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異世界大陸軍戦記-鷲と女王-  作者: 長靴熊毛帽子
第四章『草長の国』戦争~王都戦役~
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第三十六話 最も高潔なる人

 ドミニク・ラレ。軍医である。やや伸びた黒髪に、穏やかな顔立ちを持ち、誰とでも打ち解けられるような笑みと柔らかな態度で知られる、フランス軍きっての紳士である。そんな彼は今、普段の様子からは想像もできないような血走った目をしていた。彼の居る野戦病院はいくつものかがり火に囲まれ、昼のような明るさと熱を持っている。


「次の負傷者をここへ!」


 敵が撤退し、日が沈み、戦いが終わった後も彼の仕事は終わらない。戦闘が終わった後に残される大量の負傷者の傷を見てやり、止血し、包帯を巻き、場合によってはその最期の言葉を聞き取らなければならなかった。


 板の上にシーツをかけただけの粗末な、血で赤黒く染まった手術台の上に寝かされた兵士は多量の出血でがくがくと震えていた。右腕が鋭利な刃物で切り裂かれている。兵士は顔面を蒼白にしながらグルバス語で何か叫んでいた。ラレにはその言葉は分からないが、手術台に乗る患者の言うことと言えば、痛みを訴えるか、死の恐怖を嘆くか、親しい人への遺言のいずれかだろう。


「ノコギリを」


 助手から切断用のノコギリを受け取る。別の患者の足を切り落とすのに使ったせいか、歯と歯の間には肉片が挟まっている。一応洗ってはいるのだが、洗面器は既に真っ赤に染まっていて用をなさなかった。


 傷口を放置すれば、壊疽を起こして命にかかわる。速やかに切断し、傷口を縫い合わせてやる必要があった。


「すぐに済むからな」


 ラレは患者に木片を噛ませた。痛みで奥歯をかみ砕いたり、舌を噛んでしまわないようにするためだ。

 ノコギリの冷たい感触が触れると、患者の男は静かになった。気を失ったのだ。


 一分とかからず腕が切断され、傷口が縫い合わされる。感染症にかからなければ死ぬことはないだろう。


「次!」


 次に運ばれてきた男は既に息絶えていた。赤く染まった右足には槍で刺したような傷があり、それが動脈を傷つけて大出血を引き起こしていたようだった。


「なぜもっと早く連れてこなかった。もっと早く手当していれば……止血帯があれば助かっただろうに!」


「この男は戦場で放置されていたんです。……運んできた時にはまだ息があったんですが」


「……次の患者は」


「これで最後です」


 助手の言葉にラレは全身に張り巡らされていた緊張の糸が切れるのを感じ、その場に倒れかけた。


「先生!」


「大丈夫だ。大丈夫だ。全部で何人だった?」


「切断五十四人、戦線復帰可能な者九十九人、半分以上は敵の兵士です。先生」


「そうか」


「負傷している人間は全員運び込めとの命令でしたので、そうしましたが、敵の兵士を治療する必要があるんですか?先生」


「戦いが終わったからには、我々は敵と味方ではなく、人間と人間だ。救えるものは救わなくては……水を貰えるかな、喉がカラカラだ」


 助手が水を差しだすと、ラレはそれを一息に飲み干した。


「少ししたら、総司令官のところに負傷者のリストを提出しに行かなくては……」


「はい先生」


 血に塗れたエプロンを脱ぎ、両手を綺麗な水で洗っていると、負傷兵たちのすすり泣く声と痛みに耐えるうめき声、そして叫び声が聞こえて来た。


「こういう戦場は何度も見てきたが、いつ聞いても胸を痛めずにはいられない声だ……」


 ひときわ、大きな声で泣く男がいた。あまりに激しく泣くので、周りの負傷兵たちも不思議がっているほどだった。ラレはその男に駆け寄って、どこか痛むのか、と問いかけた。男はグルバス語で早口に喋りたてる。


「なんて言ってるんだ?」


「さあ。グルバス語ですから、わかりません……」


「通訳がいただろう。呼んできてくれ」


 しばらくして、通訳が呼ばれた。通訳は悲鳴を上げる男の話を聞いた後、ラレの手を取って交信した。


「彼は死ぬより辛いと言っています。この腕では、村に帰っても仕事が無いと。仕事が無ければ食べていけないと。家族を養うどころか、邪魔者になってしまうと泣いています」


「負傷した兵士への手当は? 年金は出ないのか。村は、勇敢に戦った男を出迎えてはくれないのか?」


 ラレは思わず通訳に詰め寄った。命がけで戦った名誉ある兵士が、故郷に帰ればのけ者になるなど、彼には許しがたいことだった。


「出迎えてはくれるでしょう。最初は温かく。しかし、食い扶持を自分で稼げないなら次第に温情は冷めるでしょう。貴族ならともかく……農民や町人の徴募兵や傭兵などに名誉は……」


