第九十六話 王の懐刀
夜も更けてきた頃、女王の侍女であるスーイラは主の執務室に温かい茶と菓子を運んだ。クルーミルとボナパルトは互いに手を繋ぎ、熱心に二人だけの会話をしているようだった。クルーミルは入ってきたスーイラを一瞥すると視線をボナパルトのほうへ戻す。ボナパルトに至っては、スーイラの存在など初めから無視しているようだった。
スーイラはクルーミルの大切な侍女であると同時に良き相談相手でもあり、遊び相手である。しかしそれは二人きりの時の話であって、クルーミルが誰かといる時、スーイラは女王の手足の延長に過ぎない。テーブルに茶と菓子を置くと、スーイラは猫のように足音も立てず部屋を出た。
◆
部屋を出るとスーイラは呼び止められた。声の主はクルーミルの側近の一人ニッケトである。
「スーイラ。陛下はまだボナパルトと話されておられるか」
「はい。左様です」
「別段変わった事はないか」
「ございません」
スーイラは気づいた事について何も言わなかった。
「ならばよい。近侍の控え間の暖炉に火をいれているか?もし薪を節約しているのなら、遠慮はいらぬゆえ火をいれろ。今日は冷える」
「はい。お心遣い感謝いたします」
スーイラは一礼するとそのままニッケトの横を通り過ぎて控え間の扉をわずかに開けて身を滑りこませた。
◆
スーイラが控え間に消えていくのを見届けた後、ニッケトは踵を返して反対方向にある扉を開けた。
碧の間と呼ばれるその部屋には既に人が居て、彼を待っていた。
「久しぶりだな」
そう言って白い歯を見せるのはニッケトの双子、ノルケトだった。背丈から顔立ち、目の色に耳の形まで二人は鏡を見るように同じだったがそのパーツの動かし方は正反対と言ってよい。
「無事で何よりだ」
ニッケトの声は抑揚を欠いていて他人が聞けば不愛想だと思うに違いないが、双子にはそれで十分だった。
「叔父上も戻っておられたようでちょうどよかった。三人が揃うのは久しぶりだからな」
そう言ってノルケトは席に着くように勧めると葡萄酒を注いだ。席には既に、二人の叔父であるアビドードが座っていた。
「ボナパルトは鉄のヴィオスと盾のグーエナスを倒したそうだな」
葡萄酒を一息で飲み干すと挨拶もそこそこにニッケトは本題に入った。
「お前から見てボナパルトはどう見えた?」
「まさに戦いの精霊に愛された人だな。味方として頼もしい限りだ」
ノルケトは身を乗り出すと舞台俳優さながらに身振り手振りで戦いの様子を二人に伝えた。
「……ただ一つ気になることもある。ボナパルト殿は臨機応変の人だ。蹄鉄砦の戦いの最終局面、あの人は判断を変えた。敵を殲滅するように見せて土壇場になって降伏を受け入れたのだ」
ニッケトの眉がわずかに上がった。
「状況が変われば行動も変わる。それは道理だ。だがどうにも俺にはそれが引っかかる。利があるとみれば態度を変える事になんの躊躇いもないようだった」
「……だからこそ、お前が傍にいたのであろう」
「それはそうだが」
ノルケトがボナパルトと行動を共にしたのは女王の代理として、というのが表向きであるが別の面にはもしボナパルトが裏切りを図った時、その場で暗殺するためでもあった。無論、ボナパルトを殺せばノルケトはボナパルトの部下によってその場で殺される。しかし逆に言えば殺される事を受け入れればボナパルトを暗殺してしまう事は可能なのだ。
「ボナパルトはしょせん利害でくっついているだけの人間だ。信用ならん。……陛下は厚く信頼しておられるようだが、困ったものだ」
ニッケトはアルコール混じりの溜息を吐き出した。
「お前の懸念は分かるがな。ボナパルト殿は今の我らにとって欠かせぬ戦力であるし、数々の戦いで大功を立てている。むやみやたらと疑いの目を向けて、礼を欠くような事があってはならんぞ」
アビドードの言葉は静かだったが重い響きと鋭い眼光とがニッケトの首を押さえつけるようだった。
「それは承知しております。しかし警戒は怠れません。今や陛下の周りには日和見主義の諸侯と金勘定しか知らぬ商人どもばかり。忠誠心で王室を支える藩屏は我らのみです。我らには陛下を守り通す義務があります」
だというのに、と区切ってニッケトは葡萄酒を注いだ。
「陛下は我らではなく、他の者たちを重んじようとなさいます。それが残念だと言うのです」
「我らは十分重用されている。私は陛下の代理として諸都市を巡り徴税と裁判の一切を担っている。ノルケトは戦場にあって陛下の代理を務めた。お前自身も二十歳そこそこの若輩の身でありながら祐筆を務め、この度は書簡を検める部局の長になったというではないか」
「今はそうです。ですが陛下のなさること、なそうとすることを伯父上もご承知でしょう。異国の傭兵を恃み、今また諸侯を積極的に政治の場に引き入れようとしておられる」
クルーミルが構想している政治改革は側近である二人にはクルーミル自身が明言せずともおおよそが掴めていた。
「それが陛下の御意ならそれに従う他ない」
「叔父上は統一王から親任を賜った最後のお一人。陛下の元でより強大な権限を持ち、お支えしてしかるべきではありませんか。なんのために一生を捧げられたのです」
ニッケトの顔は酒気に耳まで赤くなっていた。
「私は既に過分な身分をいただいていると思っている。そう、お前が言うように私は今は亡き統一王から女王の教育係に任ぜられた。……もう二十年近く昔の話になる。私がまだカシナドと名乗っていた頃だ」
アビドードはさらに酒を注ごうとする甥から器を取り上げるとそのまま口をつけて飲み干した。
「私は歯も生えそろわぬ生まれたばかりの姫様に跪いて臣従の誓いをたてた。あの日のことを今でもはっきりと思い出せる。世界を統べた偉大なる王は一介の騎士に過ぎなかった私に膝を屈して言った。『どうか娘を守り通してほしい』と。そう仰せになった」
アビドードは緑色の瞳を細めた。遠い過去の出来事の数々が鮮明に思い出される。美しい金髪と燃えるような瞳を持った利発な少女の姿が目に焼き付いている。王との誓いは二十年の歳月と数多の試練によって鍛え上げられている。
アビドードとはグルバス語で王の懐刀を意味する言葉である。
「姫様の御心が成されることが全てだ。私的には姫様の意志はすなわち私の意志だ。公的には姫様には王国の全ての民と土地を支配する権利がある。この国をどうするも姫様の御心一つだ。それに異論をはさむというのであれば、私はお前を斬らねばならん」
「……」
ニッケトは叔父の鋭い剣の切っ先のような表情を見てそれ以上の抗弁をやめた。
「叔父上もニッケトも酔っているな。女王陛下にお仕えする忠臣同士、血を分けた同族同士がいがみ合ってどうする。水を持ってくる。冷たい水で顔を洗って喉をうるおせば目も覚めるだろう。俺の無事を祝ってくれ」
ノルケトの言葉に二人は顔を見合わせて、責任を酒に押し付けるように苦笑を浮かべた。彼の言う通りだった。
祐筆:貴人のそば近く仕え物を書く役。書記。