第二十六話 地図を示す
兵士たちに新たな戦役の開始を告げた後、ボナパルトはクルーミルと共にオーロー宮に戻り、早速作戦会議に取り掛かった。今後の方針を定め、諸侯に伝えるためである。
ボナパルトとクルーミルの二人にベルティエとアビドード、そのほかクルーミルに味方する貴族たちがこの作戦会議に出席した。各々、用意された精巧な動物が彫られた木製の椅子に腰かける。ボナパルトは自分の椅子のひじ掛けに象られている小さな鷲のくちばしをひと撫でする。
「ボナパルトが率いてきた兵が合流したことで、我々は十分な戦力を手に入れました。いまこそ進軍して、奪われた領地を奪還し、この国からダーハドの軍勢を一掃する時が来たのです」
女王たるクルーミルがまず最初に発言した。燃えるように美しい彼女の瞳は希望に満ちていた。
ボナパルトは通訳がクルーミルの言葉を訳するのを聞きながら思索の海に沈む。彼女にとってこの会議は何かを決定する場ではない。既に自分の頭の中で決定したことを他の者に伝え、確認を取るためのものである。
「我々はこの『川辺の都』より伸びる大街道を進み、王都を目指します」
クルーミルが机に広げられた地図を指差した。
ボナパルトはしなやかに伸びるクルーミルの指先を目で追って指示された地図に目線を移す。
それは実用的なものとは程遠い、地図というよりも絵画の仲間に入るような図であった。おそらく腕の良い画家が描いたのかもしれない。羊皮紙の中央には『川辺の都』の美しい街並みや、生い茂る森、そこに住む獣やそれを追いかける貴族、種を蒔く農民、家畜を追い立てる牧人が描かれ、その西側には戦士たちが剣を土地に突き立てている様子が描かれている。
おそらくは『剣造りの市』を示しているのだろう。人工物が描かれているのはそこまでで、それより西側はたくさんの木と、大きな河が流れているに過ぎない。クルーミルが最初にボナパルトを連れて行った村は地図に記されていないらしい。『川辺の都』の東側、大街道の先にはさらに大きな都市の姿が描かれている。そびえたつ城壁、巨大な宮殿のようなもの。多くの人も描かれている。あれがおそらく『王都』だ。
『王都』の街並みの上側には巨大な斧を右手に持ち、立派な赤い鎧を着た大男と金髪の少女が描かれている。あれがクルーミルの父、グルバスとクルーミルであろう。大男が左手に持っている鍵を少女に渡している場面であり、おそらくは都の門の鍵を渡して、彼女に都市の権利が移ったことを示している。さらにその周囲にはいくつもの小さな村が描かれ、さらにその東には、たくさんの剣を手にした男たちが描かれている。『王都』よりその先は『斧打ちの国』ということになるのだろうか。
こうしてみると『草長の国』は『斧打ちの国』の側から徐々に人々が移住してきて広がった、比較的新しい土地であると分かる。この地図は単なる地図ではなく、この国の歴史を物語っているのだ。
……しかしボナパルトにとってそんなことは大した意味はない。どれほど細密に美しい絵画が描かれていようが関係ない。学者たちが見れば、この国の芸術や習慣を理解する絶好の史料と見て博物館に持ち帰りたくなるような逸品であろうと、全く関心事ではないのだ。
彼女が必要とする地図はカッシーニのような地図であった。フランスのフランソワ・カッシーニが製作した、正距円筒図法の地図。ボナパルトはこれを欲していた。河川の位置、道路の幅と状態、都市と都市までの正確な距離、森の位置、丘の高低差……そういった、軍隊の移動と展開に役立つ地図をこそ、必要としていた。
「王都に直進されるのは、いささか危険が大きいのではありませんか」
列席していた貴族の一人が口を開いた。
「王都は城壁も高く、食料のたくわえも豊富です。ボナパルト殿の兵がいかに多くとも、これを落城させるのは容易なことではありません。それよりも、周辺の街を陥落させていき、地道に包囲の輪を狭めていくというのはいかがでしょう」
続けて隣の貴族も言う。
