第十二話 川辺の都の戦い 中編
戦いが始まった。
一部の兵士たちが、肩を寄せ合って密集する戦列歩兵たちに先んじて個々に展開している。
密集した陣形を組む歩兵と対比されるので彼らは散兵と呼ばれる。
勇気と技量を兼ね備えた兵士たちである。
第13半旅団に所属するヴィゴという兵士もそうした散兵の一員だった。
ヴィゴの背後で大砲の雷鳴のような轟きが響き、腹の底から全身が震え上がった。
鉄球が空を切る独特の唸り声は何度聞いても恐ろしいものだが、味方のものだと
分かっていればそれはそれは頼もしい戦友たちの喚声のように感じられる。
数百歩先で、だんだん近づいてくる人の集まり、つまりは敵部隊にそれが命中するとたちまち影が散らばり、かすかな悲鳴が聞こえた。即死できた者は幸運なほうで、手足を引き裂かれたり
はらわたを抉り出されたりした者たちは死神が迎えに来てくれるまでの間、自らが作り出した血の海でのたうち回ることになる。自分に殺意を向けて迫って来る敵とはいえ、その姿にヴィゴは憐みを覚えずにはいられなかった。
もっとも、そうした感傷も次にやってくる己の死を思えばすぐに薄らいでしまうものだったが。
それでもヴィゴは戦場という死が常態化する空間であくまでも死を非常であると思いたかった。
「ヴィゴさん」
ペアを組んでいた若い兵士が声をかけた。
「ジャック、近いぞ。もっと離れろ」
「あれ、敵ですよね?」
「見りゃわかるだろ。怖いのか?」
「怖くなんかありません! 確認しただけです! 俺、やりますよ。ヴィゴさん、戻ったら隊の奴らに証言してください。ジャックは勇敢に戦ったって。誰も俺の事を臆病だって言えないように!」
「わかった。わかったから銃口を俺に向けるな馬鹿」
「すみません」
「あの岩陰まで行って、敵を待ち伏せだ。俺が先に撃つ。俺が装填してる間にお前が撃て。敵をよく狙え。旗持ちとか馬に乗ってるやつとかがねらい目だ」
「わかりました。やります」
ジャックは銃を握りなおした。
二人は戦場の中ほどにぽつんと取り残されたように佇んでいる岩のそばに駆け寄った。『斧打ちの国』の第一陣となる集団がフランス軍の砲撃を受けて隊列を削られながらも確実に近づいてきていた。
集団の先頭には隊列を組まない兵士たちがまばらに広がりながらヴィゴたちをめがけて走り寄る。
「敵だ! ヴィゴさん、敵も散兵を出してきました!」
「落ち着け。敵も味方も考える事は一緒だ」
ヴィゴは何百回とそうしてきたように引き金を引いた。乾いた銃声が鳴り響き、先頭を走って駆け寄ってきた男がそのまま倒れ込んだ。一瞬、ヴィゴの心に冷たいものが流れたが、すぐにそれも熱された戦闘の緊張と興奮の空気に掻き消えていく。
「命中です! すごい!」
「装填する。敵を近づけるなよ!」
続けて前線のいたるところで同様に銃声が弾けて本格的な戦闘が始まる。
バチッと目の前で石が砕ける音がしてジャックは思わず銃を投げ出して身体を丸めてしまった。70歩ほどの距離まで敵兵が忍び寄っていた。
「馬鹿! 銃を手放すな!」
「あああすみません!」
「すぐそこだ! 撃て!」
ヴィゴはまだ銃の装填を終えていない。
「うわあっ!」
パニックになりながらジャックは銃を拾い上げた。
敵兵は頭上で簡素な布と紐で出来た投石具を振り回している。
一瞬、敵の兵士と目が合った。とジャックは思った。澄んだ、淡い琥珀色の瞳。憤怒に満ちた表情が驚愕に変る。息を大きく吸って、吐く。火薬と煤の残酷な臭いが肺に入って来たがそれすら
清らかな、美しい女神の振りまく薫りのように感じられた。人生で最期の一呼吸かもしれなかった。
すべてが長く、ゆっくりと感じられる。
「ジャック!」
別世界へと急落しかけたジャックの意識を引き戻したのはヴィゴの声だった。
「あっ!」
銃身が熱く、煙が立ち込めていた。
「よくやった」
「ヴィゴさん、俺」
はっとして、見てみると敵は地面に倒れ込んでいた。
「お前の初戦果だ」
「は、はは……」
俺は生きてる。あいつは死んだんだ。
ジャックの心をこれまで彼が感じたこともなかった感情が満たした。
「装填しろ。次が来るぞ」
「はい!」
感慨に浸る猶予などはない。戦いは拡大していった。
「進め! 進め!」
『斧打ちの国』の第一陣は激しい砲撃と散兵からの射撃をうけながら懸命に前進して敵に近づこうとしていた。騎士たちが怖気ずく歩兵の側面を固めて逃げ出せないように見張りながら前進させる。
