第九十七話 偉才
王都への帰還から数日してボナパルトとクルーミルは王都から南、クルーミルの私領の村に来ていた。
クルーミルが目指す改革を実施する第一段階として各階級の有力者を招いて事前交渉を行うためであり王都を離れたのは集まりが非公式のものであることを意味した。
二人が乗る馬車も簡素なもので向かい合って座れるような大きさはなく、ボナパルトとクルーミルは横に並んで座り、ここ数日推敲を繰り返している改革案を記した書類を覗き込んでいる。
供回りをするのも主要な部下ばかりがニ十騎ばかりと護衛は少ない。これはこのあたりの治安の良さの顕れでもある。
「迂遠な事を」
とボナパルトは思わないでもない。諸侯が逆らおうがどうしようがクルーミルは改革を実施すると決めている。する、しない。を話し合うのではない。するから認めろ。という話をするのだ。ならば最初から奇襲攻撃のごとく全諸侯を集めて宣言してしまえばよい。相手に反対の隙を与えず一気に政策を成立させてしまうのだ。
「それでは意味がありません」
不満を唱えるボナパルトにクルーミルは苦笑で返した。戦争ならば奇襲して相手を殴りつけ、反撃の隙を与えず叩き潰せるだろうが政治はそうはいかない。クルーミルが対峙するのは敵ではなく味方であり叩き潰すというわけにもいかないのだ。
「もう少し草案を詰めましょう」
クルーミルに促されてボナパルトは書類に目を落とした。有力者たちが集まるにはまだ二、三日かかる。それまでにできる限り考えを纏めなければならない。
◆
馬車は宿泊宿であるクルーミルの私邸へは行かず、村の郊外にある工房で足を止めた。
赤い煉瓦造りの重厚な建物は人口五百人余りの村にしては異質な存在感を放っているが、フランス風の建築物であることがさらに周辺から浮いた雰囲気を醸し出している。
「陛下」
馬車を護衛していたノルケトに扉を開けられ二人は降り立つ。二人を出迎えたのはフランス人、コンテだった。赤黒い顔をしているのは溶鉱炉か何かに付きっ切りでいたせいだろう。その横にいる男にボナパルトは見覚えがなかった。
「お待ちしておりました」
「コンテか。お前はどこにでも居るな」
「世界に必要とされておりますので」
「結構なことだ」
「中にお入りください。工房は全力で稼働しております」
招じ入れられた工房の中には工作機械とそこから吐き出されたのであろう紡績機、織機、印刷機、圧搾機、脱穀機に播種機……が並んでいる。
「民生品か」
「その通りです閣下。『剣造りの市』や『川辺の都』では軍需品を作っていましたが、ここでは民需用の道具を製造しています。まあ、"ちょっとした"余技ですよ」
コンテは子供のように片目を閉じた。
「お前に作れないものはないな。あと五万人ばかり兵隊も作ってくれると嬉しいのだが」
「費用と時間さえ頂ければ」
自分の冗談に冗談を返したのか、本気で言ったのか区別がつかなくてボナパルトは水を浴びせられた猫のような顔をした。
二人の横ではクルーミルの傍にグルバス人の職人頭が興奮を抑えきれないといった面持ちで控えている。
「素晴らしい道具ですね、セムケさん」
セムケ、と呼ばれた職人頭の男は曲がった腰と鷲鼻の持ち主で初老を過ぎようかという歳だが買ってもらった玩具を見せびらかす子供のような口調で女王にまくしたてた。
「女王陛下が招聘なさったフランス人技師たちはたいした連中です。俺たちの知らない仕掛けを次から次に拵えてみせました。こういう道具を使えば毛織物も作物もそりゃあ増えるでしょうナ」
組みあがったばかりの機械を我が子のように撫でまわしながらセムケは続ける。
「機械というのは試行錯誤の繰り返しです。図面を引いても実際に組み立ててみないと分からん事も多い。でも、機械を作るのは莫大な金がかかる。使い物になるのかならないのかよくわからん代物に大金をはたくヤツなんか滅多にいないもンですから、機械の進歩はゆっくりしとるわけです。歯車一個付け足す、釘を一本増やすか減らすか、そんな違いに気づくのにも何年もかかる。我々はそれをぐーっと飛ばしたわけです。ひよっこの見習い職人がいきなり熟練工になったようなモンです。今日は連中の道具を模倣するのが精いっぱいですが見ててください。連中は俺らに道具を作らせた。作り方は、もうわかっとります。何年かすれば連中の道具の改良版を俺たちが作るでしょうから」
「期待していますよ。ここで作られる機械は民を豊かにしてくれるでしょうから」
クルーミルがそう答えると、セムケは口を大きく開けて笑った。
「で、この工作機械はどうするの」
ボナパルトが入れ替わるようにクルーミルに問いかける。
この世界に来て早々、ボナパルトは資金調達の一環としてフランスから持ち込んだ知識を売りに出すことにしていた。とはいえ、それはあくまで知識として頭に入るだけのもので、実際にそこから金を生み出す道具を造り出すとなると資金や土地、労働力等を手配する必要がある。どこの馬の骨ともわからない技術にそれらを投下するのはかなりリスクがあり商人たちも二の足を踏んでいる。それを最初にやったのがクルーミルだったのだ。
