第三十五話 血に塗れた勝利
日が落ちた。
無数のかがり火が草原を照らしている。"勝利者"となったフランス兵たちはそれぞれに集まり、パンと酒で今日を生き延びた喜びを戦友たちと分かち合っている。勝利の栄光を誇るには、少し疲れすぎた。
昔、クルーミルが父王より『草長の国』の王冠を授けられた『戴冠の丘』は今や無数の死体と、うめき声を上げ続ける負傷者で埋まり、赤く、黒く染まっていた。近隣の村から来た者や、従軍している商人たちがそんな哀れな彼らから、身に着けていた武具や、宝石、指輪、果ては靴や服をはぎ取っていく。どれもこれも、もはや死人には必要のないものだった。
主が戻らない騎士の従者たちが、主の姿を求めて死体の顔を見回りながら歩いていく。かがり火の周囲の闇には、新鮮な血の匂いにつられた獣たちがよだれを垂らして潜んでいるだろう。
死者を埋葬するための穴も掘られていく。作業は捕虜になった『斧打ちの国』の平民兵士たちが充てられる。十分な深さの穴を掘り終えたら、彼らは各々故郷に帰ることが許されると伝えられた。無論、武器の類は没収されるが。
同じ捕虜でも貴族の騎士たちは扱いが違う。上等なテントを用意され、昼間死闘を繰り広げたはずの『草長の国』の貴族たちの間で、身代金の交渉を終えた後はにこやかに談笑する者も少なくない。互いの武勇を尽くして戦い、義務を果たした後はその健闘を称えあうのだ。
「初陣を生き延びることができてよかったな」
ひげを蓄えた古参兵のヴィゴが座り込むハンド・カノン兵の少女、ワフカレールに温かい豆スープを手渡した。ワフカレールは器に口をつけ、薄く味付けされたそれを飲み干していく。
「戦闘前にワフカレールがかけてくれたおまじないのおかげかもね」
若い兵士のジャックもスープを受け取り、スプーンで豆を器用にすくって食べた。
「土の精霊はとてもやさしい精霊だから。……綺麗な道具だね」
ワフカレールが問う。
「これかい? 親父が出征前にくれたんだよ。親父はそのまた親父から受け継いだんだってさ」
「よかったね」
「ああ」
「戦いって、いつもこうなの?」
「いいや、今回は特別キツかった。いつもはもっと楽で……死人も少ないよ」
「そう……」
「スープを貰ってくる前に聞いた話じゃ、うちの部隊は半分は消えちまったらしい。よその部隊も似たり寄ったりで、この感じだと明日整列した時、六千人残ってりゃいいほうだな」
「消えた? 死んだんじゃなくて?」
「死んだやつも多いがな。大半は逃げちまうのが普通だ。俺たちフランス兵は、逃げるつってもこんな場所じゃ逃げるとこが無いが、この世界で徴募された連中は違う。やつらには土地勘もあるだろうし、帰る家もあるからな……イタリアじゃフランス兵の脱走も普通だった。見張りの将校に見つからない山道に入ったりした時には、大抵二、三人はいなくなるもんだ」
「へえ……」
「ま、そんなことより今は飯を食え」
「この後はどうなるの?」
ワフカレールが問う。
「運が良ければ後方に下がって休める」
「運が悪かったら?」
ジャックが口を挟む。
「ここの死体共と一緒に寝て、夜明けと共に敵を追いかけてひたすら歩く。うちの司令官のいつものやつが始まるのさ」
ヴィゴが答える。
「うへえ……」
後方の司令部では、各部隊から報告を受け取った参謀長のベルティエとその部下たちが書類をひっくり返してあちこち数字を書き留めながら司令官に報告するべき数字を取りまとめていた。
「司令官閣下、第一次の報告書がまとまりました」
司令部のテント内、ベルティエは報告書を持って入った。戦闘後は欠かさず兵士たちの点検を行っている彼の上司は、今は簡素な折り畳みベッドの上に胸に包帯と木切れを巻いた姿で横たわっていた。傍には副官のウジェーヌと護衛隊長のベシエール、ほかに数人の幕僚が控えている。
「見せろ」
ボナパルトは一瞬苦痛に顔を歪めて起き上がり、報告書を受け取った。燃やし尽くした後のような青みがかった灰色の瞳が細められ、一字一句を逃さず見つめた。
「想定内だな」
蝋燭の灯りに照らされた報告書に目を通してボナパルトはまるで採点された学校のテストを受け取った時のように冷静な声で呟いた。
