第三十三話 そばに立つ人(前編)
鶏の鳴き声を合図にクルーミルは目を覚ました。眠っていたのは農家の家には不似合いな、装飾のついたベッドの上。乱れた髪を櫛で整えていると扉がノックされ、世話係の侍女たちが身支度を整えるためにやってくる。
「おはよう。スーイラ。よい朝ね」
「おはようございますクルーミル様。はい。良い風が吹いて、晴れています」
侍女のスーイラが寝巻を脱がせていき、部屋着へと着替えさせていくのにクルーミルは慣れたように身を任せた。彼女はクルーミルが戦いに敗れ、各地に身をひそめながら逃げ回っていた頃も、離れずについて来た侍女の一人だった。歳は十五を数え、栗毛の小動物を思わせるように身軽に女王の世話回りをする彼女は腰に短剣を帯びており、女王の最後の盾でもある。
着替えを終えて、部屋を出ると農家のリビングには、ひび割れた土壁には不似合いの赤色のカーテンと絨毯が敷かれ、臨時の謁見の間となっていた。朝から女王のご機嫌伺いや、決定を求める貴族本人や、その代理人たちが数人詰めかけている。王宮に居た頃は何十人という規模だったから、これでもささやかなほうだった。
最初に謁見に参上したのは『川辺の都』の勢力下にあるサザラトンという村の村長である。六十を過ぎて白髪も薄くなっているが杖を突かずに歩ける老人だった。
「よく来てくださいました。サザラトン村長。戦は順調です。お孫さんが馬に乗ったと聞きましたよ。良き戦士になるでしょう」
「女王陛下の勝利に万歳。我が孫の事を覚えていてくださりありがとうございます。大きくなればあれも女王のために戦う戦士になるでしょう。本日参ったのは、麦の収穫についてです。残念ながら不作で収穫が多くありません」
「それはいけませんね。食べていける分はありますか?来年こそ精霊が豊作を授けてくださらんこと」
「ははっ。女王陛下のお慈悲にすがり、麦税の減免をお願いに参上いたしました」
「……わかりました。今年の納税を減らしましょう。豊作の時にその埋め合わせを」
「慈悲深き女王の寛大に村一同お礼申し上げます」
といった具合に、それぞれ要望を携えてやってくる。
それが終わると、朝食が始まる。その日食事を共にしたのはニッケトとノルケトという二人の若者だった。クルーミルと同い年ぐらいのこの二人は双子であり、彼らの伯父にあたるアビドードでさえ二人を見分けることはできないので、二人は区別をつけるためにそれぞれ赤と白の布を頭に巻き付けていた。赤がニッケトで白がノルケトである。
ノルケトが嬉しそうに口を開いた。
「女王陛下。『川辺の都』の伯父上より知らせが届きました。サーパマド伯とロッソワム公がそれぞれ一千の兵を率いて、陛下に従う。と……これでわが軍はさらに増えます!」
「それは良い知らせです」
クルーミルは召使が運んできた卵のスープを一口飲む。
「サーパマド伯もロッソワム公も狡猾な人物です。さしずめ、我らが勝てば「戦には間に合わなかったが味方はした」と言い、負ければそのまま敗軍となった我らを追撃してダーハドに媚びを売るつもりなのでしょうな」
ニッケトが続ける。その声にはノルケトにはない棘のような響きが伴っていた。
「悪い知らせもあります。グレムオト公が急病と称して引き上げてしまいました。ダーハド自ら出陣してきたことに恐れをなしたのでしょう。これで五人目です。兵の間でも脱走が増えているようで、今は三千に届くかどうかという有様です。……臆病者どもめ!」
ノルケトは何か一つ話すたびに表情を変化させ、顔を赤くしたりした。
「……やむを得ないでしょう。私はダーハドと直接戦って、勝ったことなどないのですから。むしろ三千残ってくれているのがありがたい事です。今回の戦も、頼みはナポレオンの兵です」
クルーミルは小さくため息をついた。ナポレオンと出会ってから、自分は彼女に助けられるばかりで報いるに少ない。そのことが少し不甲斐なかった。
「陛下。ボナパルト殿の事ですが、ダーハドの使者がきてからというもの、陣中がどうも不穏な動きがあります。騎兵が頻繁に行き来し、ボナパルト殿自身も、どこかへ出かけて所在がつかめない時があります」
「戦場の偵察を行っているのでしょう。心配することはありません」
「ですが……」
「ニッケト。それ以上は王の友に対する無礼とみなします」
「……はっ」
ニッケトはそれ以上、自らの懸念を主に伝えるのをやめた。クルーミル様は昔から頑固なところがある。と叔父上が言っていたが、その通りだ。彼女のボナパルトに対する信頼は極めて篤い。確かにボナパルトはこれまで二度までも戦場で女王のために戦い、資金を投じて兵を集め、民に技術を分け与えている。信用し、重く用いるに足りるだろう。しかし、あれほどの軍勢を率い、我々の知らぬ道具を操る者が、いつ野心に目覚めて牙を剥かないと言えるだろうか? はたして本当に、『斧打ちの国』を倒して大人しく元の国へと帰っていくのだろうか? 用心するに越したことは無いのではないか。
考え込むニッケトを横目に、クルーミルは鮮やかな黄緑色の葉野菜を口に運び、小さな口いっぱいに頬張った。