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異世界大陸軍戦記-鷲と女王-  作者: 長靴熊毛帽子
第四章『草長の国』戦争~王都戦役~
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第三十四話 戴冠の丘の戦い(後編)

 大砲の腔発で馬上から地面に叩きつけられたボナパルトはようやく身体のコントロールを取り戻しつつあった。乗っていた馬は首から真っ赤な鮮血を滴らせながら地面に横たわり、両足をばたつかせて苦しんでいる。

 ボナパルト自身がそうならなかったのは偶然だった。


「司令官……司令官閣下!」


 副官のウジェーヌが叫んでいるのをボナパルトは聞いた。その瞳には恐怖と驚愕が見て取れた。ボナパルトは痺れていう事を聞かない四肢に思い切りに力を込めて、どうにか立ち上がろうとする。立たなければならない。手足は付いている。全身響くように痛みが駆け巡っているが、そんなことは問題ではない。


「ウジェーヌ! 手を貸せ!」


 耳が未だに悲鳴を上げているので、ボナパルトは自分の声を聞くことが出来ず、声のボリュームを調整できなかったが自分では出来るだけ大声で叫んだつもりだった。



 ウジェーヌは駆け寄って自分よりも小さく軽い司令官を抱き起す。


「馬だ。馬を引け、私を乗せろ。それと、私の帽子だ。飛ばされた帽子を拾ってこい」


「無茶です閣下! 立ち上がることさえやっとなのに! 軍医のところにお連れします」


「私は命令している!」


 司令官の声はいつもと違い、弱弱しくかすれていたが口調は厳しかった。


「了解しました」


 ウジェーヌはただちに自分の馬を引いてこさせ、司令官をどうにかしてその馬に乗せた。支えられて馬に乗ったボナパルトは馬に乗っている、とか跨っているというよりも、上に積まれている。とか置いてある。と表現したほうが適切な風に見える。ふらふらとして、いまにも落馬寸前だった。


「帽子です司令官」


 ウジェーヌは馬上の司令官に帽子を差し出した。ボナパルトの二角帽子である。


「ああ」


 帽子を受け取ったボナパルトは改めて馬上から周囲を見渡した。周囲を囲むフランス兵たちの表情はウジェーヌと同様、一様に暗い。自分たちの総司令官が爆発に巻き込まれ、倒れたのだ。自分たちを死から救い出し、勝利と栄光を与えてくれる戦場の支配者たる総司令官が。もし万一の事があれば自分たちはこの異国の地で、地獄の軍勢のように押し寄せてくる敵からどのように生き延びれば良いのだろう?誰が自分たちを導いてくれるのだろうか。兵士たちの頭は恐怖で固まっている。



「兵隊!」


 ボナパルトは骨が軋む音を聞いた。全身を激痛が駆け巡り、咄嗟に奥歯をかみしめずにはいられなかった。それでもひたすら、出来る限り平静を保つ。


「兵隊! お前たちの司令官はこの通り無傷だ! 安心しろ。隊伍を組み敵に備えよ。あと一息で勝利は我らのものだ!」


 ボナパルトが草原を吹き抜ける風のように、よく通る声で叫び、帽子を高々と振ってみせると、兵士たちの不安は歓喜にとって代わり、方陣を万歳の声が満たした。


 見よ、自分たちの司令官は健在だ。


 ボナパルトは兵士たちの中を悠々と馬を進め、その健在ぶりをアピールして回る。感極まった兵士の中には傍まで駆け寄ってブーツにキスしようとするものまで居た。服の内側は激痛で流した汗でぐっしょりと濡れているが、それに気づいた兵士は誰もいないだろう。


 一回りしてようやくボナパルトは馬から降りた。すかさずウジェーヌがその肩を支え、ベシエール大佐が指揮する護衛隊の兵士たちが体で壁を作って司令官を隠す。


「司令官閣下。どうかお休みください。すぐにラレ軍医を呼んできます」


「全軍の司令官は、戦場にあっては神でなければならない……ウジェーヌ!」


 ボナパルトは額に浮かんだ脂汗をぬぐい、小さく喘ぐように呼吸を繰り返した。肺が動くたびにナイフで刺されるような激痛が走る。そしてようやく悲鳴を上げる体の欲求に応じて身体を横たえた。