「ボルーエー殿、我らは歩兵のお守りをするために来たのではありません! 突撃をご下命ください。敵陣をことごとく破ってみせます」
痺れを切らした若い騎士が第一陣を指揮する貴族、ボルーエーに叫んだ。
「いかん。敵の歩兵はツォーダフ公の騎士たちが破れなかったほど強靭だ。騎士だけで突っ込んでも破れん。それにまだ敵陣まで距離がある」
とはいえ。とボルーエーは思う。歩兵を接近させて接近戦に持ち込むにしても、騎士たちを突撃させて突破させるにしても、敵のこの射撃がいまわしい。この弾丸は地位の高い騎士たちが持つ質の高い盾や鎧を貫けないが地位と財産の少ない下級の騎士たちや徴募された農民たちから成る歩兵が持つ
質の低い防具を易々と貫通してしまうのだ。
さらに砲弾は耐え難く、直撃すればたとえ精霊の加護を受けた防具でも防げず身体をばらばらに引き裂いてしまう。
「悪霊使いどもめ……」
ボルーエーは忌々しげにつぶやいた。
損害を出しながらも第一陣はフランス軍の散兵線を越えて戦列に迫った。
「突撃だ!」
「突撃だ!」
銃撃と砲撃に晒されいた騎士たちが鬱憤を晴らすように口々に叫びフランス軍の戦列めがけて遮二無二馬を走らせる。盾を鳴らし、剣や槍を振り回す比較的軽装の騎士たちと板金で作られた鎧に身を包み馬上槍を揃える騎士たちとの間に差が生じ隊列が崩れるが彼らは気にしない。彼らにとって戦いとは本質的に無数の個人戦である。
「来たぞ。隊列を崩すな!」
フランス軍は騎士たちが速度を上げて近づいてくるのを固唾をのんで待ち受ける。戦列は前方を足場の悪い沼地や水路になるように慎重に選ばれており騎士たちの動きは何もない平野を疾走するのと比べればだいぶ鈍くなっていとはいえ数百キロの肉と金属の塊が何百と押し寄せる様は恐怖を感じずにはいられない。
恐怖に逃げ出してしまいたくなる衝動が兵士たちに押し寄せる。
そんな時兵隊は隣にいる戦友の顔を見るものだった。
恐怖に耐えかねるフランス兵の戦列から一つ、炎と煙、弾丸が発射される。最初の一つを呼び水にして次から次へと爆音が何重にも重なって銃弾が騎士たちを襲った。
至近距離で爆ぜた音に馬は驚いて立ち止まり、制御しきれなかった騎士が馬から転がり落ちた。弾丸に傷つけられた馬はある馬は地面に突っ伏し、ある馬は狂乱しながらあらぬ方向に走りだす。撃ち抜かれた騎士たちが苦痛に悲鳴を上げる。いくらかの者は頭や心臓に弾丸を受けて自分に起こった出来事に気づく事すらできなかった。
倒れなかった騎士たちが川の流れが岩にぶつかって割けるように左右に広がりフランス軍の戦列の隙間を見つけてそこに躍り込もうと試みた。
幾人かの騎士たちは接近に成功したが、集団としての戦闘力を欠いた状態ではたちまち突き出される無数の銃剣や銃弾を受けたりして倒されていく。
騎士たちの攻撃が成功しないとみるや、歩兵たちはそれ以上フランス軍に近づくのをやめた。発射される弾丸は近づけば近づくほど命中精度を増し、死の確率を高めていくのだ。そのような場所に好き好んで近づきたい者はほとんどいない。
少しでもそこから離れようと誰かがあゆみを遅くする。意識的にか無意識にか一人がそうすれば隣の者もそうする。恐怖は伝染し、兵から兵へ伝わっていく。歩調が乱れ、停止する。そして、後ずさる。
「進め! 進まんか! 敵に食らいつけ!」
騎士たちがいくら怒鳴り散らそうと槍の穂先で脅しつけようと、こうなると手が付けられない。
砲弾が吸い込まれるように旗持ちの胴体に命中してその肉体を四散させたのを合図に『斧打ちの国』の第一陣の歩兵隊は算を乱してほどけるように自陣にむけて敗走を始めた。
「女王陛下! 敵が逃げていきます」
「追撃をお命じ下さい。やつらを叩きのめしてやります」
「左様」
全軍の左翼に陣取っているクルーミルの部隊の騎士たちが中央のフランス軍に突撃して敗走する『斧打ちの国』の軍勢を見て口々に言い立てる。
彼らは地形の関係から敵の攻撃路から外れており、未だ戦闘に参加していない。
「ボナパルトが我々に出撃の合図を出さない限り、私たちは待機です」
クルーミルは逸る騎士たちを抑えなければならなかった。
「女王陛下、我々は戦いに来たのです」
「その通り、手柄をボナパルト殿一人に独占されてしまう」
「戦いを指図するのはボナパルト殿とは。これではだれが主か分かりませんぞ」
