第二十五話 いまから始める大陸軍その⑦
『川辺の都』に集結したフランス軍が、徴募した兵たちの訓練に用いている草原に勢ぞろいする。
昇り始めた陽の光が朝霧に反射してフランス兵たちの青い軍服を柔らかに照らし出す。
集った若者たちはムヌウ、ボン、レイニエ、ドゼー、クレベールといった指揮官たちに率いられているこれにデュマ将軍率いる騎兵三千とドマルタン将軍率いる砲兵部隊が加わり、約三万に近い。
ムヌウ師団とドゼー師団は既に戦闘を経験しており、軍服のあちこちに破れや汚れが見えた。しかし、兵士たちの精悍な顔つきときびきびとした動作が、みすぼらしさを少しも感じさせない。すすの汚れすら、彼らにとっては自慢の種である。
集まった兵士たちの前に将軍たちを従えたボナパルトが、白い、葦毛の馬に跨って姿を現した。『草長の国』の貴族たちが有する体躯こそ大きくないが、しっかりとした馬体に品のある顔つき、持久力に優れ、乗り手の指示に従順な軍馬である。ボナパルトが今まで乗っていた馬はフランスから持ち込んだ馬だが、あまり見栄えがする馬ではなかったので兵士たちに見栄えがするようにクルーミルからこの馬を借りてきたのだった。
屈強な将軍たちがそばに居るため、この場の誰より背の低いボナパルトはさらに小さく見える。
「兵隊!」
ボナパルトは草原に響き渡るような、その身体からは想像もつかないほど大きく、よく通る声で発した。
草原を撫でながら駆け抜ける突風のような声が兵士たちの全身を捉え、その場に居た兵士たちは大きな鷲が頭上から急降下して眼前に翼を広げるように、ボナパルトが大きくなったように感じられた。
「兵隊! 我々がこの見知らぬ土地に来て既に七十日余りが過ぎた。諸君はあまたの困難と不自由と戦いながら、襲い掛かる敵を撃ち破り、軍旗を栄光で満たしてきた。私は諸君らの不安を知っている。船が動かず、帰国することができないという噂が流れている。……その通りだ! この地に存在する、我々の理屈のおよそ通用せぬ神秘の力である。その身を以って知るものも居るだろう。我々はフランスはおろか、ヨーロッパに帰ることすらできぬ身である。故郷から一通の便りすら届かない悲しみがいかに深いものかよく分かる。私も同様なのだ! 我々は真に、最高司令官から一兵卒まで運命共同体となったのだ。この事実を知って、諸君の瞳に恐怖と動揺が浮かぶのが見える。だが兵隊よ。我が戦友よ。前進だ! 諸君らの司令官を信じるのだ。私はイタリアで諸君らに富と栄光をもたらすと約束し、それを果たしたではないか。今回も私は諸君らに約束しよう。今回もそうなるだろう。我々は立ち塞がるものすべてを打ち負かし、千年先まで語り継がれる偉業を成し遂げフランスに凱旋するのである!」
ボナパルトの言葉が魔法のように兵士たちの間に巨大な石が湖に投じられたように波紋が広がった。
「前進! 将軍万歳! フランス万歳!!」
故郷に帰ることができない。この宣言が一か月前に発せられていたら反応は違っただろう。兵士たちは自分たちを名も知れぬ地に導いた司令官に激怒し、その場で叩き殺していたかもしれない。だがさらに一か月の時を経て、兵士たちの間の煮えたぎる憤激は冷め、あらがいようのない現実に直面して一種の慣れ、諦めが広がっていた。今更帰れないと言われても「ああ、やっぱりな」という程度のものである。衝撃はあるが、爆発するほどではない。それよりも兵士たちが欲していたのは「これからどうするか、どうなるか」である。ボナパルトは巧みに怒りの直撃を回避し、兵士たちの怒りが諦めに転じたところに希望を示したのだ。
急降下からの急上昇。絶望は諦観に、諦観から希望へほとばしる。悶々としていた兵士たちのエネルギーは堰を切ったように弾け、ボナパルトへの歓呼へと変わった。兵士たちに必要なのは帰れないという過去ではない。富と栄光に向かって前進すると言う未来なのだ。
「これより始まる戦役は古のマケドニアのアレクサンドロス大王や、ローマのカエサルの征服に匹敵するものである。すなわち、諸君は前人未踏の地に足を踏み入れ、文明と文明の融合をもたらし、新たな世界を創造するのである。兵隊。私の百戦錬磨の勇者たちよ。この大事業に怖気づきはすまいな! 思い出してほしい。我々はかつて、イギリスの艦隊を砲火の下に焼き払い、トゥーロンを解放し、デゴでオーストリア軍を破り、ミラノに自由をもたらし、アルコレで敵を叩きのめしマントヴァを手中に収めた。我々は常に勝利の女神と共に進軍してきたのである」
「そうだ! フランス万歳!! 将軍万歳!!」
「我々はもはや、東方軍ではない。新たな偉業を行う軍。大陸軍を号する! 我々は大陸軍。大陸軍である!」
ボナパルトが二角帽を高く振り上げると、兵士たちの興奮は頂点に達し、大地を踏み鳴らす音と叫び声が響き渡り、都にまで届いた。
「アビドード、見ましたか?」
ボナパルトが兵士たちを熱狂の渦へと導いているのを、少し離れた場所からクルーミルも見ていた。
クルーミルはボナパルトに貸した馬と同じ、白い葦毛の馬に跨っている。
「はい。なんと言っているのかは分かりませんが、沸き立っているようです」
「ボナパルトから、少しだけ彼らの言葉を習いました。兵士たちは将軍万歳。と叫んでいるのです。つまり、ボナパルトをほめたたえているのです」
「……」
「ボナパルトが命じれば、彼らは戦いに赴くでしょう。私も彼女の……」
付き従う重臣のアビドードに向かってクルーミルは呟いた。言葉は途中で風に流れて来た歓声によって掻き消え、アビドードは最後までその言葉を聞くことができなかった。
次回から新しい章に入ります。
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