 ボナパルトとクルーミルが率いる『草長の国』の軍勢の最左翼、戴冠の丘では敵の攻撃を退けた兵士たちが負傷兵たちを方陣の内側に移動させ、死体をどかしてようやく一杯の水を飲む余裕を得ていた。


「ワフカレール、水飲むかい」


 若い兵士のジャックが鳶色の髪を血で濡らして地面にへたり込んでいるハンド・カノン兵の少女、ワフカレールへ水筒を差し出す。


「ありがとう」


 ワフカレールは血まみれの両手で水筒を受け取ると一口水を口に含んだ。手の血は彼女のものではない。鉄の味がして、次いで口の中に滲みるような痛みが走った。いつの間にか口の中を切っていたらしい。それでも乾いた身体が欲するままにごくごくと喉を鳴らして水筒を空にするような勢いで水を飲む。心臓が激しく脈打ち、脳は湯を沸かしたようにぐつぐつと煮立っていた。死の恐怖が充満する中でワフカレールたち銃兵は銃を撃ち、いくつもの細々とした手順を踏んで銃を再装填する。訓練の時は一分でできた事が、二分、三分とかかってしまう。予想以上に神経をすり減らす過酷な作業だった。


「大丈夫か?」


 古参兵のヴィゴが疲労と恐怖で硬直する少女に問いかけた。


「大丈夫。私は戦士の娘。お父さんと同じになれたから、大丈夫……」


「そうか」






「グルバスの諸君、フランスの戦友諸君、よくやった!」


 誰かがやってきたのでワフカレールは顔を上げた。そこにいたのは、短く整えられた黒髪と茶色の活力に満ちた瞳を持った若者だった。顔は煤で汚れていたが気品があり、ワフカレールは咄嗟に昔参加した従妹の結婚式の花婿をイメージした。ここにいる彼のように華やかで見栄えが良かったと思う。


「立て、師団長のランヌ将軍だ」


 古参兵のヴィゴがワフカレールの手を引っ張る。


「この人が……師団長(それ)って?」


「ここで一番偉い人だよ。いや、一番は総司令官だから……二番目かな? いやでも、二番目は参謀長? えっと……」


「俺たちの上官だ」


「君はハンド・カノン隊か。名前は何という?」


 ランヌはネコ科の動物を思わせる俊敏でしなやかな動きで馬から飛び降りると、ワフカレールに近づいた。


「ワフカレールです。ラーンヌ……さん」


 ワフカレールは師団長というフランス語を知らず、ランヌの名前も正しく発音できなかった。


「はっはっは。フランス語を喋れるのか! そうラーンヌだ。ハンド・カノンの使い心地はどうだ?」


「訓練通りに操作できます。大きな音が出ます。敵を倒せたかは、わかりません」


「訓練通りにやれるなら大したものだ! 新兵は戦場に立ってるのが仕事の半分だからな。次からは敵のつま先を狙うといい。生き残れよ!」


 ランヌはワフカレールの肩を二度叩くと、視線を隊列全体へと向けた。彼の眼下には、集結し突撃の準備にかかっている敵軍の姿が見えている。





 スヌエビラ将軍の攻撃が失敗した後、『斧打ちの国』の王ダーハドは自ら騎士たちを引き連れ、戴冠の丘を攻撃することを決した。第一波はダーハドに降伏した『草長の国』出身の貴族と騎兵たちを主としたが、今度は違う。第一波で消耗した彼らを再び突撃させ、その後ろからはダーハド王自身が率いる『斧打ちの国』の精鋭騎士たちが続く。彼らは金属鎧に身を固め、馬上槍を揃える。


