは斬り死にするまでよ!」
「公!」
ロッソワムは馬に鞭を打つとフランス軍の戦列目掛けて遮二無二駆け込んだ。そして、銃弾を全身に浴びた。
「門を閉ざせ。敵を入れるな!」
各門の守備隊が城門を閉ざそうと急ぐ。その前に別の一団が立ちはだかった。それぞれに手斧や鎌、棍棒を持って武装しているが、兵士ではない。
「お前たちは……職人組合だな。なんのつもりだ!」
「ネーヴェンの親父さんの指示でね。あんたら親父さんを騙したそうじゃないか。都で騒ぎを起こすってのに、俺たちに一言も無い。利益は無いし、面子も潰すとあっては、こっちも黙ってられないんだよ。あんたらの旗色も悪そうだしな」
「商人ごときが政治に口出ししようというのか! 剣の錆にしてくれるぞ!」
「組合舐めるんじゃねえ!」
いくつかの城門で都の組合と反クルーミル派貴族の兵士たちの乱闘騒ぎが起こった。商人組合や職人組合貴族と商人の利害関係の発露でもあった。都の主だった商人たちはクルーミルとボナパルトにいくらか金を貸していたし、兵士たちへの物資供給の面で利害関係を持っていたという事情も重なる。
やがて内と外から攻められた城門は開かれ、フランス兵たちがドッとなだれ込んだ。
「オーロー宮を最優先に、武器庫、兵営、負傷兵の居る病院、わが軍の兵士たちが駐留している各拠点を救出しろ! 急げ!」
陣頭指揮を執るのは師団長のムヌウに替わったヴィアル将軍である。兵士たちは散り散りになって集まってくる敵を各所で破りながら都市を急速に奪還していった。反クルーミル派はあまりに早い事態の展開に全く追い付けなかった。蜂起自体、クルーミルに悟られないように極秘に進めた結果、知るものが一握りしかおらず、大部分は訳も分からないまま、戦闘に参加したに過ぎない。サーパマド伯の計画ではクルーミル派が狼狽えているところを急襲して都を占領し、ダーハド王に敗れたクルーミルを挟み撃ちにするはずだったのだ。全てが破綻した。
日が傾く頃には全てが決着した。抵抗が止み、フランス軍の勝利が明らかとなった。サーパマド伯他、十数人の貴族が捕らえられ、兵士もほとんどが降伏し、武器を捨てた。戦闘を決したのは銃や砲ではなくボナパルトの電撃的な進軍の結果だった。
オーロー宮に向かうその途上、ボナパルトとクルーミルは激高したフランス兵たちが降伏した兵士を銃で殴りつけているさまを見た。
「殺せ! この卑怯な裏切者共を殺せ!」
「ギロチンだ。ギロチンにかけろ」
「いいや、火あぶりだ。油を持ってこい!」
「河に放り込め!」
「何をしている。お前たち」
ボナパルトが割って入った。
「司令官閣下! こいつらは裏切者です! 通りで喉を掻き切られて死んだ仲間の死体を見ました!やつら、巡回してた兵士を後ろから襲ったに違いありません。こいつらはいきなり襲い掛かったんだ!」
「軍の病院で負傷兵が窓から放り出されていました! 戦えない者にも手をだしたんだ。このクソったれの獣共! 血の報いを受けさせてやります」
「司令官閣下、大砲の使用許可を下さい。連中をまとめて皆殺しにしてやります!」
「閣下! 復讐を!」
「……」
ボナパルトは顔を赤くし、怒り狂う兵士たちの顔をその燃え尽きた灰のような輝きを放つ瞳に映した。ガラス玉のように冷たく、硬い。軍隊の背後で起こった反乱。それは当然、戦場とは違う陰惨なものになる。兵士たちは復讐の鬼と化して見境なく殺すだろう。ボナパルトは知っていた。かつて戦ったイタリアで同じことが起きた。こういう兵士たちを抑えるのは並大抵のことではない。下手をすれば自分のほうが怒りを向けられる。ボナパルトが自ら反乱鎮圧に訪れたのは戦闘指揮のほかに、こうした事態を収拾するためでもあった。
「兵隊。お前たちはなんだ。フランスの兵隊。兵士を背後から襲う卑怯者か。負傷兵を投げ捨てる冷酷な殺し屋か。武器を捨てた兵士を殺す殺人鬼か。そうではあるまい」