「その通りです。破ったとはいえ、ドルダフトン公はいまだ健在。都を取り戻すのはもっと兵を整えてからということにしては……」
「城攻めには多くの準備を必要とします。長期間の包囲戦となれば食料も必要となるでしょう。また集めた農民たちを畑仕事に返してやらねばなりません。収穫月がもうしばらくです。収穫を終えてからということにしてはどうでしょう」
貴族たちの一部は明らかに王都攻めに消極的な姿勢だった。城攻めは基本的に攻撃側に多くの消耗を要求する。直接攻撃すればもちろん、侵入者を殺戮するためだけに設計された、守る側に著しく有利な場所で熟練の戦士たちと戦わねばならず、犠牲が多くでることは避けられない。
また包囲して陥落させようにも、敵がしっかりとした屋根のある家で休みを取れるのに対して攻撃側は野営するほかなく、兵士たちの健康が損なわれて病気が蔓延する可能性がある。その上、包囲される側は食料倉庫に蓄えた備蓄が十分であれば何カ月、何年と耐えることができるのに対して、包囲する側は食料を運んでこなければならない。補給拠点から離れれば離れるほどそれは困難な事業となり、包囲している側が食料不足に苦しむ可能性が高い。
城攻めは非常にリスクが高いものだった。消極的になるのも当然といえば当然で、負担が大きい事業である。
「何を言う? 我々は二度も勝った。勝利を続けている今こそ、女王と共に進軍し、王都を取り戻すべきだ」
「勝利の精霊は女王と共にあるのだ」
クルーミルに同調する者たちも居る。主に下級の貴族たちで領地をほとんど持たない騎士や、領地をダーハドに奪われた者たちである。彼らにとって戦いは利益が大きい。戦で功績を上げることができれば領地や名声を獲得することができる上、奪われた領地を回復することも叶う。失うもの以上に得るものが大きい者たちでもある。
むろん、私欲ばかりではない。『斧打ちの国』という外敵を国より追い出す事は領民の暮らしを安らかにするものである。外敵から領地、領民を守る。というのは領地を持つ貴族にとってもっとも望まれることである。貴族が農民たちから税を取り立てて、豊かな食事を取り、高価な武具を持ち、馬に跨ることができるのは、貴族という戦士たちが、農民たちの畑と家と家族を守ってやるという約束だからである。
農民たちは貴族に保護を求め、貴族たちは王に保護を求める。その見返りに税を差し出したり、兵を提供したりするのである。そういう関係でこの世界は成り立っていた。
「ベルティエ。地図を出しなさい」
会議が停滞しそうな気配を察知したボナパルトは横に控えるベルティエに合図した。ベルティエは手早くクルーミルに断りを入れると、広げられた地図を片付けさせ、その場に新たな地図を広げた。それは先ほどの地図と比べればひどく質素で、なんの魅力も無い、にょろにょろと黒くて細い線がまるで蜘蛛の巣のように張り巡らされただけの地図で、列席していた貴族たちはこれが一体なんなのかと口々に尋ねた。
「ボナパルト、これはなんですか」
クルーミルもよく分からないようで、ボナパルトに問いかける。
「見ればわかる。地図だ」
「地図、ですか?これが」
「私がここに来てからベルティエに作らせた」
ボナパルトがここに来てからというもの、命令したこととは多岐にわたる。兵を募って訓練させ、武器を製造し、軍資金をかき集めて、貴族たちの宴にしぶしぶといった顔で参加していた傍らで、地図の製作も命令していたのだ。ベルティエと、ベルティエの組織したスタッフがそれを実行する。各地に連れて来た測量技師たちを送り出し、近くの農民に不審な眼差しで見られたり、地主の貴族に剣を向けられたり、『斧打ちの国』の騎兵に襲撃を受けながらも彼らは行ける範囲の『草長の国』の土地を歩き回り、どこまでも広がる草原やなだらかな丘陵、広がる森を測って回っていた。『王都』への道筋も街道だけは表記されている。周囲の森や丘といった地形を記すにはそちら側は敵の領域であり、僅かな護衛で測量技師を送り出すのは危険が高かった。彼らに万一の事があれば、正確な地図を作ることができる人間がいなくなってしまうのだ。
