第二十九話 報告
「大陸軍の兵士に告ぐ。我が軍が誇る猟騎兵隊の指揮官ジョアシャン・ミュラ大佐は軍の先駆けとして兵五十を率い、サオレ河支流の橋を焼き払おうとしていた敵軍百騎余りと交戦し、五十余りを捕虜とし、残りを敗走せしめた。この際、ミュラ大佐は敵味方が驚嘆するフランス馬術の粋を発揮し、敵の指揮官を捕えるという比類ない功績を立てた。この輝かしい働きは記録される。フランス本国の元老院と五百人委員会はその不滅の栄光を読み上げ、全土は勝利の知らせに沸くだろう。戦役の開始を飾るに相応しいミュラ大佐の豪胆さと勇猛さ、そして迅速果敢の振る舞いを全将兵は模範とすべきである……」
ミュラがサオレ河の支流の橋を守る敵を撃破して二日が過ぎた。
口髭を蓄えた熟練の兵士、ヴィゴはよく整備された街道を途切れることない数千の男たちの行列の中で、仰々しく飾り立てられた言葉が躍る紙片を読み上げた。前を歩く兵士から回されてきたこの紙切れは、ボナパルトが軍を大陸軍と号した際に発行するよう命じた、軍隊新聞『戦友』の一部である。戦友たちの活躍や注意事項、フランス兵たちにとって異世界であるこのグルバスの情報などが載せられている。
「ヴィゴさん。そんなのはどうでもいいですから、早く『マリアンヌ』を読んでくださいよ。これだけが楽しみなんですから……」
その横を歩きながら不満げな声を漏らしたのは未だ未熟さが残る若い兵士のジャックである。二人はぴったりと肩を寄せ合って隊列を組む戦列歩兵の先に展開して、敵に射撃を浴びせかける散兵のペアだった。
「分かった。分かった……『若き乙女マリアンヌはその晩、アラン青年と馬小屋で落ち合った。馬は既に戦場へ赴いており、二人は干し草の上に折り重なり、月明かりがマリアンヌの透き通るような白く柔い肌を照らし出し、たくましいアランの指が……』なあ。これ面白いのか?この前読んだ分じゃ、マリアンヌはこの前アランとキスしてたじゃないか。その前は二人で川遊びをしていたし、いつになったらアランは出征するんだ」
「続きを読んでくださいよ」
ジャックが続きを読むようにせがんでいるのは新聞の一番下の余白部分に書かれている『マリアンヌ』
という小話で、若き乙女マリアンヌと青年兵士アランの恋物語が連載されている。兵士たちには好評を得ているのだ。
「ジャック。私、分かる。したい。グルバス語、話す。して」
ヴィゴとジャックの間に二人の肩ほどの背丈をした、鳶を思わせる暗い赤の髪と翡翠のように美しい緑の瞳を持つ、ハンド・カノン兵の少女、ワフカレールがフランス・グルバス語の簡易翻訳が載っている手帳を片手にたどたどしいフランス語で話しかけた。毎日ひたすら歩き続けるというのは身体的な疲労もそうだが、心理的疲労も積もるもので、ワフカレールは退屈を紛らわせる話し相手を欲していた。
ジャックはワフカレールから手帳を受け取った。
「話、する。今日、夕食、肉……」
「楽しい。待つ」
二人が微笑ましい会話をするのを横目に見ながらヴィゴは新聞を後ろの兵士に譲った。先遣隊は勝利を収めたようで、進路は確保されている。今のところ、天候も良くて敵の襲撃も無い。このまま順調に進めば良いが。しかし、その先にあるのはより激しい戦いだろう。自分はともかく、弾丸と銃剣がこの二人を避けてくれれば良いが……そう考えるのだった。
