第一話 彷徨う鷲(表紙絵付)
人名など史実をベースにしていますが基本的には全く架空の歴史ファンタジーモノとしてお楽しみください
1798年6月22日
満天の夜空の下、月明りに照らされたの地中海を大船団が純白の帆に風をはらませて進んでいる。国家の命運と威信をかけ、技術の粋を尽くして建造された鯨のように巨大な戦列艦。俊敏な動きで艦隊の目となり耳となる小型のブリッグ船やスループ船。戦闘用艦艇から輸送船まで多種多様な数十隻の船が海原を埋めている。
それら船団の中でもひときわ大きな艦がある。名をロリアンと言う。その名の意味は「東方」全長約六十五メートル。三本のマストを持ち、百十八門もの大砲を持つその姿は船というより移動する巨大な要塞というのがふさわしい。その巨体を誇るロリアンの豪華な司令官室にこの大軍勢の中でもひときわ背の低い人間が混じっていた。
最上級の木材で出来た机の上に軍用ブーツを履いたままの足を乗せ姿勢悪く腰かけているその人物は、雨に濡れた捨て犬を思わせる癖のある黒髪と異様にぎらついた青みがかかった灰色の瞳の持ち主。名をナポレオン・ボナパルトと言う。
ボナパルトは遠征のために仕立てた真新しい軍服の袖をぶらつかせながら、窓から船団の立てる波で切り裂かれた海原を眺めていた。
「まるで追放だ」
ボナパルトは陰気そうな笑みを浮かべて、独語した。フランス共和国の東方軍。十五の半歩兵旅団と七個の騎兵連隊、二十八個の砲兵・工兵大隊に非戦闘員約千名から成り、選りすぐられた学者たち約百五十名が加わる総計約三万三千人を数える巨大な軍勢を率いる最高司令官。そう言えば聞こえが良いが、要するにフランスから遠ざけられたのだ。
ボナパルトは口をへの字に曲げた。
自分はトゥーロンで革命軍のために戦った。パリで、民衆に向かって大砲を撃って革命政府を護った。靴も満足に履いていないボロボロの軍隊を率いてイタリアに攻め入り、フランスの敵をことごとく打ち破り、巨万の財宝をパリに送った。その報いがこれか!
思えば、自分はどこへ行っても除け者だった。生まれ故郷のコルシカ島にいた時からそうだ。故郷の独立の英雄を裏切った卑劣な男の子供だ、と島の人間に後ろ指を指され続けた。"あいつはフランスかぶれ、卑怯者の子供だ"と。軍事を学ぶため、島を出てフランスの学校に入れば今度は真逆のことを言われた。"フランス語も満足に喋れない辺境の島のよそ者め、出ていけ"と。自分の居場所などどこにも無かったのだ。
権力が欲しい。自分が立ち続けるための力が欲しい。そう願って遮二無二戦ってきた。そしてフランスの民衆から英雄と呼ばれるに相応しい功績を打ち立てた。これで自分にも居場所が出来た。そう思っていた。
しかしそんなのは全く的外れだった。フランスの革命政府のお偉方はあまりにも功績を立てた自分を恐れた。"こいつが、民衆と軍隊からの人気を背景に自分たちに取って代わる気ではないか……"軽蔑の眼差しが怖れの眼差しに変わったに過ぎない。そして彼らは自分を名誉ある遠征軍の司令官という立場で追い出す事にしたのだ。あわよくば、戦死することを期待しながら。
面白い。それならそれで逆手に取ってやろう。この大軍を以て大征服を成し遂げ、比類ない自分だけの帝国を打ち立ててやろうではないか!
