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烈華 ~乱世を駆けた鬼姫~  作者: つむぎ舞
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黒雲

 なつとゆうと三人で槍の稽古に励んでいた森せんは、夫長可に突然馬場へと呼び出され、何事かと来てみれば、目の前には三頭の黒みの強い毛並みの馬、『甲斐の黒駒』ともよばれる立派な馬が、馬商人に引かれそこに並んでいた。

「長可様、馬を買われるのですね」

「そうだ。せん、これはお前の乗馬になる。自分で選んでみるか?」

「私の馬なのですね。長可様、嬉しゅう御座います」

 目を見開いて童の様にその事を喜ぶせん。


 自分の目の前で緩んだ顔を何とか整えようとする夫長可の姿がなんとも可愛らしく、つい吹き出しそうになった。

 さて、意気込んではみたものの、遠目に眺めたり直に触れてみたりはしたが、実際どう馬を見分ければ良いかが自分には分からない。

「こうやるのだ」

 見かねた夫長可が腰の刀を抜いて三頭の馬に近づくと、一番左の体の少し小さな雌馬がその刃に怯えたのか、後ろに少し退がったのである。

「刃に怯える馬は戦場では使えぬ。動じぬ二頭から選ぶがよいだろう」

「そういうもので御座いますか」


 夫長可の「戦場では使えぬ」との助言は、せんにとっても重要な言葉だった。

 買い手の付かぬ馬を見抜かれた感じたのか、馬商人も残念そうな顔をしている。

 そういう事ならばと森せんの関心は残りの二頭にだけ注がれ、また思案を長々と繰り返した。


 刃に怯えると聞いてか、ふいにゆうが肩に担いでいた槍を馬達の方に向けると、一番左の小さな馬だけがゆうを警戒する様に動いたのである。

 森せんが気に止めたのは、その馬、先程刀を向けられた時よりも大きく退がり、ゆうが槍の穂先を天に向けると、逃げた位置に留まらずに再び元の並びに自ら戻った事。

 気のせいか?とも思ったが、森せんはどうしてもそれが気になったので、夫長可の刀を借りて、一番左の少し小さな馬に一人近づいたのである。


 森せんが刀を構えたまま一歩、二歩と前に出るとその馬もそれに合せて後ろに退がり、今度は彼女が後ろに退がると、その馬はその分前に出てくるのである。

「長可様、この子面白い」

「その臆病な馬が一体どうしたというのだ」

「この子、刃に怯えてなぞいませぬ。

 それどころか、これが危険なものだと理解して一定の間合いを自ら保っているのです。

 この子に比べたら他の二頭はただの無頓着か、まだ刃の怖さも知らぬ赤子の様に私は感じます」


「そんな馬鹿な事が、その様な話は聞いたこともないぞ」

「いいえ、私決めました。この子にします」

 せんがそう言うと、森長可はそれに異を唱える事をしなかった。

 金子の入った袋を受け取り、馬商人は満面の笑みを浮かべながら何度も城の方に頭を下げ去って行った。


          *          *


 森せんの買い求めた雌馬は、茶褐色の体に美しい黒毛がたてがみと四肢を覆い、そして特徴的なのが四肢の先の白さである。

 この日から、この馬の世話は馬屋番だけに任せず、稽古前の森せんの日課の一つとなった。

 そして馬に合った鞍が届く頃には、森せんはこの馬の名を決めていた。


 この黒き馬が走る姿が遠目には、その足先の白さで宙に浮いたようにも見え、まるで雲の上を走る駒にも見える事から『黒雲くろくも』と名付けたのであるが、これに夫長可はあまり良い顔をしなかったのである。

 なぜと問うと、夫長可は甲斐武田家の前党首である武田信玄の愛馬が同名の『黒雲』であったというのである。

 つまりその名を盗んだと私が言われる事を彼は気に掛けてくれていたのである。


 確かに夫長可の愛馬『百段ひゃくだん』と同じ名前を誰かがその乗馬に付けたとすれば、名を盗まれたと感じ立腹するのはもっともなこと。

 しかし、森せんの方も自分で思案の末にようやく至った名であれば簡単に諦めたくは無い。

 そこで彼女は夫長可にこう言い放ったのである。


「武田信玄が今も存命であれば私もその名付けを諦めますが、そうで無い以上『黒雲』の名はもう私のものです。

 もし武田家の者達がその事を知っても名を奪ったとは考えずに、彼等の亡き前党首の武名に敬慕の念を抱いて私がその名を付けたと考えるでしょう。

 それが武士というものではありませんか」

 森せんのこの言葉に夫長可は納得し、その名乗りを快諾したのだった。


 それからというもの、森せんは『黒雲』に騎乗しての槍や長刀なぎなたの扱いを修練し、なつとゆうと共にその扱いを工夫するだけでなく、石つぶてや弓矢、鉄砲という飛び道具を彼女の愛馬に教え始めたのである。

