第九十八話 大誓約(後編)
「陛下のお考えには賛同致しかねます!」
テーケルネトのその言葉は鋼で出来たサーベルがぶつかるような響きがあった。
「陛下は贖罪と言われますが大天幕の開催がそれに値するとは思えません。まして国軍の強化をしようと仰るのですか。大天幕で諸侯に出来る事と言えば王に対する助言と王の提案の承認であると聞き及んでいます。……女王がなさろうとしているのは、口ではどう仰ろうと自分の考えを諸侯に押し付け、諸侯の力を削ぎ、武力を増大させて服従を強いるということです。貴女がなさろうとしているのは断じて贖罪ではありません!」
一同の視線がテーケルネトに集中した。非力であるはずの彼女が最も熱烈に女王の政策に異を唱えている。西部諸侯の伸長を抑え、実力を失った東部諸侯の政治的影響力を確保させる女王の政策は東部諸侯の利益につながり、参政権の保障は王にとっては十分な譲歩であるということはテーケルネトも承知していた。彼女自身が思い至ったのではなく、クルーミルとの書簡のやり取りでその価値を説かれたのである。クルーミルが十分な工作を図ったのは、テルマルタルとネーヴェンの賛同を見れば明らかであって、事は政治ではなかった。
「私は貴女に謝らねばなりません」
クルーミルは一瞬の間をおいてテーケルネトの瞳を見つめかえした。彼女の反発はクルーミルの予想を超えていた。テーケルネト自身も自らの発した言葉にたじろいだような風だった。政治を無視した私的感情の激発だったのだから。
「テーケルネト。貴女だけではありません。この国の全ての者に。私は謝らねばなりません」
ですが、聞いてください。そう続けるクルーミルの声は僅かに震えていた。
そうだ、自分はなんと卑怯であろうか。なんと身勝手なのだろうか。クルーミルの内では自らを裁く声が聞こえる。自分の無能故に彼女から家族を奪い、今また自分の自分勝手な贖罪をしようとしている。そもそもが対等ではないのだ。自分は彼女に対して圧倒的な強者であり、彼女は弱者なのだ。自分が彼女と同じぐらいの年頃、自分には世界を統べた父がいて、優しい兄が居て、重臣たちに囲まれていた。将来のことを何一つ不安に思うことなく幸せだった。彼女はあの年にして嵐のただなかに一人立たされているのだ。なんということだろう。
「もし提案が拒絶されるようなら、相手を皆殺しにするぐらいの覚悟はあるんでしょうね?」
会議の前、ボナパルトにされた問いかけがクルーミルの内側で砕けたガラスのように乱反射した。
そんなことはしたくない。だが、できるだろう。自分は自分勝手な人間なのだ。どこまでも、どこまでも。そして、そうと知っていながら止まることができない。クルーミルは自分を砕いてしまいたい衝動に駆られた。
「望むならこの首を差し上げましょう。ですが私にはそれ以上にすべきことがあるのです。この提案が王の権力を強化することは事実です。ですがそれは全て、あなたたちを守るために必要なことなのです。どうか信じてください。私はこの力を諸侯の為に使うと。傷ついた全ての者たちの傷を癒すと」
クルーミルはあえて声を硬くした。できることなら跪いて罪を謝したい。東部諸侯へは免税でも補償金でも何でも約束してよかった。だがそれは出来ない。そうすれば西部諸侯をはじめ全ての者に示しがつかなくなる。「我らも戦災を被った。なぜ東部だけが優遇されるのか?」と言われればクルーミルは権力を大きく削る他にない。そうなれば、戦争に勝つことも、未来を描くことも不可能になり却って彼らの利益を損なってしまう。
「貴女は卑怯者です!それをどうして信じられましょうか!」
テーケルネトは頭に血が上るのを感じていた。全身の血が沸騰しているはずなのに真冬の夜のように寒い。自分は意味のないことを問うている。女王は指を動かすだけで自分の頭と胴体を造作もなく切り離し、領民を皆殺しにすることが可能だ。そんな人間に対して面と向かって非難を浴びせかけるのは、まともな判断ではない。そんなことは分かっている。だが、だが、だが。言わずにはいられない。殺すと言うなら殺せばいい。なんでもするがいい。こんな命に未練などない。テーケルネトは己が血から燃え上がるような怒りをぶつけずにはいられなかった。
クルーミルは足に力を込めた。突き飛ばされるような突風の中を立つように。
「その通り、私は卑怯者です。貴女の懸念は正しい。罪人は血を流さねばなりません。私は王の血を流します。私が得る力を、正しく用いることができるように王を縛る法を定めることをお約束します」
その言葉にボナパルトを除く全員が至近に落雷を受けた巨木のように慄いた。
王を縛る法。そんなものが存在しうるのだろうか?
