第三十四話 戴冠の丘の戦い(前編)(イラスト付き)
ボナパルトがクルーミルに会戦の意志を告げてちょうど三日目の朝。まだ太陽が昇り切らず、草原の半ばが薄暗い中、北から深紅の旗をなびかせた軍勢が姿を現した。『斧打ちの国』の軍勢である。
その先頭には肩まで伸びたくせのある、立派な金髪の若者がいた。堂々とした体躯の黒馬を巧みに乗りこなし、その馬に劣らぬほど見事な黒の甲冑を身に着けている。その周囲を同じく黒の鎧で武装した騎士たちが固めた。どのような集団に居ても彼の存在に気づかぬ者はいないだろう。そんなただならぬ風格をその若者は備えていた。彼こそはダーハド。クルーミルの兄にして『斧打ちの国』の王である。
「あれがクルーミルとその友ボナパルトの軍勢か。なかなかどうして、見事な軍だ」
『斧打ちの国』の王、ダーハドは『王都』から数キロ北の戴冠の丘と呼ばれる丘と、その周辺に布陣する『草長の国』の軍勢を遠くに見ながら呟いた。彼の背後には数千の騎兵と万を超える歩兵が街道を外れ、左右に展開しようと移動している。
「右翼、丘には……あれは『草長の国』の誰だったか。ああ、そうだ。投槍のアオラック伯か。ソチロタト公の旗もあるな。あとの旗は分からん。ボナパルトの兵か。かなりの数だな。中央と左翼は……見える限りは全てボナパルトのフランスとかいう国の兵か。見事なものだ。まるで人間で出来た砦のような密集隊形ではないか?」
ダーハドは立派な金髪を風になびかせ、右手で愛用する手斧を弄びながら側近に話しかける。その声色は戦に臨む王というより、今日の獲物の相談をする狩人のそれだった。
彼の眼前に広がる敵軍は固く密集し、不気味なほど静かにたたずんでいる。
「はっ。やつら、愚かにも平地に布陣しております。見たところ長槍も無く、兵士の鎧は貧弱です『草長の国』の密集陣形など、しょせん見た目だけ。一突きで突き崩せるでしょう!」
答える側近の声も明るい。
「相変わらず頼もしいなスヌエビラ。よし。今日の前衛は貴様に任せよう」
スヌエビラと呼ばれた男は右耳から右目にかけて鋭い傷跡があり、歴戦の勇者であることを物語っていた。
「はっ! 偉大なる王に勝利を」
「だが油断するな。ツォーダフとドルダフトンはあれに敗れたのだ」
「心得ております。必ず、ツォーダフ公とドルダフトン公の仇を討ち、偽りの王とその手先の首を槍先に掲げて御覧にいれます」
「よし。行け」
主の言葉にスヌビエラは放たれた矢のように飛び出していった。
「さて……」
ダーハドは手斧を腰に提げた。
「我が王。なにかご懸念が?」
別の側近が声をかけた。
「サビヌーフ。クルーミルはいつの間にか相当な力をつけたようだ。見たところ、敵は多く見積もって三万前後。これに『王都』を包囲している部隊もいる。総兵力は四万はいるとみていいだろう。以前クルーミルが戦場に連れて来た兵士は多くても一万を超えることはなかった。それが三倍、四倍だ。ボナパルトの兵は日の住む大河を向こうから突然やってきたと言う。それはよい。異境の地から傭兵集団が流れてくるというのはよくある話だ。だが、それらが大人しくクルーミルのために戦い『王都』を囲んで、私の寛大な申し出も無視して、私と戦おうという……」
ダーハドは突然、欲しかった玩具を手に入れた子供のように無邪気に笑った。
「これは笑うしかないな! 城一つ、畑一つ持たぬほどに追い詰めてやったというのに。一体どうやってあれだけの軍を手懐けたのか! どうやって維持しているというのか。クルーミル一人の手腕ではあるまい。彼らを率いるボナパルトとやらにぜひとも会ってみたい!」
ダーハドの一団から数キロ先。ボナパルトは望遠鏡を覗き込んでいた。
「あれがダーハドの軍勢か。数は……二万、いや三万は居る。全く、どこから連れてくるのやら。『斧打ちの国』は想像以上に豊かな国力を持っているらしいわね。ツォーダフが一万、ドルダフトンが二万。そして今度は三万の国王と来た。『斧打ちの国』に攻め入るときには十万の敵が出てきても驚かないわ。布陣の早さも今までの軍とは全く違う。よく統率されている……」
ボナパルトは遠くに見える軍勢が眼前に広がっていくのを見た。黒くうごめく集団が視界いっぱいに広がろうとしている。