ボナパルトを乗せた六頭立ての軍用馬車は全軍の中央部に位置している。車体は赤く塗られ、遠くからでもその姿を認めることができた。現在、一行は『王都』と『川辺の都』の中間部あたりにある村で昼食のための休止時間をとっていた。馬たちはようやく重労働から解放されて『草長の国』の国名に相応しい、雄大な草原に豊かに伸びる青草を食むことが許された。兵士たちも同様に重たい荷物を降ろして、各々食事の支度にとりかかっている。
手慣れた従卒たちの手によって素早くテントが組み立てられ、椅子とテーブルが並べられる。専属の料理人たちが司令官の食欲を掻き立て、舌と胃袋を満足させるために村の調理場を借りて鶏を焼きあげていく。ボナパルトは美食家というほど食事にうるさいタチではなかったが、それでも標準的な味覚は備えており、不味い食事よりも美味しい食事にありつきたいというのは他の人間と変わらなかった。
しばらくして、香ばしく焼き上げられた鶏のもも肉と豆のスープ、サラダ、焼き立てのパンのセットが三つ、ボナパルトのテーブルに並べられた。その日ボナパルトと食事を共にするのは参謀長のベルティエと副官のウジェーヌである。
ボナパルトが肉にナイフを突き立てようとした、その時、テントに護衛隊の指揮官ベシエール大佐が入って来た。
「お食事中失礼します。司令官閣下、ミュラ大佐が戻りました」
ボナパルトはミュラと聞いて持っていたナイフをテーブルに置いた。
「会おう」
「司令官閣下!」
ミュラはフランス南部の男に相応しい陽気な笑みを浮かべてみせた。右手には軍隊新聞『戦友』が握られている。
「先に報告した通りですが、改めてご報告に参上しました」
「よし。ミュラ……よし。私の馬車で話をしよう。乗れ」
ボナパルトは得意満面の笑みを浮かべるミュラを声で押し立てるようにして赤い自分の馬車に乗せて扉を閉めた。
「司令官閣下?」
「さて……ミュラ」
「はい司令官閣下!」
ボナパルトは一つ息を吸い込んだ。
「ミュラ!この大バカ者が!!」
ミュラの肩ほども無い小さな身体からまるで大砲が炸裂するような声が発せられ、馬車の窓を振るわせて、周囲に居た護衛の人間の鼓膜にも届いた。
「敵と一騎打ちしただと!! ふざけてるのか!! そんなことは一介の伍長がやることだ!! 大佐ともあろう人間がそんな軽率な真似をするんじゃない!! お前が倒れたらそのあと誰が部隊を指揮するんだ。私はお前の代わりに猟騎兵隊を指揮する人間をどっから連れてくればいいんだ! フランスからは新兵一人、弾丸一発も来ないんだぞ!!」
ボナパルトはミュラの軽率さに猛烈な批判を浴びせる。今のボナパルトにとっては兵卒一人さえ替えの利かない貴重な存在であり、まして部隊を率いることができる指揮官は百個の宝石よりも貴重な存在だった。戦いとなれば命を省みず、勇敢に振る舞うことを期待するが、リスクは避けてほしい。というなんとも矛盾した要求であり、ミュラにとっては理不尽な八つ当たりも良いところである。ボナパルト自身、自分が言っていることが都合の良い、矛盾した発言であると自覚している節があり、そのため皆のいる前ではなく、二人きりになる場所で怒りをぶつけたのであった。
ボナパルトの怒号にミュラはその大きな身体を丸くして反論を試みる。
「えっ、ええ……新聞じゃ褒めてたじゃないですか。司令官だってこの前は旗持って最前線に……」
「兵士に『迂闊に戦ってはいけない』なんて言えるか!! あの時はああするしかなかったの!! あれはあれ! これはこれ!!」
ボナパルトは小さな肩を上下させて荒く息をして、呼吸を整えた。
そして口調を一転していつもの、通常のものへと戻した。先ほどまで顔が赤くなるほど怒鳴っていたようにはみじんも思えない、落ち着いた、冷静な声である。