「なんということだ!」


 ラレは泣く男の肩を掴んだ。


「なんとかします。必ず、あなたに名誉ある安らかな人生を約束しますから」


 そう言うとラレは立ち上がり、総司令官の居るテントへと歩き出していた。



「軍医のラレだ。至急ボナパルト司令官に取り次いでいただきたい」


 夜更けにもかかわらずラレは司令官への面会を警備の者に願い出た。


「総司令官閣下はお休み中ですが……」


「いいから取り次ぎたまえ!」


 気迫の迫るラレに警備兵はテントの中へと消えていき、しばらくして、面会が受け入れられた。


「どうした?」


 入室したラレを司令官……ボナパルトは何事もないように出迎えた。戦闘後で疲労がたたっているであろうにもかかわらず、まるで日中の執務時間に予定通りの面会であるかのように平然と。


「お怪我の具合はいかがですか。司令官閣下」


「痛むが悪くない。だが、そんな用ではないだろう? 用件を言いたまえ」


「はっ。負傷兵の取り扱いのことについてです」


 ボナパルトはぼさぼさの黒髪を掻きむしった。


「最重要の用件だな。兵士の命と健康は……特にここでは。ラレ、兵士の命を一人でも多く救うのが君の仕事だ」


「その通りです。兵士の命を救わなくてはなりません。どこであっても。しかし、戦場で兵士たちは負傷したまま放置され、手当てする軍医も助手も全く足りていないのが現状です。負傷兵を迅速に後方に運び、治療することができれば彼らの生存率を高めることができます」


「イタリアで戦っていた時に貴官がやっていたことだな。だが、難しい話だな。負傷兵を後ろに運ぶことを許可すれば、戦闘から逃げ出したい兵士たちがそれを口実に戦線離脱しようとするだろう。そうすれば前線の戦闘力が減り、戦いに敗北しかねない」


「兵士に負傷兵を運ばせるのではなく、専門の医療部隊を組織し、彼らに運ばせるのです。そうすれば前線の兵を減らさずに済みます」


 ボナパルトは思案する。戦闘中に負傷兵を回収しようとすれば、戦闘の邪魔になるのではないだろうか。また、戦闘から離脱できる可能性は兵士たちの戦闘意欲を削ぐことにはならないだろうか。人員をどうやって集めるか、そしてその費用をどこから捻出するべきか……



「もう一つ、戦線復帰できない負傷兵についてです。手足を失った彼らは仕事に戻ることもできず、名誉も生きる糧も失います。彼らの生活をなんとか保障する仕組みを設けてはいただけませんか。フランス本国には、負傷兵の余生のために廃兵院があるではありませんか」


「……」


 負傷兵!これも悩みの種だ。イタリアで戦っていた頃は負傷した兵士はフランスに送り返してそれで終わりだった。後のことは政府が面倒を見る領分で自分の管轄ではなかった。だがここではそうした兵士たちの面倒を見る必要も出てくる。当然ながら。ボナパルトはさらに頭を抱えた。


「兵士たち……特にグルバスの兵士は負傷することを恐れています。ここには、負傷した兵士たちの面倒を見る仕組みや制度が無いからです。もし彼らに、十分な年金と名誉を与えることができたなら兵士たちは負傷を省みず、勇敢に戦えるでしょう。それは、勝利への大きな動力になるのではありませんか。閣下」


「ああ……」


「もしそれにかかる費用が捻出できないというなら……私が支払います。持ってきた制服を売ればいくらかの金になるでしょう。このサーベルとピストルも。ほかに差し出せるものがあるなら全て出しましょう。フランスにある財産を担保に、他の士官から金を借りてきます。そうだ。この結婚指輪も……」


「わかった! 指輪はとっておけ。金か。金はなんとかする。なんとかしよう。それが総司令官の仕事だからな。金の心配まで貴官がしなくてはいい。……兵士たちの命には代えられない。私の権力は全て兵士たちの銃口から湧いて出ているんだからな……」


「閣下……」


「ラレ。君に医療部隊の編成を命じる。戦場で兵士たちの命を救う仕組みを用意するんだ。いいな。費用のことは気にするな。私が調達してこよう。負傷兵たちに名誉を与える……これは時間がかかるだろう。戦いに加わることを誇りにして……()()()()()()()()()()を刷り込んでいかなければならない。だが、年金は用意できるだろう。とりあえず、金だ。金があれば生きていけるだろうからな。これも……なんとかしよう」


「ありがとうございます閣下。ありがとうございます。全ての負傷兵に代わってお礼を申し上げます」


「気が早い。それは制度が整ってから言ってくれ」


 ボナパルトはラレの熱烈な感謝の言葉に半分照れ隠しでそっけなく答えた。


「はい。閣下!」


「用件はそれが全てか?」


「はい。閣下」


「では下がってよし。私はもう少し寝る」


「夜分遅く、お休み中に申し訳ありませんでした閣下」


「ああ」


 ラレが退室しようとした時、ボナパルトは改めてラレを呼び止めた。


「ラレ。貴官のような男が軍隊にいてくれるのは、兵士にとって幸せだろうな」


 そして声にならないような小さな声で付け加えた。


「私にとっても」



ラレが戦場医療を考案し始めたのはライン軍に居た頃らしいので実際にはこのころには既にそういったシステムを考案しているはずなのですが。お話の都合ということで一つ……

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