「まずは私の領地で使ってみます。有用性が知れ渡ればそのうち他も模倣するようになるでしょうから」
「お金、かかったんじゃない?」
「返すアテがあるならお金を借りるのは悪い事ではない、そう思いませんか?」
「……」
ひょっとしてこの人は借金女王なのではないか。ジョゼフィーヌといい、クルーミルといいどうして自分の傍にいる人間は借金をして堂々としているのだろう?とボナパルトは眉を曲げた。
「それはそうと、コンテさん。あの子はどこにいますか?」
クルーミルはボナパルトの怪訝な視線をかわすように話題を転じる。
「ああ、あの子ですか。すぐ呼んできますよ」
「あの子って?」
「新しい通訳です。もっと早く手配するはずだったのですが、時間がかかってしまいました」
「ああ、そう。通訳は幾らでも必要よ」
◆
少しして現れた物体を見てボナパルトは眉を折り曲げた。その人物は車椅子に乗っていたが、椅子というよりは歯車の集合体のようで、鎮座する人物はその付属品の機械人形のように思えてならなかった。ここに並んでいる工作機械たちも手伝って、工具の一種にすら見える。
長い栗色の髪とシルエットから女性であるのは疑いなかったが、全体的に発芽野菜を思わせる線の細い身体に日光を浴びずに月光だけで育ったような肌が張り付いていて虚弱を擬人化したような姿だった。そういう不健康そのものの身体をしていながら、瞳と表情は生気に満ちている。
「まるで別人の頭と身体をくっつけたようだな」
というのがボナパルトの第一印象だった。
「お目に書かれて光栄です」
虚弱そうな体の期待にたがわぬ、か細い声だったがボナパルトは目を見開いた。声に対してではなく、彼女が完全な発音のフランス語を話した事に対して。
ボナパルトが思わず横を向くと、クルーミルがいたずらを成功させた子供のように笑って補足した。
「私の侍女、スーイラの従姉です。彼女の一族は信用置けます。それに、とても博識で有能だと聞いています」
そう聞いてボナパルトは腕を組んだ。クルーミルがそう言うのならそうなのだろう。第一級の能力が必要なのは勿論、知り得る情報を外部に漏らさない忠誠心も欠かせないのだ。
「シノーと申します。アテナとお呼びください」
「矛盾したことを言うな。アテナだと?」
その疑問はシノー、あるいはアテナの横に立っているコンテへ向けられた。
「我々の世界の名前が欲しいというので聡明な彼女に相応しい名を差し上げました。ここ何日か接しましたが、彼女は天才ですよ」
コンテは胸を反らした。
「ボナパルト様のお話はかねてより聞き及んでいます。戦いの精霊に愛されたお方。雷剣のバルガールの生まれ変わりのような英雄のお役に立てるのは私の幸いです。非才の身ですが何なりとお申し付けください」
「フランス語が喋れるのは分かった。読み書きのほうは?」
「一通りはできます。精霊を介すれば細かい部分まで。フランス語のほかには西方交易語を完璧に。西方兵語、精霊神官語、古王国語ができます。東方帝国語は日常会話レベルに。あとは…神聖馬語が読めます」
この世界には最低でもそれだけの言語がある。そして、その中に自分たちが知る国の言語が一つもない。ということをボナパルトは看取した。
「その点は私も保証します。驚くべき事ですが、数回話しを聞いただけで彼女はフランス語を理解してしまったのです。まさに天才です」
コンテが付け加える。なるほど、この天才を以てしても天才と二度も呼ぶにふさわしい人間らしい。
「フランス語ができるならそれでいい。いろいろ喋れるのは分かったが体力のほうはどうだ。私の部下になるなら昼夜を問わず働くことになる。持つのか?その身体で」
「持たせます」
シノーは断固とした口調で答えた。
「体は御覧の通りですが持たせます。少しでも務めを果たせない時は命を以って償いましょう。どうぞお傍に置いてください」
「療養したほうがいいように思える。不相応な事をすれば寿命を縮めるだぞ」
こうして会話をできる程度にはフランス語に通じ、コンテが認めるほどには天才であり、クルーミルが推薦するほどには忠誠心にも問題ないのだろうが結核患者のようにか細く見えるのが気がかりだった。
「駄馬として永らえるより駿馬として斃れるべし。とあります。私は生まれつきこの通りで書庫に籠って生きてきました。何かをして死にたいのです」
シノーの焼けた夕日のような瞳が煌々とボナパルトを射抜いていた。
「そうまで言うなら使ってやる。駄馬でも駿馬でもなく農耕馬のようにな。死んでも休めると思うなよ」
ボナパルトがその燃え尽きた灰を思わせる青灰色の眼差しで短剣を突き付けるように言うとシノーは笑った。
「コンテ様から聞いた通りのお人で嬉しいです。どうぞ使ってください」
ボナパルトはもう一度コンテのほうを見た。
「お前は私をなんだと思ってるのだ?」
「聞いての通りです」
コンテは悪びれもしなかった。