クルーミルの古い家臣たちは黙って従っているが『剣造りの市』を奪還した後に合流した騎士たちはそうではなかった。彼らは『斧打ちの国』から寝返った手前、自分たちの立場を固めるための手柄を欲していたしよそ者であるボナパルトに合戦を指図されることが気に食わなかった。
「我らは出撃しますぞ」
「なりません。ボナパルトの指揮に従うのです!」
クルーミルは彼らをとどめようとしたが、一人の若い騎士が隊列から抜け出して駆けだしていった。
「おお! 遅れをとるな! 我らも続け!」
「応!」
騎士たちが口々に言い立ててそれに続くとそれを止める事はできなかった。
三十騎ばかりの騎士たちが躍り出て、それに従者と騎乗兵が続いた。まるで吸い出されるように歩兵隊が進み出て逃げる敵を追いかけ始め隊列が乱れた。
「女王陛下!」
「アビドード、彼らを連れ戻して! 私はボナパルトに知らせに行きます」
「はっ!」
「司令官閣下、あれをご覧ください! わが軍の一部が敵を追撃しています」
「なにっ!?」
ベルティエの報告にボナパルトは耳を疑った。出撃は命令していない。
「追撃には早すぎる! どこの馬鹿だ!」
「どうされますか、呼び戻しますか」
「ちっ……前衛の半旅団を前進させて掩護! 砲撃を一旦中止! 味方に当たる」
「はっ」
「ボナパルト! 私の兵が出撃しました!」
クルーミルが馬を走らせてきた。
「命令は出してないわ!」
「申し訳ありません。騎士たちの専行です」
「むぐぐ……!」
クルーミルは自分の家臣を掌握できていないのか。ボナパルトは舌打ちせずにはいられなかった。
自分が率いている兵士たちとクルーミルが率いている兵士たちには単に武装だけでない違いがあるということに思い至らなかった自分を悔いた。
出撃した騎士たちは敗走する『斧打ちの国』の兵を散々に打ち破った。士気も装備も規律も欠けた兵を打ち倒すのは戦闘というよりは一方的な狩りに近く騎士たちは勝ち誇ってそのまま敵の第二陣へと突進を続けた。
敗走してきた味方が飛び込んできたことで『斧打ちの国』の第二陣の陣形は大きく乱れそこに勢いに乗ったクルーミルの騎士たちが突入し第二陣もなし崩しに損害を出して無秩序に潰走し始める有様だった。
掩護を任されたフランス軍の前衛も敗走していく敵軍を見て勝利の匂いを感じ取り兵士たちの意気は上がる。
「ヴィゴさん、前進するってことは勝ってるんですよね?」
「多分な。……それならうちの司令官はもっと兵を出すはずなんだがな」
追撃する部隊の中には第一陣と戦っていたヴィゴとジャックもいた。
「最前列の僕らよりも騎兵が先に全部やっちゃいますね。死体だらけだ……」
「ここで目いっぱい殺っとくのが戦いの基本だ」
「僕らの敵は残ってるんでしょうか……」
その時、ジャックは前方のほうから眩い青白い光が輝くのを見た。
「あの光、なんだ」
「あ、ああ……!」
瞬間、ヴィゴは全身の血が冷たく凍てついたような感覚が襲い、次いで暗闇を見た。『暗がりの向こうに恐ろしい怪物が潜んでいてそれが自分に襲い掛かってくる』子供の頃恐ろしかった暗がりが、怪物の潜む暗がりが自分を包み込んでいるような恐怖が広がる。
それを感じたのはヴィゴだけではなかった。先ほどまで勝ち誇っていた騎士たちも、勝利の気配を感じていた兵士たちも望遠鏡でその光を見ていたボナパルトも、誰しもに突然それが襲い掛かった。
「逃げろ!」
恐怖が広がる。そこら中に敵がいる。今にも殺される。最早誰も平静を保ってはいられなかった。特にその光に近かった者ほど顕著に影響を受け追撃に出ていた部隊は敵を直視する勇気さえ奪われた。
「なにこの……この!」
ボナパルトは自分の内側から這い上がり、締め上げてくる恐怖に抗った。自分のものではない感情が自分の内側から湧き出てくる得体の知れない不快感。
「ナポレオン! これは精霊の御業です。おそらくドルダフトン公が恐怖をもたらす精霊を呼び出したのです」
クルーミルがボナパルトの手を取る。
「精霊!」
ボナパルトは目を見開いた。
「恐怖をもたらす? 冗談じゃないわ! 私がそれをするのにどれだけ苦労すると思ってんのよ!ふざけないで! こんなわけわかんない事を! くそっ! くそっ!」
ボナパルトは二重に激怒した。自分の心を操作されたことと、「軍に恐怖を引き起こす」ことをいとも簡単に成された事に。
勝ちの勢いから一転して敗走の危機に陥ったフランス軍に
青白く輝くドルダフトン公の率いる第三陣の軍勢が迫った。