「スヌエビラ、もう一度先鋒を務められるか」


 集めた騎士たちが整列するのを最前列で監督しながらダーハドは問いかけた。


「勿論です、我が王。ですが……」


「丘の上の敵に正面突撃をかけるのは無謀である、か?」


「ご明察です。開けた敵の右翼か、中央に突撃をかけるほうが有利ではありませんか」


「そう思うか。確かに敵の右翼は平地に晒されている。突撃には絶好の場所だ。だがそれは敵も同じ事。敵はまだ騎兵を見せておらん。おそらく、歩兵の後ろに隠してある。こちらが右翼に突撃すればまず敵の歩兵に勢いを削がれる。こちらの足が止まり、馬が疲れたところで反撃を受ける危険が大きい。無防備に平野に兵を置いているのは敵将ボナパルトもおそらくその意図があるからだろう。ゆえに右翼は避ける」


「では中央は」


「中央は敵の大砲が最も集中する場所だ。先の突撃で中央に突撃した部隊が最も損害が大きかった。いかに我が精鋭騎士といえど、砲を集中されては陣形を保てん。ゆえに中央も避ける」


「ゆえに左翼の丘ですか?」


「そうとも言えるな。丘は突撃に向かぬ上、河と敵中央に囲まれ、真正面からの突撃を強いられる。だがそれゆえ、敵が最も攻撃を想定していない場所と言える。ここを突けば敵の裏をかける。加えて……敵は見る限り練度が低く、また装備の質も劣っている。突撃で破れる可能性が高い。敵も左翼に配置する兵が脆弱であると承知しているゆえに、最も地の利のあるあの場所に配置したのだろう。案ずるな」


「はっ。王の思慮深さに敬服いたしました。必ずやご期待に応え、敵を破ってみせましょう」


「いや、待たれよ。突撃の先鋒にはこの私を任じていただきたい!」


 割って入って来た男をダーハドは知らなかった。


「さて? (けい)は誰だったかな」


「長馬弓のサオレと申します。御覧ください我が足を」


 ダーハドはふと感じた違和感の正体に気が付いた。この男の左足、膝から下が無く血が滴っている。


「さきの砲弾で失いました。まもなく血が流れ切って私は死ぬでしょう! ですが、最期に王に勝利を捧げたく存じます」


「……よくぞ言った!」


 ダーハドはその豊かな金髪を振り乱すように頷くと、馬に提げていた手斧を渡した。


「長馬弓のサオレ! 卿に余の斧を授ける。余の名代として敵に投げつけよ」


「はっ! 我が一族の誇りにかけて!」


 長馬弓のサオレは馬首をひるがえすと、単騎で馬を敵陣目掛けて疾走させていった。その後ろ姿をダーハドの騎士たちは盾を打ち鳴らし、雄たけびを上げて見送る。


「なんという勇敢! なんという名誉!」


「我らも続け、あの勇者に続け!」


 騎士たちが口々に叫び声をあげる。


 お前たちの王があの者と征くぞ。続く者はあるか!と王が問いかければ、我こそ!と合唱が響く。その太く低い大合唱は腹の底から響く戦太鼓に似ていた。深紅の戦旗が高々と掲げられ、数百、数千の槍先が揃う。


「精霊よ我らが武勇を照覧あれ!」


 騎士の一人がそう叫ぶ。彼らにとって精霊とは助けを求めたり、慈悲を乞うたりする存在ではない。自らの武勇を見せつけ、捧げる対象だった。それでこそ、精霊も彼らの武勇を認め、加護を授けてくれようものだ。加護を求めるのではなく、加護を授けたいと思わせるのだ。


