第十六話 浴槽にて2
『川辺の都』に到着してからというもの、ボナパルトはクルーミルのいるオーロー宮の近くにある大きな屋敷を接収し、そこを仮の住まい、そして司令部とした。かつてはドルダフトン公が住んでいた屋敷である。
広く、手入れのされた庭があり、屋敷は部屋数も多くボナパルトと参謀長のベルティエ、そしてほかの司令部要員、副官、護衛、世話人……その他大勢が十分に収容できる広さがある。
ボナパルトは屋敷に飾ってある絵画や、彫刻などについて特に感想らしい感想は抱かなかった。後でやってくる学者たちにその価値を調べさせるように命じる程度で、芸術的な感動とは無縁の人間である。しかし、屋敷に広い浴室があり、屋敷の近くで湧く温泉を引いていると聞くと途端に笑みを浮かべ、戦場の汚れと疲れを取り除こうと、ただちに湯を張るように命じて飛び込んだ。
「ああああああ…………」
ボナパルトの口から感嘆の声が漏れる。全身が温かく、やわらかく抱擁され、身体にかかるあらゆる負担がほぐれていくのを感じていた。
「この世界はだいたい私たちの文明に比べて遅れてるけど、お湯の心地よさだけは勝ってるわ。ベルティエ、ここのお湯をフランスまで引くわよ。ローマ人も驚くような水道橋をかけて、ここからパリまで湯を引くわ」
そんならちのないことを言いながら肩まで湯舟に浸かる。
「ではカファレリ将軍の工兵部隊に検討させましょう」
当然のように書類を持ち込んで浴室に入ってきているベルティエはまじめに答えた。
「冗談よ」
「知っています」
「……」
ボナパルトは湯舟の水をすくって顔を洗った。
「やることは沢山ある。クルーミルに権力を与えるためには私の軍隊がついているだけでは足りない。貴族たちが担っている徴税・行政の機能を女王に与え、貴族たちの軍事力を奪っていき、抵するようなら粉砕するための軍隊が必要になる。つまり、役人と軍隊を整え、それらを管理するための法律を整備していかないといけない」
「まるで絶対王政の再現ですね。革命によって王政を打倒した我々が、この地で強力な王を生み出す手伝いをすることになるとは、皮肉なものです」
「確かに絶対王政の再現だけど、手っ取り早く統一と安定をしたいっていうならこれしかないわ」
「仰る通りです」
「役人を育成するにしても、軍隊を整えるにしても人を常雇いするには……まずは金ね。金、金、金……」
ボナパルトは頭を抱えた。
ボナパルトが欲している軍隊は常備軍である。すなわち、現在この異世界、グルバスで主流の農民や町民を戦争の時にだけ集めて戦う、というわけではない。戦争の無いときにも常に雇い続け、兵士として訓練される職業軍人である。
人を雇うには金がかかる。しかも、その雇った人間は飲み食いし、金のかかる武器や防具を必要としておきながら、畑を耕すでもなく、モノを作り出すでもない。商人が従業員を雇ったり、農民が小作人を雇ったりするのとはワケが違うのだ。ひたすら金がかかる。
「収支は赤字です。兵の給料や食料、火薬等の軍の維持費がまず莫大で、これにこの地での武器生産に必要な工房造りの費用などがのしかかっています」
「フランスから持って来た軍資金は?」
「まだいくらか猶予がありますが、いずれ枯渇するでしょう。頼みの綱はクルーミル殿が援助してくれる軍資金ですが、これも焼け石に水のようなものです」
「でしょうね……」
ボナパルトもベルティエも、戦争となれば並ぶもののない手腕を発揮する自負があるが、そうではない事、金を生み出すことなどについては素人同然と言ってよかった。すぐに金を生みだす名案など浮かびようもない。
「とりあえずこれは一旦置いときましょう」
「はい。ところで、一つ気になることがあるのですが」
「なに?」
「我々がフランスに帰れない原因です」
「さあね。船が戻されるっていうんだからしょうがないでしょ」
「その理由はなんでしょう? この世界には奇妙な『精霊』なるものの力があります。ひょっとすれば、その仕業なのかもしれません」
いままでは帰る事よりもまず軍に必要な物資を供給することを考えていたから後回しにしていたが元はと言えばここで国造りのようなことをしているのはフランスに帰れないからである。帰る方法さえ見つかってしまえば、こんなところはさっさと引き上げてしまえる。そうでなくとも、フランスと連絡が付けば新しく補充の軍隊を呼び寄せたり、物資を供給したりもできる。
「その可能性はある。クルーミルに聞いてみるわ」
とはいえ、ボナパルトの内心は複雑である。
もし帰国する方法が見つかれば将軍や兵士たちは帰国を主張するだろう。そうなればクルーミルとの約束を果たすことはできなくなる。一旦フランスに引き返して軍を整えて戻ってくるという道もあるが、再び自分がこの地の遠征軍の司令官に選ばれるかどうかは不明である。そもそも出国前から政情が不安定だったフランスが今どうなってるのか分からない。自分のいない間にいつのまにか革命政府が倒れていて王政が復活し、帰国、即断頭台という可能性が無いわけではない。なにより、フランスに戻ればフランスの一将軍だが、ここに居ればこの世界屈指の軍隊の司令官であり、女王の友である。冒険心がくすぐられる。アレクサンドロス大王のような大征服も夢ではない。
しかし、永遠にこの世界に居続ける、というのも考えたくはない。兵士たちは故郷の家族に会いたいだろう。ボナパルト自身も家族やジョゼフィーヌに会いたい。どうにかしてフランスと連絡をつけたい。帰りたくはあるが、それは全てが終わってからである……なんとも都合のいい話である。
「はああ……ベルティエ、ベルティエ、いろいろ考える事はあるわ。でもとりあえず今は全身の血が沸騰するまで湯に浸かりたいから、下がっていいわ」
ボナパルトはこれ以上は考えても仕方がないと見切りをつけて、ベルティエを浴室から退出させ、のぼせるまでしばらく『川辺の都』が誇る温泉の効能を味わうことにした。