第三十三話 そばに立つ人(後編)
日が落ちて星が昇る頃、クルーミルは供回りのニッケトとノルケトを連れてボナパルトの司令部が置かれている家を訪ねた。昼間は『王都』の方角からは散発的に遠雷のような砲撃の音が響いていたが、今は沈黙している。
「お待ちしておりました。女王陛下」
ボナパルトの副官、ウジェーヌがたどたどしいグルバス語で女王を出迎えた。
「こんばんは。ウジェーヌさん。だいぶ上達しましたね」
クルーミルは笑顔を見せて、ウジェーヌの勤勉さを賞賛した。
通された大部屋にはボナパルトの参謀長、ベルティエとその部下数人、そして不機嫌そうな表情で地図をにらんでいるボナパルトが居た。ちらりと視線を部屋の隅に置かれているベッドのほうへ向けると、以前クルーミルがボナパルトに送るように手配したベージュ色のクッションと毛皮が置いてあるのが見えた。
暖炉には薪がくべられ、炎が揺らいで部屋を暖める。
「総司令官閣下。女王がお着きです」
ベルティエがそう囁いてボナパルトは顔を上げた。
「ご機嫌ようナポレオン。私が贈ったクッションを使ってくれているようで嬉しいです」
クルーミルはボナパルトに習い始めたフランス語で言う。横で聞いていたベルティエは発音がボナパルトに似て、少しコルシカ訛りがあるのに気が付いた。
「いい寝心地だ。それより、戦場が決まった」
ボナパルトは挨拶も短くそう告げ、左手でクルーミルの手を取り、口調も硬く右手で地図の一点を指差した。
「敵は貴女の言う通り、緑の精霊門の方角から来る。ネーヴェンの商人連中の話、捕虜からの情報を突き合わせて、放った偵察隊からの報告で裏付けられた。ベルティエが調べたのだから間違いない。だから……ここ。この丘で迎え撃つ」
ボナパルトが指差した場所にある丘をクルーミルは知っていた。
「『戴冠の丘』……ですね」
「『戴冠の丘』?私たちはプチ・モンマルトルって呼んでたけど。とにかく、ここで迎え撃つ。見通しが良くて、側面を河に守られてる。もう先発部隊を送り込んで確保したわ。貴女の部隊も準備するように。三日後には会戦よ」
「わかりました。支度させましょう」
「聞いておきたいんだけど、この丘、勝手に伸びたり縮んだりしないでしょうね?」
「しないと思いますが……」
「この前の会戦ではドルダフトンが精霊を使って兵隊をパニックに陥らせた。ダーハドの軍隊がまたそんな訳の分からない術を使うかどうか、今回は事前に聞いておきたいわ」
「この前は申し訳ありませんでした。……ダーハドはそのような不確実要素に頼る人物ではありませんでした。ドルダフトン公のように呪いを戦場で使うほうが例外的なのです。彼が最も信用するのは、己の才略と子飼いの軍隊です。」
「私と同じね。それにしても、精霊をあまり使わない?敵を恐怖させたりできるならどんどん使うべきじゃないの?私ならそうする。確実に動作しないといしても、積極的に活用しないの?」
「精霊の力に頼りすぎるのは、特に、人を傷つける時に精霊の力を借りるのは良くない事です。そういうことをすると良い精霊がその人を離れ、悪霊がその人に悪い呪いをかけてしまうのです。麦を枯らし、病を吹き込みます。それに、精霊に頼って戦に勝ったとしても、勝利は精霊のもの。その人のものではなくなります。これは大変不名誉とされることです。ですから、戦場で精霊の力に頼るのは稀です。 そもそも精霊は助けを求める存在ではなく、己の力や魅力を示して、彼らのほうから助けようという気を起こさせる……そういうものです」
「ふぅん……それでも、戦いに勝つためならなんでもやるのが指揮官ってものよ。使ってくるかもしれないわ」
「今回は精霊と交信できる者を従軍させています。彼らが敵が呼ぶ精霊を押しとめてくれるでしょう」
「絶対に防げる?」
「絶対とは言えませんが、ほぼ確実に」
「人間には勝てるけど精霊の相手まではできない。その辺は任せるわよ」
クルーミルは頷いた。
一通りの作戦についての打ち合わせを終えた後、二人はそろって食堂へと移動した。それほど広くないが、五、六人は同時に食事できるほどの机に二人分の料理が並べられている。フランス式の肉料理とフランスから持ち込まれた赤ワインが添えてあった。