戦闘に参加した約三万三千の人間のうち、現時点で約二千人が死亡、千人が負傷、二千五百人が行方不明になっている。約十六パーセントの戦力を失ったことになるが犠牲者の多くは『戴冠の丘』の徴募兵たちに集中している。死者のうち千五百人は『草長の国』の人間だ。行方不明はほぼ全てがそうだろう。フランス兵の損失は五百人足らず。敵はといえば、二千の騎兵と同じく二千の歩兵を失っている。今頃はデュマ将軍率いる騎兵が、敗走する敵を追いかけているだろう。逃亡兵と追撃を合わせれば敵の損失は一万を下らない。敵は敗走し『王都』の包囲を破ることに失敗した。圧倒的勝利と呼んでよい……
「ベルティエに話がある、お前たちは下がれ」
ボナパルトは報告書をベルティエに突き返して、そう命じた。傍に控えていた者たちはテントの外へと出ていき、ベルティエだけが残った。
「失敗よ」
ボナパルトはため息と一緒にそう吐き出した。
フランス兵が五百人も失われてた。砲も四門が失われ、弾薬を使い果たした部隊もいくつか出ている。
弾薬の調達は不可能ではないが、追い付かないだろう。砲も生産の目途は立っていない。兵士に関しては取り返しがつかない。かけがえのない五百人。二度と補充されることはない五百人……
「徴募兵たちは訓練も装備も欠けていた。敵の騎兵突撃の威力を軽く見過ぎていた……もっと他に手があったかもしれない」
「そうかもしれません。が、これ以上の失敗をしたかもしれません」
「そう、全て過ぎたことね。各部隊の指揮官に次の戦闘に備えるよう命令。損害が軽い部隊は?」
「ドゼー師団とレイニエ師団が。ただ、両師団とも弾薬が不足しています」
「じゃあ他の師団の残った弾薬を分配するように。ドゼーを指揮官として二個師団と騎兵。一万で追撃する。敵をできるだけ追いかけて、再集結を防ぐこと。それと『斧打ちの国』方面の村々から食料を調達して本隊に送ること」
「承知しました」
ベルティエはボナパルトの命令を素早く書き留めた。
「クルーミルは? どうしてる?」
「女王は捕虜にした貴族たちと面会しています。彼らから何かしら情報や物資を引き出してもらいたいところですな……」
「そうね。貴族関係は彼女の領域だから、私が手を出すのはいろいろまずい。連中の利害関係も分からないしね。任せておきましょう」
「……ところで司令官、傷の具合はいかがですか」
「すごく痛いわ」
「命に別状がなく何よりでした」
「イタリアで……アルコレで橋を渡った時はミュイロンが死んだわ。私の友人だった。失敗すれば何か失う。今回は私の骨が折れただけで良かったわ……」
「……」
その時、にわかに外がざわつきだし、テントの布が大きく引っ張られ風が吹き込んできた。
何者かの不意打ちかとベルティエはサーベルに手をかける。
「ボナパルト! 負傷したと聞いたぞ、大丈夫か!」
ウジェーヌが裾を掴んで引き留めるのを強引に無視して入って来たのは徴募兵部隊を率いていたランヌ大佐だった。短く整えられた黒髪と茶色の活力に満ちた瞳を持った若者は司令官の姿を見つけるとツカツカと歩み寄って肩を叩いた。
「痛ッ! やめろ!」
ボナパルトは顔をしかめてランヌの腕を払った。
「ああ、すまない。しかし、弾に当たらない君が怪我をしたと聞いて本当に心配だったんだ。幸運の星が君を見放してしまったんじゃないかとね」
「幸運の星? 私がその星よ。丘ではよく戦ったな。君でなければ徴募兵たちを率いて丘を守ることはできなかったろう」
「手柄の半分はランポン将軍のだ。それに、方陣は崩されてしまった。俺の鍛え方が足りなかったせいで、君の勝利を台無しにしかけてしまった」
「謝る必要はない。君はよくやった」
「そうか。ではそういうことにしておこう」
ボナパルトは眉間に寄せているしわをほぐして、ランヌと打ち解けて話す。いつもの気難しい表情から、子供のような顔つきになり、ほぐれた笑顔を見せたりする。
「……では司令官、私はこれで」
ベルティエは一言そう告げて返事を待たずにテントをあとにした。
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