第三十七話 急転
日が上る。『戴冠の丘』の戦いから一夜が明けていた。
激戦を生き延びた兵士たちが一晩の眠りから起き出して朝食の準備に取りかかり、当番ではない兵士はもうしばらく体を横たえていたり、ヒゲを剃ったりして過ごしている。
ボナパルトもテントで朝食をとっている。不機嫌そうな顔はいつもと同じだが、戦いで負傷した肋骨の激しい痛みでよく眠れず、寝不足のために親に叱られて不貞腐れたような顔でパンをスープに浸して口に運び食事の味などまるで関心がないように、目線はテーブルの上に置かれている書類に注がれていた。参謀長のベルティエと各師団長が徹夜でまとめ上げた報告書だ。そのベルティエはテントの敷物の上に毛布を敷いて眠っている。横では副官のウジェーヌが食事をとっている。
「さて……」
今後、どのように行動するべきだろうか。敵は二つ。一つは先日破ったダーハドの軍。現在の総兵力は二万前後と見積もられている。不十分とはいえ追撃した結果いくらかの補給馬車の隊列を捕獲することに成功した。敵はしばらく組織立った、大規模な戦闘は行えないと判断して良い。これをドゼー将軍率いる一万の兵が追跡し、ゆっくりと落ち着いて部隊を整える余裕を与えないようにする。二万に対して一万は不足に思えるが、敵軍の中で脅威と言えるほど戦闘力と戦意が高いのは騎士たちだけでその数は五千か六千程度。大部分を占める歩兵たちは数のわりに強くはない。それに対してフランス軍は末端の兵士に至るまで戦闘力がある。追いつめて撃破することは難しくても、監視と妨害は十分できるだろう。
もう一つの敵は『王都』の敵守備隊。こちらは三千ほどで、ボン将軍率いる五千の兵と砲兵隊が包囲している。既に城壁の一部に損害を与え、突入の準備を窺っている。クルーミルが連れて来た接近戦が得意な歩兵たちの準備が整い次第、攻略することになるだろう。クルーミルの都の破壊はなるべく避けたい。この都に我々は駐留し、物資を調達し、税を取り立てて軍を装備するのだから。なるべく無傷で手に入れたい。
私の手元に残っているのは死者と負傷兵を差し引けば二万七千人。そのうち六千ほどは『川辺の都』で徴募した兵士であり、戦力に数えるには頼りないことが明らかになった。あてにできるのはフランス兵二万一千人。このうち一万を追撃に出す。残り一万一千人が手元に残る。他には『川辺の都』と『剣造りの市』といった街に駐留している守備隊。それと浜辺に停泊している艦隊の水兵が数千人いるだろう。これが全てか!
兵士は戦えば失われる。銃も、砲も、弾薬も。軍隊を失えば私はこの世界で一体何者であるだろうか?ただの言葉も通じぬ異国の地からやってきた、なんの富も、後ろ盾も持たない一人の人間に過ぎない。クルーミルは私を信用している素振りをみせている。彼女は優しい。しかしそれは私の背後に控える数万の兵士たちを見ているからに違いないだろう。そうでなければ、一国の女王ともあろう人間が私に好意的になるはずもない。私はどこまで行ってもよそ者なのだ。軍隊と、戦いに勝つことだけが私を保障してくれる。力だけが……
「義父上?」
「なに」
「いえ。表情がいつもより暗いので、傷が痛むのですか?」
ボナパルトはウジェーヌの顔を見た。まだ子供っぽさが残る若者の顔。ジョゼフィーヌの面影を感じさせる顔。
「ウジェーヌ。もし私が戦いに敗れて、全ての兵士を失ったらどうする?」
「僕がお傍にいます」
ボナパルトは首を横に振った。
「ウジェーヌ。敗軍の将についていくと破滅するわ。その時は母親と妹を連れて私から離れることよ」
「そんなことを仰らないでください。僕は革命で父親を亡くしました。二回は嫌です」
「お前はいい子だ。ウジェーヌ」
パンとスープを食べつくしたボナパルトは傍に控えている召使に水を持ってこさせた。グラスに水が注がれるのと同時に、テントの外にいた警備が飛び込んできた。