「……それはそれとして、橋の奪取はよくやったわ」
「は、はあ……どうも」
「敵の騎兵と直接戦ってどう思った?」
「優れた騎兵です。よく訓練されており、並のフランス騎兵の倍は腕がたつでしょう。まあ、俺には敵いませんがね。弓と短槍に長けています。そして何より、馬の質が段違いです。こちらの馬より素早く、持久力もあります。これまでの会戦では敵が陣形を崩したり、敗走したところを追撃して戦果を出せましたが、騎兵同士の対決となれば負けるとは言いたくないですが、不利は免れんでしょう。少人数の戦いでは明らかにあちら側が優勢です。一方で密集した陣形を崩すのは不得意のように思われます。現にこちらが密集すれば敵は遠巻きに矢を射掛ける程度でした」
「ふむ……」
ミュラは冷静な分析をしてみせた。ボナパルトは思案する。『斧打ちの国』の騎兵は二種類あるようだ。
一つは遠巻きに矢を射掛け、槍ではぐれた敵を襲撃する軽騎兵。もう一つは、金属鎧に身を包み、ランスを構えて突入してくる重騎兵である。ツォーダフ、ドルダフトンといった敵将と会戦に及んだ際にもその傾向はあった。騎兵戦力を今すぐに充実させるのは不可能であり、次の戦いも敵の騎兵をいかに歩兵と砲兵で抑え込むかが鍵になりそうであった。
それにしても、敵軍に関する情報が不足している。敵の数、質、戦法……その他の情報。一切が不足している。戦う以上、不確定な要素は避けられず、出たとこ勝負、行き当たりばったりにならざるを得ない部分はなくせない。しかし、出来ることならそうした不確定要素を取り除いて、勝つための算段を作りたい。そうして勝利に必要な要素を重ねていくのが司令官の役割でもある。この世界にやってきてからというもの、そうした情報が著しく少ない。もっと情報が欲しい。 そう思わずにはいられなかった。
「よし。ご苦労。退出して良し」
「はっ」
ミュラが扉に手をかけた時、ボナパルトは一つ、用事を思い出した。
「ミュラ。私がクルーミルから借りた馬がある。葦毛の白い馬、あれをアンタにあげる。『草長の国』の貴族が乗る軍馬よ」
「いいんですか? あんな良い馬」
「私が持ってても仕方ないもの。アンタが乗ったほうが馬も喜ぶでしょ」
「ありがとうございます閣下!」
ミュラは馬車に乗った時と同じような爽やかな笑みを浮かべながら馬車から降りた。
「ミュラ。随分司令官に叱られたようだな。怒号が外まで響いてきたぞ。可哀そうに」
馬車から出たミュラをベシエールが出迎えた。二人は同郷の出身で親交がある。
「なに、司令官閣下は俺の事を心配してくださったのさ。俺みたいな良い騎兵指揮官は代わりがいないからな。もっと自分を大事にしろってさ」
「そんな風には聞こえなかったがね……」
「俺は司令官閣下がパリで大砲をぶっ放してたヴァンデミエールの頃からの付き合いだからな。閣下にとって俺は優秀で信頼のおける人間なのさ。だから、たまにはああやって甘えをぶつけたくもなるわけだ。あれは司令官閣下なりの情なんだよ。わかるか?」
「お前みたいに何事も前向きに捉えられたら楽しいだろうな」
「そうだろう? 俺もそう思うんだ。それより、司令官閣下から馬を賜った。見に行こうぜ」
しばらくして、ボナパルトはテントへ戻った。料理は少し冷めてしまっているが、ベルティエもウジェーヌも手を付けずにいる。
「……先に食べてよかったのに」
「司令官閣下をお待ちしていました」
「そう……ありがと」
ボナパルトは少し硬くなった鶏肉をナイフで切り分けると、口いっぱいに頬張った。