『黒雲』は弓をすぐに危険と理解し、射線から体を逸らす様に動くことを覚え、石つぶても同様に人の動作でそれを覚えた。

 しかし、銃弾が目で追えない鉄砲については、ただ大きな音が鳴り煙を噴き上げる棒の様にしか見えぬのか、火縄の匂いに唸りに似た声を上げて反応する程度にしかならなかった。

 驚いた事に『黒雲』は自身の判断で刃との間合いを取るだけで無く、騎乗者である森せんが命令すれば刃にも恐れずに向かっていくのである。


 当初は自身の動きと『黒雲』との動きのズレに苦しめられた森せんであったが、互いが動きを理解する様になると、なつとゆうの二人に追い詰められて動けなくなるという事も無くなり、森せんの扱う馬上武器も、振り回すと体が大きく持って行かれる槍や長刀から、刀に似て刃の振りが容易な長巻ながまきへと切り替えると、彼女自身の馬上戦術も次第に確立されていった。

 そして森せんが森家に嫁いでから早一年、新たに心強い味方を得た彼女は、これまでの立ち合いでの雪辱を晴らすべく、夫長可に馬上試合を申し込んだのである。


          *          *


 愛馬『百段』を駆る森長可と『黒雲』を駆る森せんの夫婦対決は、金山城に詰める家臣達の注目を集め、皆我先にと馬場へと集い、その立ち合いを固唾を呑んで見守った。

 勝負は木刀での立ち合い。

 これまでの地に足を着けての立ち合いでは、体格でも力でも劣る森せんが避けきれず受けに転じた途端に潰されていたが、この馬上試合はそうはならなかった。

 家臣達の誰もがこの勝負は、人も馬の体格も一回りは大きい森長可に有利と見ていたが、始まってみると森長可の攻撃は幾度となく躱され、幾度となく空を切ったのである。


 この事に一番驚きを隠せなかったのが、森長可自身であった。

 自分の力を込めた一撃が決まらない。

 力比べに持ち込むこれまでの策が通じない。

 森長可の木刀を妻せんは、まだ一度として正面から受け止めていないのだ。

 全ての打ち込みが流されるか空を切る。その原因は明らかに彼女の愛馬『黒雲』の動きにあることを森長可は感じ取った。


 殆ど足を止めたままの『百段』の馬上から打ち合いに応じる森長可に対して、妻せんは愛馬『黒雲』を左右に動かしながら、出ては退くを繰り返して攻撃に出てくるのである。

 これまでの戦場でも一度も経験したことの無い戦いだった。

(自ら間合いを取る馬とはな…)


 追えども追えども空を切る攻撃を繰り返し、妻せんと『黒雲』の人馬一体となった動きに感銘を受けながらも、手を緩めれば凄まじい速さで間を詰めてくる妻せんの攻撃に森長可は何度も冷や汗をかかされた。

 有効打を互いに打ち込めないまま、試合は互角の引き分けに終わった。


 見物していた家臣達の歓声。

『鬼武蔵』と『美濃の鬼姫』たる二人の主達の戦いを称える声は止まらない。

「見事だな、せん」

 汗に濡れた顔を拭いながら、森長可は感嘆の声を上げた。


「この『黒雲』と共にある限り、私は誰にも負ける気が致しませぬ。いずれ必ず愛槍『人間無骨にんげんむこつ』を手にした長可様をも越えてみせます」

 自身に満ちた挑戦的な顔で自分を見つめる妻せんの視線に、森長可は突然襲われた気恥ずかしさに思わず目を逸らしてしまった。

「力強き長可様も、そういう奥ゆかしい長可様も私は好いております」

 突然の妻せんの言葉に、森長可の顔は一気に紅潮した。


 今の言葉を誰かに聞かれてはいまいかと周囲を見回し、改めて見た妻せんの顔も少し赤らんでいた。

 苦節一年。

 ついに求めていた妻せんからの言葉を森長可は手に入れたのである。

 この場ですぐにでも叫びたい衝動に駆られたが、家臣達の手前それは何とか思い止めた。

 しかし、長くは持ちそうに無い。

「せん、俺の『百段』とお前の『黒雲』とで遠乗りだ。出るぞ」

「お供致します。長可様」


 満点の青空の下を風を切って走る二騎。

 森長可は、溢れ出る歓喜の笑いとも叫びともとれぬ声をそれに向けて、思いっきり吐き出し続けた。 

  

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