「前へ!」


 大地を揺らし、土を鳴らす幾千の軍馬と男たちが巨大な一本の槍と化す。敵陣を貫き、打ち砕き、全てを赤く染め上げる誇り高き騎士たちの出撃である。









 ムヌウ師団の方陣。その中央に設けられた司令部用の空間でボナパルトは軍医のラレの治療を受けていた。


「肋骨が折れています。幸い肺には刺さっていません。ですが今すぐ治療が必要かと」


「戦いが終わるまではダメだ。先生、ご苦労だった。他の兵士の治療をしてやってくれ」


「……わかりました」


 ラレは一礼すると兵士たちの治療へと戻って行った。


「ナポレオン!」


 入れ替わるようにして、クルーミルが防具をがちゃがちゃと音立てながらボナパルトの元へかけこんできて手を取った。


「負傷されたと聞きました。大丈夫ですか」


「問題ないわ。平気よ。すぐ司令部に戻るからわざわざ来なくてもよかったのに」


「お伝えすることがあります。ダーハドの直属部隊が動き出しました。狙いは戴冠の丘です。直ちに援軍を送らなければ……」


「……」


 ボナパルトはクルーミルの手を強く握り返した。


 さて、ここまでは読み通りである。クルーミルの話によれば、ダーハドは敵の弱点を見つけるのに長けていると言う。先ほどの攻撃でこちらの戦力の度合いを測ったに違いない。そして全体への攻撃をやめ、最も訓練が不足し、経験も足りない徴募兵たちが任せてある最左翼に仕掛けてきた。僅かな交戦で兵の質を見抜いてきたのは流石と言える。だがこれは織り込み済みである。最左翼は河とムヌウ師団に両側面を守られており、敵は真正面から突撃せざるを得ない。いくら経験と練度が劣っていようとも、真正面から丘の上にいる敵目掛けて突っ込むのだから突撃の威力は失われ、長槍と射撃で食い止められる。


「こちらの右翼、ドゼー、クレベールの両師団、予備の精鋭擲弾兵、そして貴女の騎士とフランス騎兵で敵の左翼を叩いて、敵を河に突き落とす」


 敵の主力がこちらの左翼に殺到していると言うことは即ち、それ以外の場所は手薄になったということだ。敵の主力にこちらの主力をぶつけるのではなく、手薄になった敵左翼、および後方へとこちらの主力を投じて一気に戦況を崩すことができる。


 敵主力を誘い出してから隠し持っていた一撃で敵の弱点を粉砕する。ボナパルトの得意技だ。


「丘に援軍を出さないのですか」


「殺到する敵は丘で食い止められる。心配いらないわ」


「いいえ、それはあまりに楽観的です。貴女はダーハドの強さを知らないのです。彼の率いる騎士たちは強力です」


「銃と長槍のほうが強いわ。大丈夫よ」


「ですが……ならばせめて一部だけでも留め置いてください。万一敵が丘を破った時、迎え撃てるように」


「クルーミル。私は戦場で誰かに指図されたくない」


 ボナパルトは露骨に口角を下げ、不満を示す。


 攻撃に回す部隊を減らせば、攻撃が失敗に終わるかもしれない。相手に攻撃を加える時は全力で、一撃で葬るのでなければならない。とはいえ、クルーミルはダーハドと過去何度も対戦しており、自分はこれが初対戦となる。彼女のほうがダーハドとその軍に詳しいに違いなく、詳しい人間の言う事には耳を貸すべきだった。ボナパルトは素早く思考を進める。


「……わかった。念のため予備の砲兵と歩兵のいくらかを残しておきましょう」


「聞いてくださりありがとうございます」


「その代わり、減った分の攻撃力は貴女の騎士たちに埋め合わせてもらうわよ」


「お任せください。騎士の指揮を執りに行ってきます」


「貴女が行く必要はない。ここに居なさい。貴女が流れ矢にでも当たったら何もかもおしまいなのよ」


「貴女は前線の兵を鼓舞して負傷までしました。私にもその名誉をお与えください」


「ダメなものはダメ。騎兵隊の指揮はデュマ将軍が執って不足ない。貴女はここに居ること」


「わかりました……」


 クルーミルは肩をがっくりと落として全身で落胆を表現した。


「女王陛下、我々が征きます。どうか陛下はここで我らが武勇をご覧ください」


 クルーミルの側近の若き双子の騎士ニッケトとノルケトが声を揃えて言う。


「では二人とも、私の騎士たちを任せます。ボナパルトの将軍の命令を私の命令と思い、忠実になさい」


「承知しました」


 二人は一礼すると馬に跨り、騎士の隊列に加わるべく駆けて行った。






 方陣の背後に布陣している騎兵部隊に伝令が届く。


「来たか。よし、各中隊は出動用意。準備はできてるな!」


 騎兵部隊を指揮するデュマ将軍は命令を受け取ると即座に部下に出動を命じた。フランス軍の騎兵隊に合流している『草長の国』の騎士と騎兵たちも同様である。


「歩兵と砲兵の支援が予定より減ってますな」


 軽騎兵の一種、猟騎兵隊を指揮するミュラが回された命令書を一目見て、不満を付け加えた。


「なに。足の遅い連中が追い付く前に終わらせてやるのさ」


 答えたのは軽騎兵隊を指揮するラサール将軍だった。ミュラもそうだが、彼は通りを歩けばすれ違った貴婦人やご令嬢が必ず振り返ると言って良い貴公子である。無論、彼が騎兵隊の指揮官に選ばれたのは見た目が良いからではない。傑出した勇気と判断力を評価されてのことである。