ボナパルトは思考の水面から浮上すると、悪魔のように口角を釣り上げてみせた。
「ボナパルト司令官! 大変です。すぐに甲板上に来てください!」
「わあっ!?」
唐突に部屋に飛び込んできた士官が息を切らせて叫ぶとボナパルトは驚きのあまり椅子からずり落ちた。
「この馬鹿! 部屋に入る前にノックしろ! 何事だ!」
「失礼しました。 ブリュイ提督が至急報告があると」
「なら提督に来させろ。なぜ私が行かねばならん」
ボナパルトはふてくされた子供のように答えた。
「司令官閣下に空を見ていただきたいのです。来てください!」
空ぁ? とボナパルトは訝しんだが、出向くほかなかった。
ロリアンの甲板に上がると水兵たちが慌ただしく動き回っていた。
「ブリュイ! 報告しろ! なんだ。何事だ!」
ボナパルトは顔を上げて自分よりはるかに背の高い男を呼びつけた。ブリュイ提督は船団の最高責任者である。
「はっ、司令官閣下、星空をご覧ください」
ブリュイ提督は腰を曲げて自分の司令官にそう告げた。
ボナパルトはしぶしぶ空を見上げる。
「美しい夜空じゃないか。昼間の霧が嘘のようだ。何が不満なんだ」
「星の位置が違うのです。コンパスをご覧ください。針が定まらずぐるぐる回って用を成しません。我々は現在位置を見失いました」
「なにをバカなことを言っている」
ボナパルトはブリュイに差し出されたコンパスを見つめた。針は北も南も指さずぐるぐると一人でに回転している。
「エジプトに着けるのか?」
「分かりません。エジプトどころかフランスに戻る事さえおぼつきません」
「なんだと……」
「ともかく一度、どこかに上陸して水と食料を補給しなくてはなりません。特に飲料水を確保しなければ我々は渇きで全滅です」
「むむむ……やむを得ないか。よし、どこかに上陸しろ」
「承知しました」
「一体なぜこんなことになった……?」
ボナパルトは黒髪をわしわしと搔きまわしながら司令官室へと戻っていった。
◆
司令官室に戻ると男が一人待っていた。まだ若く、どこか子供らしい面影が残る中性的な顔つきだった。
彼の名はウジェーヌ。ボナパルトが先日結婚したジョゼフィーヌの息子であり現在はボナパルトの副官として遠征軍に参加していた。
「お帰りなさい義父上」
「ウジェーヌ。なんの用?」
ボナパルトはめんどくさそうに上着を脱いでウジェーヌに押し付けた。
「なにか大変なことが起きているようですね」
「ウジェーヌ。こっちに来い」
「はい」
ボナパルトはウジェーヌを呼びつけるとその腹に自分の頭をぐりぐりと押し付けた。
「お前は母上とよく似た匂いがするわ」
「そうでしょうか」
「ああ。朝になれば陸兵も将軍たちも騒ぎ出す。早く陸が見つかるといいんだけど」
「義父上」
「なに」
「女性を義父上と呼ぶのにはやはり抵抗があります」
「私は公式には男という事になっているの。つべこべ言うな」
「はい」
ナポレオン・ボナパルトは女である。そのことは一部の将軍たちしか知らない極秘の事であった。
◆
翌朝、ボナパルトは朝いちばんにウジェーヌから良い報告を聞いた。
「義父上、ブリュイ提督が陸地を発見したそうです」
ボナパルトは淹れたてのコーヒーを啜りながら上機嫌になった。
「よし。これでとりあえず餓死は免れそうね。エジプトに着いたのかもしれない。ウジェーヌ、将軍たちを会議室に集めて。三十分したら行く」
「承知しました」
「ブリュイめ。余計な要らぬ心配だったではないか」
ボナパルトはコーヒーをすすりながらそう呟いた。
三十分後、会議室には多くの将軍たちで溢れている。
「諸君。そろったな」
ボナパルトがややサイズの合わない軍服の袖をぶらぶらさせながら姿を現す。遠征の前に仕立てさせたそれは、本当は身体にぴったりと合うはずなのだが、小柄なボナパルトは「まだ成長の余地がある」と言い張ってわざと仕立て屋に大きめに軍服を作らせている。しかし成長することはなく、結局サイズが合わずに不格好になってしまった。パリで指折りの仕立て屋はそのことに不満だったが、ボナパルトは特に身なりを気にしなかった。
「ブリュイ提督、陸地があるそうだな」
「はい。上陸に適した浜辺がありました。しかし、ここがどこであるか定かではありません。ギリシャかクレタあたりに流れ着いているのかもしれません」
「現在我々は長き船旅で水、食料が底をつきつつあり、兵士たちの健康状態も良くない。ここが目的地エジプトであるかどうかは定かではないがとりあえず上陸して物資の補給を行う。一時間後には上陸だ。私が直接指揮を執る。諸将は準備にかかれ」
集まった面々から一斉に安堵の溜息が漏れた。
将軍たちも長い船旅に嫌気がさしていたのだ。兵士たちの不満はこれより大きいだろう。