ボナパルトの声はいっそ冷たいと言っていいほど落ち着いていた。
「お前たちの怒りは当然だ。仲間の仇を討つのは当然だ。だがお前たちは規律ある兵隊であって、殺し屋でも殺人鬼でもない。兵隊とは、指揮官の命令に従うものだ。お前たちもそうだし、お前たちが打ち据えたこの哀れな男たちもそうだろう。憎むべきは、この哀れな男たちではない。この男たちは主人の命令に従うだけの哀れな奴隷共でしかない。憎むべきは、この者たちを駆り立てた指揮官だ。そのものたちは全て捕らえ、正当な、秩序と、理性と、法によって裁かれる」
ボナパルトはクルーミルの手を引いて兵士たちの前に連れ出した。
「このクルーミルが、連中を裁く。私が彼女にそれを誓わせる」
兵士たちは大きく息を吸って、吐いた。握りしめた銃には未だ力がこもっている。
「司令官閣下、こいつらは我々の背中を刺したんです。これからどうやって安心して眠れというのですか。また、いつ背中を襲われる恐怖に耐えながら眠れと仰るのですか!」
「そうだ!」
ボナパルトの声は一段大きくなった。
「お前たちは恐怖と、それに打ち勝つ勇気を抱えて眠る!私も同じだ。私も耐えている。この言葉もろくに通じない世界で私もいつ裏切られるかと恐怖しながら眠っている。そして恐怖に打ち勝つように努めている。裏切りの恐怖に勝つものとは? 信じる心だ。相手を信じてやるのだ。自ら望むところを相手に施せ。兵隊。我々は人間性と理性の国から来たのではないか。私とお前たちは一つだ。お前たちの痛みは私の痛み。私の栄光はお前たちの栄光だ。私が耐えるように、お前たちにも耐えてほしい」
兵士たちは銃を降ろした。
「閣下、閣下、必ず裏切り者たちに報いを」
「約束しよう。この者たちはしばらく捕らえておけ。重ねて言うが、殺してはならん」
ボナパルトは握ったクルーミルの手に力を込めた。
「話は聞いていたわね。私は私の軍隊を守る。二度とこんなことが起こらないように、首謀者連中は全員厳しく罰するのよ。貴女の名において。ここは貴女の国。貴女の民が起こした出来事よ。もし貴女が躊躇するなら、私がやる。連中の首を刎ねて、領地に攻め入って城を焼いて、村を燃やす。二度と抵抗できないように容赦しない」
「……勿論です。私が彼らを罰します」
ボナパルトはクルーミルから手を離して、護衛に囲まれながら王宮への道を進んだ。
兵士たちに言った言葉は嘘ではない。だが綺麗事だけでもない。戦場の外で血を流すのは、クルーミルにやらせるほうがよい。民を裁くのが女王の権利だからでもあるが、処刑によって買うであろう貴族たちの恐怖と恨みの矛先は自分よりクルーミルに向けさせておくほうが都合がよい。
復讐の怒りに燃える兵士たちに好き勝手をさせればたちまち規律は失われる。そうなればせっかく略奪を禁止して現地住民との友好に努めてきた努力が水泡に帰す。今回は貴族率いる組織的な反乱だったが、住民との関係が悪化すれば住民個々人の集まった偶発的な暴動が頻発し、そのたびに兵士を失うことになる。小さな傷から出血が止まらないように、だらだらと血を流して倒れることになる。それだけはなんとしても回避したい。ゆえに、兵士たちを制止しなければならなかった。
それに、とボナパルトは思う。クルーミル派とダーハド派の戦いの旗色は明確になったが、もう一つ我々の世界と彼らの世界という対立軸が遠からず、芽吹くだろう。文明の衝突の必然だ。異なる言葉、異なる文化、異なる風習……今のところ、学者たちと学びに来る者たちは二つの世界を結び付けようとしている。だが、決裂した時には?我々が、異世界からの侵略者であることが明らかになった時には? クルーミルには、こちら側について欲しい。そのためには、まずは今、ここで彼女に「こちら側」として敵の処刑をしてほしいのだ。