 デュマのサーベルが抜き放たれる。同時に他の兵たちも剣を抜く。高く昇った太陽の光に数千の鋼鉄の刃が反射し、キラキラと輝いた。百戦錬磨の命知らずの伊達男たちが堰を切ったように戦場へとなだれ込む。


「前進!」



 両軍の動きはほぼ同時に始まり、上空からその様子を見ることができたなら互いが互いの左側に食らいつこうとして輪を描くように見えただろう。互いを呑み込もうとする蛇のような動きだった。




 丘の上に布陣する『草長の国』の兵士たちは自分たちに目掛けてもうもうと土煙を上げ、大地を揺るがす蹄鉄と男たちの喚声を聞いた。重騎兵が跨る体格に優れた軍馬の巨体が信じられない身軽さで丘を駆けあがってくる。鋼鉄と肉の分厚い洪水が押し寄せて我が身を圧し潰そうとする恐怖が兵士たちの心を乱す。深紅の旗、黄金の斧! ダーハド王の旗! 百戦錬磨の軍団でさえいともたやすく砕く無敵の旗!


 あれを見よ、我が身はどうだ? いかにも頼りない革の防具と貧弱な槍に過ぎない。とうてい勝てるわけがないのだ。震えながら切り殺されるほかない。死だ。誰が踏みとどまろうか! 命を失う事に比べれば、脱走して給金を貰えないことなど一体どれほどのことだ! この場から離れよ、死にたくはない!


 誰かが槍を投げ捨てて走り出す。止まれ! 逃げるな! と監督する下士官の叫び声がそれを追いかけるが、届きはしない。また別の誰かがそれにつられて走り出す。一人が逃げ出せば二人が逃げ出す。隣の人間がいなくなれば、その隣も同じだ。 恐怖が連鎖する。方陣は突撃を受ける前からあちこちに綻びを見せていた。槍兵は震えあがり、銃兵はまだいくらも距離があるのに夢中で射撃を始めてしまう。


「くそっ。逃げるな! 死にたくなければ旗に集え! 逃げるな!」


 部隊を率いるランヌは配下の兵士たちをどうにか呼び戻そうと叫ぶ。バラバラになった歩兵など騎兵の獲物に過ぎない。固く団結し、密集してはじめて生き延びる道が開けるというものを! 騎兵は目前だ。


 もはや陣形は無く、ランヌの徴募兵軍団はもはや方陣を組んでいるとは言えなかった。ただ人間が寄り集まっているだけで戦力ではない。崩れた陣形の隙間に容赦なくダーハドの騎士たちは襲い掛かった。馬の突進に乗せた馬上槍の一撃が人間を串刺しにし、数百キロの馬体が人間を押し倒す。まるで薄紙を引き裂くように騎士たちは歩兵を思うがまま蹂躙していく。


「ジャック、ワフカレール! 旗へ行け! 集まるんだ!」


 古参兵のヴィゴは叫喚地獄の中でどうにか生存の道を探る。徴募兵たちが引き裂かれて散り散りになっていく中、彼らを補強するために派遣されているフランス兵たちは軍旗の下に集まりだしていた。小さな方陣を組み、洪水に押し流されないように必死に身を寄せ合うほかない。集まるフランス兵たちを見て、徴募兵たちの中にも、生存本能から集まる者たちが現れ始め砕かれた巨大な方陣の跡にいくつかの小さな方陣が出現した。