「閣下自ら最初に上陸するのですか? 状況が分からない状態で少し危険ではありませんか」
将軍の一人が立ち上がって発言した。すらりとした長身に温和そうな顔つきをしている。
「ドゼー。状況が分からないからこそこの目で見る必要がある。ミュラ、ランヌ、ベシエールは私の護衛につけ。ブリュイ提督、私が不在の間残留部隊を統率しろ。万一の時には貴官の判断で行動しろ」
「承知しました」
それぞれ名前を呼ばれた者たちが立ち上がり、一礼して退室していった。
◆
かくして一万の兵士がその「陸地」の砂浜に上陸した。
砂浜は広く兵士たちは久しぶりの大地にキスして喜んだ。その中にはボナパルトの姿もある。
「くそっ、くそっ、ブーツに水が入った」
ボナパルトは悪態をついた。遠征のために仕立てたばかりのブーツである。上陸用の小舟から砂浜に降り立った時に姿勢を崩したせいだった。
「閣下、全部隊無事に上陸できました。損害はありません」
じたばたしているボナパルトに駆けよって参謀長のベルティエが報告した。ボナパルトよりは頭一つ背が高いが、諸将の中では小さいほうである。
「よし。偵察を出せ。ここがどこなのか把握しよう」
「それなんですが、あれを」
ブーツに入った水と砂利の不快感に顔をしかめるボナパルトにベルティエが指差す。
その先には小高い丘があり、その頂からこちらをうかがう人影がいくつか見えた。
「現地住民か。連中にここがどこだか聞いてみよう」
ボナパルトは護衛を連れて丘のほうへ砂浜を上がっていき声を張り上げた。
「我々はフランス軍だ! 諸君らに自由と平等をもたらしに来た。君たちに聞きたいことがある!」
ボナパルトは自分が言った言葉に心の中で但し書きをつけた。「私が許可する範囲での」自由と平等ではあるが。と。
人影が少し動き、しばらくして返事が返って来た。
しかしそれは全く聞いたことが無い言語でありボナパルトと一行は首を傾げた。
「なんだ、あいつらは何を言ってる?」
「分かりません。フランス語でないのは確かです」
ベルティエが答えた。
「通訳と従軍してきた商人を呼べ。とにかく何でもいいから呼びかけろ。我々、フランス、軍、友達、質問、ある。だ。聞け」
ボナパルトは口をへの字に曲げる。
「面倒ですから、登って行って捕まえてみましょう。持ち物から何かわかるんじゃないですかね」
護衛についていたミュラがボナパルトに囁く。ミュラは背丈が高く、見栄えが良い男である。
「待て、こちらはまだ上陸した兵が少ない。兵が整うまで迂闊に動くな」
ボナパルトはミュラをひとにらみして制止した。
しばらく、双方の間から叫び声が上がった。互いが互いに向かって叫ぶのだが、お互いどちらの言っていることも理解できていない。そんな不毛な応酬をかれこれ一時間ばかり繰り返した。
そうこうしている間にも船団からぞくぞくとフランス兵が上陸し浜辺はフランス兵と彼らが持ち込んだ装備でごった返しはじめる。
丘のほうにも動きがあり、最初数人だった人影はいつの間にか数十人になり数百人へと増え始めていた。
「兵が揃ってきました。蹴散らしますか」
「無用の騒ぎを起こす必要はない」
ミュラの問いかけにボナパルトはぶっきらぼうに答えた。
ボナパルトはベルティエに望遠鏡を持ってこさせるとそれを覗き込んだ。相手の人数は丘の上に見えるだけで数百人。裏にはもっといるかもしれない。彼らの武装は槍やサーベルのようなものが見え、制服らしいものは着ておらず軍隊というよりはそこらの農民か町人が物珍しさに集まっているように見える。
「どうしたものか」
ボナパルトは腕を組んだ。
すると向こう側から数人進み出てくるものがあった。
「来たぞ」
ミュラがサーベルを抜こうとするのをボナパルトは押さえつけて静止した。
「待て。相手は丸腰だぞ」
「はっ……ん、あれは。おや、閣下、近づいてくるあれは女です。しかも美人だ!」
ミュラはサーベルを収めるとそう言う。
「美人? 美人が何の役に立つというのだ……?」
ボナパルトはぼやく。
やがてその女はナポレオンの目の前にまでやってきた。光るように見事な長い金髪をなびかせた、大きく燃えるような赤い瞳の女で、しばらく洗わず脂でぎとついた、雨に濡れた捨て犬のような癖毛に青みがかった灰色の瞳を持つボナパルトとは対照的だった。
背丈もやってきた女のほうはすらりとした長身なのに対し、ボナパルトはその肩ほどもない。
「言葉が分かるか?」
ボナパルトは問いかけた。
返事はなく、代わりに腕がしなやかに伸びてきてボナパルトの手を取った。
「何っ」
咄嗟に振り払おうとした瞬間、ボナパルトの内側に声が響いた。
「私はクルーミル。貴女は誰ですか」