「スヌビエラ公の旗が見えます。あれはダーハドの腹心の一人。彼が先鋒のようです。……ですが、ほかに主要な貴族たちの旗が見えません。見てくださいナポレオン、あの中心部、赤地に金色の刺繍で飾られた斧の旗。あれがダーハドの旗です。その周りにいるのは『斧打ちの国』の貴族ですが、それ以外は殆ど『草長の国』の貴族の旗です。『斧打ちの国』の貴族の旗が少ないです」
横で目を凝らしているクルーミルがボナパルトに囁く。
「言われても誰がどの旗かなんかわかんないわよ。……つまり、ダーハドの子飼いの軍勢じゃない、って事?」
「そうです。流石にダーハドといえど、この時期に本国から兵を動員することはできなかったようです」
「……」
『斧打ちの国』の国境から『王都』まで、軍勢で三十日近い距離がある。『斧打ちの国』はさらに広いだろう。そこから諸侯の軍勢を召集し、遠征に必要な物資を集めて連れ出すとなると、それは莫大な費用と政治的影響力が必要になるに違いない。それに比べれば『草長の国』内の親ダーハド派の諸侯を集めて従軍させるなら道中に必要とする物資も、召集にかかる時間も距離が近い分少なくて済むというわけだ。征服した土地の諸侯なら、多少の無茶を強要することも可能だろう。……忠誠心には疑問が出るだろうが。
「ん……たしか槍のサオレは数万の軍が国境を越えたとか言ってたけど、実際には国境に入ってから兵を集めたって訳ね。……嘘をつかれたのか、それともダーハドがそう言う情報を流してたのか……戦場で相対するまで分からん事だらけだわ」
ボナパルトは顔をしかめたが、すぐに気を取り直した。
「貴女のお兄さんは只者じゃないわね……行軍しながら合流してくる諸侯をまとめあげ、軍隊として使い物になるように編成するのは並大抵の事じゃない。武器を持った人間をただ集めたところでそれは烏合の衆とか寄せ集めに過ぎない。それらが戦場で威力を発揮するには、隊列を組ませ、指揮官の号令に合わせて行動する規律が求められる。それを昨日、今日、集めたばかりの集団の組み合わせでやっているというんだから! あの部隊の動き! とても寄せ集めには見えないわ」
ボナパルトは二角帽子を脱いで顔を扇いだ。
「兄は、人を率いる才がありました。これぐらいのことはやるでしょう」
クルーミルはそれをさも当然の事のように言って見せた。
「総司令官閣下。各指揮官が揃いました。司令部テントへお越しください」
副官のウジェーヌがやってきて、そう告げたので二人は護衛と共にテントへと戻ることにした。
テントの内ではフランス軍の師団長とクルーミルの諸侯が待っていた。ムヌウ、ドゼー、クレベール、レイニエの四人の師団長がいた。ボン将軍は『王都』の包囲部隊を任されている。代わりに新しく二人の指揮官の姿があった。まず一人はアントワーヌ・ランポン将軍。もう一人はジャン・ランヌ大佐である。二人はボナパルトがイタリア遠征を戦っていた頃からの配下であり優れた指揮官として知られていた。ボナパルトは一万の徴募兵から成る兵力を二分して二個師団として彼らにそれぞれ率いさせることにしている。
「揃ったな」
諸将は机に広げられた地図を囲むように座っている。
「今一度、配置を確認しよう」
ボナパルトは全員の顔を、なぞるように順番に見た。それは窓枠についた汚れを確かめる指の動きに似ている。フランスの指揮官の顔には不安はなく、戦いの前の程よい高揚した緊張が窺えた。一方、クルーミルの部下はというと、明らかにうろたえた、恐怖の色が見て取れた。無理もない。彼らにしてみれば、自分たちを何度も破ったダーハドと戦うのだ。敗北が骨身にしみついているのだろう。とボナパルトは推察した。
「さて、我々の配置はこうだ。最左翼はサオレ河が守っている。左翼、なだらかな戴冠の丘の上にはランポンとランヌの徴募師団、クルーミル女王の歩兵隊が展開する。まだ訓練不十分で戦場での機動に難があるだろう。諸君らの役割は敵の突撃を防ぎ、高台を維持することである。中央はムヌウ、レイニエ、右翼はドゼーとクレベールだ。各部隊は師団単位の巨大な方陣を構築し、敵の騎兵突撃を迎え撃つ。敵の主力は強力な騎兵戦力にあり、これを無力化することがこの戦いの鍵だ」
方陣とは、その名の通り、兵士たちを四角形に配置する陣形である。兵士たちはそれぞれの辺に向かい、どの方角からの攻撃にも対応できる。主に騎兵突撃に備えるために用いられる。欠点は固く密集するので移動力が鈍ることと、敵の砲撃に対して脆いという点だが、敵に大砲や投石機の類はない。