「踏ん張りどころだ。耐えろ、じきに援軍が来る!」


 小さな方陣の一つでランヌは叫び、兵士を鼓舞した。右手に握られているサーベルは血で濡れている。

 ワフカレールたちはランヌの直接指揮する小方陣に身を寄せることができた。一騎の騎士がそこへ駈け込んでくる。


「ジャック、撃て!」


 ヴィゴが叫ぶがジャックはようやく薬包をかみちぎって銃口に入れる最中だった。


「私が!」


 ワフカレールが応じてハンド・カノンの狙いをつける。心臓が飛び跳ねるように動き回っているのを押さえつけ、大きく息を吸い込んだ。硝煙の臭気が彼女の肺を満たして息苦しさがある。しかし彼女は落ち着いていた。切り刻まれる兵士たちの叫び声も、飛び散る血も、だんだんと()()()()()。向かってくる騎士の槍先がはっきりと見えた時、ワフカレールは一撃を放った。


 騎士の鋼鉄の胸当てが一瞬火花で輝き、そして大きくのけ反って、落馬するのが見えた。


「当たった……」


 ワフカレールは茫然と呟いた。




 丘の戦いは決しつつある。『草長の国』の兵士たちは一部は固まって抵抗していたが、大半は丘を駆け下りて中央の味方に合流しようとしたり、河に飛び込んでそのまま溺れたり、武器を捨てて降伏しはじめていた。


「なんと脆い! 我が王、大勝利です。このまま丘を下り、一気に敵の側面を叩きましょうぞ!」


 鎧を血で染め上げたスヌエビラが誇らしげに己の君主に報告する。


「そうしよう。騎士たちに陣形を整えさせ……」


 ダーハドはそう言いつつ、丘の上から敵陣を一望した。それほど高くない丘だが、平野に広がる敵味方の様子が手に取るように分かる。


「あれは」


 ダーハドは自分の目を疑い、その燃える炎のように赤い瞳を細めた。


 奥のほう、敵の右翼側に土煙が上がっている。おそらくはクルーミルの騎兵だろう。それは予想の内である。だが、右翼の二つの方陣が崩れている。いや、崩れているのではない。形を変えているのだ! 強固な守りの方陣から、前進と突撃に適した縦隊に部隊を組み替え、わが軍の後方目掛けて、前進している!


「やつら、陣形を組み替えているのか」


「おお……ッ!」


 王の視線の先をたどったスヌビエラが驚嘆の声を上げた。一度陣形を決め、前線に配置した部隊を組み替える事は不可能ではないがそれには時間がかかる。死の恐怖が覆いつくす戦場で、何千という男たちに複雑な移動をさせることは並大抵のことではない。兵士には厳しい訓練と規律、そして経験。指揮官には隊形を組み替える隙を敵に突かせない戦機を計る手腕が求められる。戦列歩兵の真価はこの柔軟な機動にある。ある時は守りに適した方陣、またある時は射撃に適した横隊、そして突撃に適した縦隊。必要に応じて形を変えることができることこそ、最大の武器なのだ。


「なんという兵隊たちだ。あんなに素早く陣形を組み替えることができる歩兵など!」


 ダーハドは目をみはった。


「あのような兵士たちが配下にあれば、グルバスだけではない。この世界を手にすることができような! クルーミル、お前が羨ましいぞ!」


「我が王! 我が王!」


 後方から伝令と思しき騎兵が駆け込んできた。


「王よ、我が軍の後方は敵の攻撃を受けています。激しい砲撃を受け、陣形が乱れ、歩兵と騎兵の連携した攻撃に晒され、後方を預かるサビヌーフ伯は、このままでは退路を失うと仰っています!」


「王よ、いかが致しますか」


「さてな……」


 ダーハドは見事な金髪の髪をかき上げて苦笑した。互いに互いの左翼を攻撃し、互いの左翼を破壊しつつある。形勢は互角と言ってよい。打つ手は二つ、後ろに構わず前進し、敵の後方を破壊する。もう一つは後退だ。


「我が王、後方に構わず目前の敵を撃破しましょう。敵中央を破り、後方を脅かすのです。さすれば敵は瓦解します。もし我が方の後方部隊が撃滅され、退路を断たれたとしても、我々はそのまま突進し、敵の包囲を破って『王都』へ駆け込めば良いだけのこと!」