「シャンベルタンが貴女の口にあうかしら」
席についたボナパルトは軽くグラスを持ち上げてみせた。
「この香りは、貴女の国のお酒ですか?」
クルーミルは不思議そうな表情でグラスを手に取ってその香りを確かめたり、蝋燭の灯りに透かしたりして、それを記憶の中にある自分の国の酒と比べる。
「そう。私のお気に入り。あと何本かしか残ってないけど、戦いの前祝よ」
「ありがとうございます。いただきます」
クルーミルは赤い柘榴石を溶かしたような色のそれを飲み干した。
「美味しいですね」
「一気に飲むのね」
給仕係がそっと出て、空になったグラスに次を注ぐ。
「クルーミル。さっき聞き損ねたことがあるわ」
「なんでしょうか」
「次の会戦。ダーハド、貴女の兄と戦う。彼の人柄について教えて頂戴」
「貴女が人に興味を持つとは意外です」
「敵の中身を知っておくのは大事なことよ」
ボナパルトはよく味付けされた牛肉をナイフで切り分けて口に運ぶ。
「そうですね……兄は、優しくて、勇敢な人です。昔から父上と共に狩りに出ては、鹿を仕留めて、その角を私にくれました。角を削って飾りを作ってくれたこともあります。それに私によく本を読んでくれました。旅人サーソルントの冒険。精霊が打った魔法の斧を持った勇者の物語です。懐かしい……」
クルーミルは大切な宝石を撫でるように目を細めて言う。ボナパルトは静かにワインに口をつけた。
「戦にでても、家臣たちに先駆けて矢を放ち、斧を振るって敵の盾を砕きました。軍の指揮官としても、積極果敢で大胆不敵。自ら疾風のごとき馬を駆って敵の弱点を見つけ出して攻撃する術に長けています。私は今日まで彼に勝ったことがありません……」
「兄の事は今でも好き?」
「はい。尊敬できる兄です。本当の事を言うなら戦いたくはありません」
「そうでしょうね。私にも兄妹がいるわ。彼らと戦いたくはない……」
「ですが、私は兄と戦います。私は父王より『草長の国』を与えられた女王です。何者にも奪わせません。そして私はグルバスを統一します。グルバスを継ぐものたちが、私や兄のように殺し合いをしなくて済むように」
ボナパルトはクルーミルの瞳の奥にある炎を見た。
この人は私と同じ、炎を心のうちに飼っている。それは次第に大きく成長し、眩く輝き、多くを照らすだろう。そして、多くを焼き尽くすのだ。血の色をした炎。彼女はそれを抱えているに違いない。だとするならば、彼女は果たしてこれからも私の友なのだろうか。それとも、いずれ相容れぬ、宿敵として剣を交えることになるのだろうか。 "そうはなりたくない" 自分の心のうちにふっと湧いた言葉にボナパルトは自分自身に戸惑いを隠せなかった。
「この前、ダーハドの使者が私のところに来た。国の継承権はダーハドの物で、クルーミルには無かったのだ。ってね」
「それは偽りです」
「……私にはこの国の継承権がどうなってるのか、誰が正統なのかなんかどうでもいいわ。教えてあげるわクルーミル。私の国は自分の王の首を切り落としたのよ」
「なぜ?」
「国の危機を救うことができなかったからよ。王は善良だったけど、それだけだった。権力を手にするなら、その法則はただ一つ。それをいかに用いるかよ。クルーミル」
クルーミルはボナパルトの瞳を見つめた。何もかもを燃やし尽くした後のような青みがかった灰色の瞳。
「よく覚えておきましょう」
クルーミルはどんよりとした雲を吹き飛ばす高原の風のように素早く笑顔をつくってみせた。
「貴女の兄妹のお話を聞かせてくれますか?」
「どうして?」
「私は兄のことを話しました。今度は貴女の番です」
クルーミルは普段人を突き放すような口調で話すボナパルトが、兄弟の話題になった時だけ穏やかになったのを聞き逃してはいなかった。それは十分、彼女の興味と好奇心を掻き立てるものだった。
「この戦いが終わったら教えてあげるわ……」
ボナパルトは毒気を抜かれて、少し裏返った声で返した。
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