「敵の突撃を粉砕した後、予備部隊には各師団から精鋭歩兵の擲弾兵を引き抜いて編成した大隊と、デュマ将軍とクルーミル女王の指揮するフランス・『草長の国』の混成騎兵部隊から成る予備戦力が反撃を行い、敵を撃破する」
擲弾兵とは、古くは敵部隊に手榴弾を放り込むために選ばれた体格に優れたエリート兵の事を言う。既に手榴弾を投げ込むということはしなくなっていたが、ナポレオンの時代でも、優秀な兵士を指す言葉として残っている。
ボナパルトの声は低く『草長の国』の諸侯には獲物を前にした狼の唸り声のように聞こえたかもしれない。
普段の目つきの悪さは、鋭利な刃物の切っ先のように研ぎ澄まされている。しかしボナパルトに対して普段、非好意的なクレベール将軍さえ、戦闘の前にその怪物じみた眼差しを見ると不思議な安心感を覚えるのだった。
戴冠の丘は周囲と比べてそこまで標高が高いわけではなく、せいぜい数十メートルの高さに過ぎない。
それでも平坦な草原地帯を眺めるにはちょうどよく、丘の上に布陣した兵士たちには眼下に広がる双方の兵士たちの布陣が良く見えた。
「すごい。まるでグルバス中の人間が全部集まったみたい……」
徴募兵師団に配属されているハンド・カノン兵のワフカレールは一流の職人が磨き上げたような翡翠色の瞳をいっぱいに見開いて眼下に広がる光景を見つめた。
緑の草原を埋め尽くすような人と馬たち。それらは無数の意志を持つ人間の集まりでありながら、一つの生き物のように動く。司令官の手足のごとく動き、王と国家の意思を体現する、軍隊という名の巨大な怪物である。二つの怪物が、今まさに互いを引き裂き、食らい尽くし、破壊しつくそうとしている。
遠くのほうを見れば、戦士たちのそれはいくつかの層を連ねた模様のように見える。数時の後、かの人馬の群れは自分たちのほうに草原を吹き抜ける突風のように押し寄せてくるだろう。そう思うと、ワフカレールはハンド・カノンを持つ手が震えた。
近くのほうを見れば、兵士たちのそれは巨大な四角い砦のように見える。ワフカレールはどことなく、風車の中にある、巨大な歯車を連想した。いくつかの歯車が組み合わさっている、一つの巨大な装置。
隣を見ると、そこには見知った顔があった。フランス兵の若者、ジャック。同じく、フランス兵の古参兵、ヴィゴである。言葉もまだよく通じないが。共に食事し、共に草原に寝転がった。武器の使い方も教えてくれた。ワフカレールは今一度、深呼吸して銃の発射手順を確かめる。一つ、一つ。確実に。ヴィゴの声を思い出す。首から下げた火薬と弾丸の入った袋を確かめる。ちゃんとある。
不意に、腹の底から酸味が噴き出すようにこみあげてきて、ワフカレールは反射的に身体をくの字に曲げた。
「おえっ……」
吐き出された黄色い粘液が地面を濡らした。
「大丈夫?」
ジャックが心配そうにワフカレールに手を差し伸べた。
「大丈夫。なんでだろう。怖くなんてないのに……」
「落ち着いて。大丈夫。僕たちは大丈夫」
「うん。そう思う……ありがとう。ジャック」
ワフカレールは地面の土を一握り掴んだ。
「ジャック、ヴィゴ、こっちに来て」
「なんだい」
二人の肩に掴んだ土を振りかける。
「土と草の精霊が私たちを守ってくれるようにおまじない。これで大丈夫」
ジャックとヴィゴは笑った。
そこへ中隊長が姿を見せた。
「諸君。会戦の時が来た。総司令官からの訓示を読み上げる!」
「兵隊! 諸君が待ちに待った時が来た。会戦だ! 我々はかつてヨーロッパの何人も成し遂げたことのない偉業にのぞむ。諸君らは既に敵の先鋒を破り、都市を包囲した。我々はこの地の解放を待ち望む民衆を救済し、栄光をもたらすのだ。全世界が諸君の働きに注目している。帰国した後、人々に今日の戦いをこう告げよ。「我々の勝利はかのアレクサンドロス大王のガウガメラの戦いにも匹敵した!」と」
至る所で同様の訓示が読み上げられ、各方陣が割れんばかりに叫び声を上げた。どよめきは風に乗って『斧打ちの国』の陣営にも届く。それに答えて、彼らの陣地からも雄たけびが上がった。「偉大なる王万歳!」というものである。
ボナパルトは馬に跨り、中央の方陣の中へと分け入り、ゆっくりと三十秒かけて、右手を挙げる。クルーミルはそのしなやかな腕をじっと見つめた。
そして振り下ろした。
瞬間、各方陣に配置されている大砲が一斉に火を噴いた。