「ここには私の知る限りの全ての街と街道が正確な縮尺で描かれている。この情報によれば『王都』までの距離は百五十キロから六十キロ。途中にちょっとした丘を越える事と、川を二か所渡る必要がある。王都まで十日以内に到達することができる」
クルーミルと貴族たちは目を丸くした。
「我々の方針は既に定まっている。クルーミル女王の言う通り、迅速に王都へ進撃してこれを攻略する」
「それは危険が高いと先ほど……」
貴族が口を挟みかけるのを手で制止してボナパルトは続ける。
「諸侯の懸念は当然。アビドード殿、王都に逃げ込んだドルダフトン公の兵力はご存じか」
「私が知る限りは五千から六千の兵が落ち延びています」
「我が方は私の兵だけでも四万を数える。諸侯の兵が合流すればその数はさらに増えるだろう。王都を包囲するに十分な規模の軍勢だ。彼らが平野に出て会戦に訴えるなら、一撃で粉砕してやれる。諸君は私が『斧打ちの国』の軍勢を破った事を知っているはずだ。もし、彼らが籠城するというなら、大砲で城門を吹き飛ばしてやろう。私がここに来る道中、城塞を一つ、がれきの山に変えてやったことを知っているだろう。私が持っている武器は非常に強力であり、いともたやすく城壁を崩すことができる。なんの心配があるだろう。あるいは彼らにはもう一つ選択肢が残っている。我が方の数に恐れをなして逃げ出すというものだ。それなら我々は彼らの背中を笑って入城するもよし、追いかけて馬の蹄とサーベルで蹂躙してやるもよしだ。
……なんにせよ、我々は進軍するだけで勝利することができる。王都を奪還すれば、中立を決め込んでいる他の諸侯たちもこぞって女王の旗の下に集うだろう。この機会を逃す理由がどこにあるというのだ?」
ボナパルトは自信満々に勝利を約束する。
議論は決した。貴族たちはクルーミルとボナパルトが説く王都への迅速な進軍を認めた。というより、女王と、最大の兵力を持つボナパルトが断固として「やる」と言ったからには逆らうことなど彼らにはできない。せいぜい反対のポーズを示して、失敗した時「私はあれほどやめるようお諫めしたのですぞ」と言うためである。成功したなら、その時は両手を上げて「女王陛下万歳」と叫べばそれでよいのだ。
会議が終わり、貴族たちはそのまま退出していき、午後からは大広間で出陣を祝う宴が催されることとなった。
「ナポレオン。今回の戦いも頼りにしています。ともに勝利を勝ち取りましょう。ですが、今回の戦いは既に勝敗が決していたとは知りませんでした。流石は我が友といったところでしょうか」
貴族たちが退出して場に残るのがベルティエやアビドードといった、側近だけになるとクルーミルは、人懐こい笑みを浮かべてボナパルトの両手を取った。女王としての緊張の糸がほぐれたようである。
「あー……まあ。そうね」
ボナパルトの歯切れは悪かった。
「どうしたのですか。先ほどはあんなに自信たっぷりだったではありませんか」
「勝つ。勝つわよ。大丈夫大丈夫」
本音を言えばボナパルトはまだ進軍したくはなかった。城攻めになれば城門や城壁の破壊は問題ない。しかし突入するとなれば市街地で接近戦が避けがたい。そうなれば兜、鎧や鎖帷子、剣と盾で武装した敵のほうが、布の服にマスケット銃で武装したフランス兵より優位に立つだろう。損害が大きくなるのは避けられない。そうした接近戦は徴募した兵士たちにやらせるつもりである。ところが、彼らの訓練は未だ不十分で戦場で役に立つかどうかはなはだ疑問が残る。なのでボナパルトとしてはもっと時間をかけて訓練を施してやりたいところだった。しかし、それができない理由がある。悠長に兵士たちを訓練する「金」がないのだ。彼らの給料や、食費、装備の維持にかかる費用をボナパルトもクルーミルも提供し続けられない。迅速に行動して、成果を得る必要があった。