「司令官閣下! クルーミル女王が至急お会いになりたいと仰っています」
「クルーミルが? 分かった。通せ」
そう言い終わらないうちにテントにクルーミル本人が乗り込んできた。見事な金髪に照らされて部屋が少し明るくなったように感じられる。
「ナポレオン。突然すみません。ですが至急、お伝えしなければならないことが」
「女王自らが出向くほどの事?」
「『川辺の都』に残したアビドードから急使が来ました。都で反乱が起きたと。日付は二日前です!」
「反乱! ……規模は」
「反乱軍の規模はおそらく三千前後です」
まずいことになった。ボナパルトは全身の血が沸騰するのを感じる。三千前後の敵。守備に残したフランス軍はそれよりも多いだろうが、各地に分散され反乱軍に各地で撃破される可能性がある。後方との連絡が取れなくなれば、自分たちは敵の真っただ中で孤立することになる。後方には軍が機能するのに欠かせない生産拠点や火薬庫がある。それらが失われれば戦いどころではない。
「クルーミル!」
お前は自分の貴族の反乱を防ぐこともできないのか。という言葉が胃から吐き出しそうになったのをボナパルトは辛うじて食い止めた。自分が苛立っていることが分かる。
「仰りたいことは分かります。反乱を未然に防ぐことができませんでした。申し訳ありません。ですが、備えはしています。万一に備えてアビドードが手勢と共にオーロー宮に立てこもっています。我々が引き返すまでの十日、守り通してくれるはずです」
「それは良い知らせね。フランス軍もデュガ将軍とカファレリ将軍の守備隊が守ってくれていればいいけど」
「この反乱はダーハドが手を回したものでしょう。前方で自ら軍を率い、我々の注意がそちらに向いている間に後方で反乱を起こさせた……」
「妹相手に容赦ない事をするお兄さんね」
ボナパルトは思考を回転させる。我々の後方で反乱が起きたことをダーハドは知っているだろう。我々が慌てふためき、うろたえることを期待しているに違いない。軍を後退させればすかさず反撃に転じてくるだろう。背中を見せたところを有力な騎兵に攻撃される! 軍隊の悪夢だ。後退は得策ではない。とはいっても後方を無視するわけにはいかない。
「ベルティエ、起きろ!」
ボナパルトは床で眠っているベルティエを揺さぶって起こした。
「……はっ、はい。司令官閣下」
徹夜明けの睡眠を妨害されたベルティエは顔をしかめながら体を起こした。
「『川辺の都』で反乱が起こった。対処する。ドゼー、レイニエ師団は予定通りダーハドと対峙せよ。敵の攻撃に十分備えるように。クレベール師団と徴募兵軍団は部隊の再編を完了し次第、ドゼー軍に合流せよ。総指揮はクレベール将軍が執ることとする。ムヌウ師団はただちに出動の準備を整えよ。今日のうちに『王都』を発ち『川辺の都』まで強行軍する。師団の指揮は私自ら執る……」
ボナパルトは矢継ぎ早に命令を発し、ベルティエはそれを大急ぎで書き留めていった。
「司令官自ら師団を率いて行かれるのですか」
「前面の敵に敗れても立て直しが利くが、後方を奪われるとどうにもならない。私が確実に鎮圧する」
「はっ……」
「クルーミル」
「はい。私も急ぎ兵の支度をします」
「兵はいい。貴女の兵隊がいると足が遅くなる。それより、貴女の連れて来た手勢の中にダーハドと内通している裏切り者がいる可能性は?」
「それはありません。ダーハドに内通するような者たちは既に離脱するか、従軍していません」
「言い切るわね。でもこっちの旗色が悪くなったとみるや心変わりするヤツらがいるかもしれない。監視の目を厳しくしておきなさい。万一の時は即座に排除できるように」
「……わかりました。ニッケトに監視させます。」
「それじゃ支度して。二日後には『川辺の都』へ着く。持ち物は身軽に」
「ふ、二日ですかいくらなんでもそんなに早くは……」
クルーミルは燃えるように赤い瞳を大きく見開いた。
「私の軍隊はたどり着ける」