「王を縛る法は大天幕で諸侯に定めていただきます。王すら従う法を定めるのです」
クルーミルの言葉は大きくなかったが、それは紛れもなく霹靂だった。統一王以来、法を定める権利は王に帰した。王の言葉が法であり、王を裁く法は無い。無論、王だからと言って無理を言えば臣下の反感を買い、実力で対抗される。それが事実上の王の力を縛るものであった。理屈の上では王が強大な武力を有していれば何者の制約も受けることはないのだ。そしてクルーミルは今、その「強大な武力」を有する存在である。
シノーが震えながら女王の言葉を伝えると、ボナパルトは静かにうなずいた。
クルーミルは歴史の大転換点を作ろうとしている。一度政治を変えたのなら二度と元には戻らない。一度転がり出したならどこまで転がるか誰にも分からない。なぜならこれは革命だからだ。始まったばかりだが、どこまで大きくなるか誰にも分からない。1789年のあの議員たちは自分たちが始めた革命が「ああ」なるとは予想しなかっただろう。平穏に落着するのか、それとも新たな戦乱と混乱の時代を招くのか。クルーミルは賭けに出ている。
それにしても、とボナパルトは感嘆する。それにしても、自分たちがこの世界に来て半年程度でこの国の歴史は大きく進もうとしている。フランスがこれにたどり着くまでに何百年かかっただろうか?……教えたわけではない。自分はクルーミルに対して統治論や政治論を説いたことは殆ど無かった。フランス革命のあらましすら彼女は知らないだろう。誰かが教えたのか?連れてきたフランス人の学者の誰かから聞いたのだろうか。議員のタリアンか?それともコンテか?その可能性は低い。彼女が導き出したのだろう。必要に応じて。だとするならば、歴史は植物が芽から順番に育って花になるように育つものではなく、種からいきなり花が咲くような、そんな早回しの、跳躍のような変化をするのだろうか……?
ボナパルトは首を振った。いずれにせよまだ何も始まってはいない。全てはこれからだ。
「私は自らを戒めましょう。この国の全ての民の為に尽くすとお約束します」
「どう信じれば良いのですか?どう信じれば?」
テーケルネトは暗闇の中を手探りで進むように問いかけた。欲しい答えなどない。圧倒的な強者を前に、確約も保障もありはしない。テーケルネト自身、欲しい答えなど分からなかった。女王が何と言えば自分は納得できるのだろう?おそらく何を言われても納得できないだろう。
「信じてください。誓約をしましょう」
クルーミルは手を挙げてアビドードに合図をする。扉が開かれると、質素な白衣を着た一組の男女が小さな銀の器を掲げて持ってきた。
「あれはなんだ」
ボナパルトが問うと、シノーは答えた。
「あれは白馬の血です」
「馬の血?」
「あれは誓約の儀式です。白馬の血に誓う人間の血を混ぜて飲むことで、精霊たちを証人にして誓うのです。……あれは決して背くことのできない誓い。死者でさえその約束には逆らえません。言い伝えにはあります。かつて戦場に旅立つ前に男が妻に生きて帰ると誓って血を飲んだと。男は戦場で死んだが、妻が盟を果たせ、と叫ぶと男は起き上がり、家まで帰ってそれから死んだと……」
シノーは琥珀色の瞳を大きく輝かせながら言う。
「……」
なんとも迷信じみている。とボナパルトは思わないでもない。現代的な法を定めようとする者たちが馬の生き血を啜るとは。
クルーミルが器を手にすると、全員は押し黙った。それほどまでに草長の人間にとってそれは神聖なものだった。白馬の血で誓いを立てるということは、いかに王でも無視しえない。それに背くということは一切の約束事がアテにならぬということだ。そうなったとき、権力を保っていられる人間などいない。
「ここで定めたこと全ての実現に向けて力を尽くすことを誓います」
全員が沈黙で応えるのを持って、クルーミルは腰にさげた短刀を取り出すと、鋼の刃で小指に小さな傷をつけた。一滴の血が器に落ちると、クルーミルはそれを一口飲む。そして短刀と器をテルマルタルへ渡す。そして、テーケルネトの元へ器が回された。
テーケルネトの喉が痙攣する。子供の頃、泣くと喉が痙攣して、言いたいことが言えなくなってしまった。女王に対して、これ以上できる事、言えることはない。自分が埒のないことを言っているのは承知している。
テーケルネトは明るい血に映った自分の顔を見た後、渡された短剣に映った顔を見た。この短剣で女王を刺せたなら。そうできないのは自分でも女王が正しいと思っているからに違いない。女王は優しいのだ。非礼を赦し、譲歩までしてくれる。だが……だが?それでも心から従う気にはなれない。
ふと、冷めてきた脳裏には領民たちの顔がよぎった。私情を殺さねばならなかった。
テーケルネトは迷いを断ち切るように自らの小指に傷をつけた。
最後にネーヴェンに器が回される。水面に映る顔に笑みは消えていた。
あの小娘の言葉は政治家としては幼過ぎるが、気持ちは文字通り痛いほどわかる。失われたものは二度と戻らない、心に空いた穴は何かで埋めない限り決してふさがることはなく血を流し続ける。
ネーヴェンは血を飲み干す。女王の血の味がした。この血を息が詰まるほど飲めば心の傷はふさがるのだろう。誓約は結ばれた。