「これはなんだ。私に何をしている?」
「貴女に聞いているのです」
ボナパルトはすっかり固まってしまった。周りの部下たちもやってきた女と手をつないで硬直している司令官を不安そうに眺めるばかりで呆気に取られていた。
「貴女は誰?」
「私はナポレオン・ボナパルト。クルーミルと言ったな。ここはどこだ。ギリシャか? アフリカか?」
「ここは私が治める民の住む、誇り高き『草長の国』あなた方は何者ですか。どこから来たのですか」
「『草長の国』? 聞いたことが無い。私はフランスから来た」
「フランス? とはどこですか」
「フランスはフランスだ。海の向こうから来た。『草長の国』とは一体どこなんだ」
「海を越えて? あの『日の住む大河』の向こうから?『草長の国』は偉大なるグルバスの王が治める土地。我が治める民の住む土地。我らが生き、死ぬために天造神に与えられた……」
「一旦やめてくれ。君に触れていると考えが通じるようだな」
「はい」
「私以外の者でも同様か」
「はい。私が触れた者は私と意思の疎通ができます」
「どういう原理なのだ。心を覗いているのか?」
「『精霊』が私に伝えてくれるのです。私に分かるのは相手が私に伝えたいことだけ。会話しているのと同じです」
「そうか……」
「貴女たちはどうしてここに来たのですか?」
ボナパルトは一瞬躊躇った。自分たちがわけもわからずここにやってきたことを正直に話すべきだろうか?得体の知れない相手に自分たちの弱みを見せるわけにはいかないのではないか。
「その前に君の事を聞かせてくれ。クルーミル。先ほど「我が治める民の住む土地」と言ったな。君は後ろに控えている連中を支配しているのか? 君はこの土地の支配者なのか?」
「その通り。私は彼らの王です」
不用心な奴め。とボナパルトは内心呟いた。王がのこのこ出向いてきてなんとするのか?捕まえるべきか。いや、本当にこの女が王かどうか分からない。危険すぎる。
「貴女の背後にいる者たちは? 貴女は彼らの王なのですか?」
「……そうだ。彼らは私の兵隊だ。私は王ではないが、彼らは私に忠実な者たちだ」
「まあ」
クルーミルはその見事な金髪を揺らし、赤い瞳を見開いて驚いたようだった。
「恐れる必要はない。我々は敵対しにきたのではない。君たちと取引したい。水と食料を求めてきた。クルーミル、女王と呼ぶべきなのか。我々に水と食料を分け与えてはくれないか。もちろん対価は支払う」
クルーミルの表情は曇った。
「『日の住む大河』から来たりし人。貴女の力になれるものならそうなりたい。ですが、私は今や土地を追われ、力なき王。我々は何一つ持たないのです」
「では……」
クルーミルは一呼吸おいてボナパルトの手を強く握りしめた。
「ナポレオンボナパルト殿、私に力を貸してくれませんか!どうかこのクルーミルに力をお貸しください!力を貸していただけるなら、貴女の望むものを差し上げましょう」
◆
「……話をまとめると」
ベルティエは沈痛そうな面持ちでボナパルトを含める諸将の前で言った。
「ここは我々の全く知らない未知の土地です。通訳も商人も、連れて来た学者もここがどこだか全く見当がついていない。喋る言語も全く分からない。彼らはここを『草長の国』と呼んでいるということだけが確かです。彼らはフランスもアフリカもエジプトも、我々が知っているあらゆる国の事を全く知らない」
「まるで別の星に来たみたいだ」
ミュラがサーベルをかちゃかちゃと弄りながらぼやく
「あそこにいる連中は『草長の国』なる国の人間を自称し、ここにいるクルーミル殿……がその女王である。と」
ベルティエはせわしなくメモを取りながら続ける。
「それで、『草長の国』は今現在、クルーミル殿の兄が治める隣国の『斧打ちの国』とやらと戦争状態にあり、クルーミル殿は敗北し、都を追われ僻地であるこの海岸まで落ち延びてきた。と」
「美女の危機に駆けつける騎士のごとく現れたのが我々というわけですな!」
ミュラが付け加え、ベルティエはそれを無視した。
「で、クルーミル殿は我々に国を取り戻す手伝いをするよう求め引き換えに水と食料を提供すると言ってきている。そういうわけですな総司令官閣下」
「そうだ」
「危険な取引ではありませんか」
「選択の余地はない!」
ボナパルトは声を上げた。その声は大きくはないが、電流が走るような鋭さをもっていた。
「我々は少なくとも三日以内に水と食料の補給を必要とする。食料はまだしばらく持つだろうが、水の不足は深刻だ。この見知らぬ土地でそれを得るには彼らの協力は必要不可欠だ。我々は生き延びるため、当面の間、彼らに協力する!」
ボナパルトは自慢の二角帽を深くかぶり上陸した部隊を点検するために歩き始めた。