「卿の言葉はいつも勇敢だ。だが、『王都』は包囲されて久しい。兵糧も底をつきかけている。退路を断たれた我々が逃げ込めば飢餓が我々を苦しめるぞ。前進するにしても、あれを見ろ。敵中央の後方にまだ兵が居る。あの整列の見事さ、おそらく敵の精鋭歩兵だ。クルーミル、我が妹はいつもそうだ。笑顔の下に鋭い爪を隠し持っている。方陣とあの兵はすぐには破れん」


「では……」


「退路を断たれる前に撤退するとしよう!」


「我が王、王の不敗の栄光に(きず)がつきますぞ」


「人間は不死ではいられない。どんな斧も錆びずにはいられない。何を恐れる?確かに不敗の名声に瑕がつくのは惜しい。武威を失えば離反する者も出るだろう。とはいえ、もはや勝機は失われつつある。ここは損失を最小限にするのが得策だろう。考えてもみよ、この戦いで失われたのは殆ど草長の貴族、草長の民だ。我が国は何も失っていない」


「ですが、我々が引けばドルダフトン公は……」


「まだ王都は落ちておらん。別の手も打ってある。案ずるな。ドルダフトンは我が片腕、見捨てたりはせん。復讐戦を待て」


「……はっ!」


 ダーハドは右腕を挙げ、騎士たちに再集結と撤退を合図する。騎士たちは驚き戸惑ったが、すぐに隊列を組みなおすと血と死体で赤く染め上げた丘を駆け下りはじめた。









 『草長の国』の右翼、攻撃を任されていた各部隊は『斧打ちの国』の後方部隊の抵抗を激しい銃撃と砲撃、そして騎兵突撃の連携技でやすやすと破りつつあった。陣形を守りの方陣から攻撃の縦隊に素早く組み替えてみせたのは、ドゼー、クレベール両将軍の非凡な統率力と、鍛え上げられたフランス兵たちの熟練である。


 戦列歩兵たちはその名のごとく、横長三列の陣形を組み、それぞれの所属する部隊の軍旗を中心に前進する。その両側を縦長に隊列を組んだ歩兵が囲み、さらに騎兵が周囲を固めて敵騎兵を防ぐ。最大火力を発揮できる横隊と、機動力と突撃に優れた縦隊の芸術的とすら呼べる陣形。


 射撃の集中で敵歩兵が崩れれば、すかさず騎兵がサーベルと槍を振りかざしながら突入し、一気にかき乱しにかかる。歩兵たちはマスケット銃の鋭い銃剣を短槍として突進する。勢いづいた攻撃を受けては、そこらの村や街から集めて来た農民や町民の集団では止められない。銃剣が届く前から隊列は崩れ、敗走していく。逃げ遅れた者や、一握りの無謀なまでに勇敢な者たちはフランス兵たちの銃剣の壁に激突して無残に刺殺されていく。


「ボナパルトめ、俺たちをこき使いやがって」


「不満ですか?クレベール」


「戦いに不満などない。俺たちは軍人で、フランスの勝利のために働くのは当然だ。だが、やつが手柄面するのが思い浮かぶのが気に食わん。俺たちはここでヤツの権力の為に戦うハメになっちまってる。そうせざるを得んのが腹立たしいだけだ」


「そうですか……丘のほうから敵が戻ってきましたね。予想より早い。見事なものです。追撃の手を緩めて、隊列を整え、逆襲に備えましょう」


 ドゼーとクレベールはそれぞれ師団を率い、敵部隊の追撃を監督していた。


「クソッ。取り逃がすぞ。丘の連中はもう少し粘れなかったのか? 追撃に出す兵も足らん……」


 クレベールは被っていた二角帽子を握りしめて悔しがる。


 彼の視線の先には、突き崩されて逃げ散っていく『斧打ちの国』の後方部隊と、それとは対照的に整然と隊列を組み、いつでも反撃に飛び出せるように整えられた、王が率いる騎士たちの一軍があった。






 遠ざかっていく深紅の旗と血と夕焼けで赤く染まる大地を見ながらクルーミルは横で同じ光景を見ているボナパルトに問いかけた。


「勝った、のでしょうか?」


「負けてないのだから、勝ったのよ」


 ボナパルトは答えた。

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