杭瀬川の戦い
豊臣家に陰りが見え始めたのは、大陸の明国侵攻のための進軍路を確保するために行われた二度の朝鮮出兵による疲弊と、その最中に豊臣秀吉が没した頃からであった。
それは豊臣家中での意見の対立に止まらず、五大老の一人である徳川家康の豊臣家を蔑ろにする様な行動によっても助長された。
豊臣政権内の争いは、五大老の徳川家康と五奉行の石田三成の争いへと一極化され、石田三成一派による徳川家康暗殺未遂といった事件が起こるまでに表面化してしまう。
慶長五年(一六○○年)春頃より五大老の上杉景勝と徳川家康との関係が急速に悪化。
六月、徳川家康は大阪にて豊臣秀頼と淀君に会見して上杉討伐軍を編成する。
中村家にも上杉討伐軍として会津攻めへの出陣が命じられたが、中村一氏はこの時死の床に伏しており、陣代として弟の中村一栄が沼津三枚橋城の手勢一千を率いてこれに合流した。
中村一氏は自身の死を悟り、息子の一学を十歳の若さで元服させ、名を一忠と改めさせて後継とし、死の間際には妻せんの手を握りしめて、これまでの礼を述べたのである。
「よくぞ中村家に、儂の元へと嫁いで来てくれた。それが何よりこの一氏の自慢じゃ。これからは儂に代わり一忠をお前の力で守ってくれ、頼むぞ」
そう妻せんに言い残して七月十七日、中村一氏は死去した。
徳川家康が東国へと赴いている隙を突き、七月に石田三成が挙兵。
その要請に応じて毛利輝元が大阪城に入城して豊臣秀頼を擁立し、徳川家康一派の排斥を目論んだ。
この知らせを受けた中村せんは、喪主として夫一氏の葬儀を取り仕切りながらも、我が子である中村一忠の為に三千の兵を揃え、来るべき時に備えたのである。
石田三成の動きを知った徳川家康は七月二十五日、結城秀康を上杉軍の抑えとして残し小山の地にて反転、西上の軍を発した。
以降毛利輝元を総大将とする石田方を西軍、徳川家康を総大将とする軍は東軍と呼ばれ、日ノ本を割っての争いが各地で勃発するのである。
中村家の軍は東海道を進む徳川家康の本隊へと組み込まれ、中村一栄の一千と中村一忠の三千の計四千の軍で構成された。
駿府城を発つ息子一忠を見送った中村せんは、後方の庶務を片付けると後の事を城の女達に指示し、軍に遅れること約一ヶ月、亡き夫一氏との約束を果たすために愛馬『黒雲』に跨がり、一路西を目指して一人旅立ったのである。
* *
八月二十二日、中村家の軍は西軍に属する織田秀信の守る美濃国岐阜城攻略の別働隊一万八千の軍の中におり、木曽川の河田の渡しを守る織田軍と対峙していた。
中村一栄はこの戦を甥である中村一忠の初陣にすべしと奮起したが、中村家は当主が幼年である事を理由に陣の最後尾へと配され、更には先方を務める池田輝政らが破竹の勢いで敵を撃破してしまった事で、中村家は結局一人も兵を動かすこと無くこの戦を終えたのである。
そして翌八月二十三日に岐阜城も降伏してしまい、この日もまた中村家は軍功無くただ味方の軍の後ろを歩いただけで終わってしまう。
「一忠の身の安全をまず第一に考え、決して無理をしてはなりませぬ」
姉である中村せんからはそう言い含められてはいたが、これでは何時まで経っても一忠に相応しき初陣を遂げさせてやれない。
そこで中村一栄は次の大垣城攻めでは中村家に先方をと軍議の席で願い出たのであるが、東軍の徳川家康が大垣城の北の赤坂の地へと着陣すると、石田三成はなんと大垣城を放棄して更に西へと退がったのである。
大垣城が無血開城となった事でまたもや軍功を上げ損なった中村家、中村一栄はがっくりと肩を落としてしまった。
九月十四日、西軍の兵約百名が大垣城西方にある杭瀬川を渡り現れたとの報が大垣城にもたらされる。
その旗印は大一大万大吉、西軍の実質の総大将である石田三成の手勢であるのは間違いなかった。
中村一栄はこれを討つ手柄を以て一忠の初陣とし、総大将の軍の撃破という箔をさらに付けてやろうと、軍議の席で勇んで手を上げたが、その栄誉は有馬豊氏に奪われてしまう。
手勢五百を率いて出陣しようとする有馬豊氏に中村一栄は是非にと頼み込み、渋い顔をされながらも何とか有馬軍への追従を許可してもらうのであった。
手勢五百しか出さぬ有馬軍に追従するに、中村家四千の軍を全て出すわけにはいかず、中村一栄は自身の手勢から三百のみを割き甥の中村一忠を伴って出陣する事にしたが、幼き当主一人を本軍から出すのは心配だと家老の野一色助義もこの軍に加わった。
戦場へと出てしまえばこちらのもの、中村一栄は有馬軍に先駆けて石田軍に襲いかかった。
中村家に一番槍を奪われてしまった有馬軍も奮起し、互いに競うようにして逃げる石田軍を追い立てる。
石田軍はただ逃げるばかりであったが、功に逸る彼等はそれに気付かず杭瀬川を渡ってしばらく進んだ所にまでまんまと誘い出されたのである。
先頭を進む有馬軍が突然周囲から弓矢を浴び、それを合図に潜んでいた敵軍が一斉に姿を現した。
この軍は、石田三成の懐刀とも呼ばれる島左近率いる石田軍五百と、この策に賛同した宇喜多家の武将である明石全登率いる千五百。
彼等は敗走続く西軍の士気を高めるべく、一戦して東軍を撃ち破ろうと一計を案じたのである。
己が主君三成の旗印を借りたのも、囮として用いる為であった。
この時になってようやく中村一栄も有馬豊氏も自分達が敵の罠にまんまと嵌まった事を悟った。
「一忠だけは生かさなければ…」
全周で敵を防ぐ有馬軍と異なり、中村一栄は矢の的にならぬ様にと中村一忠を馬から降ろすと、軍を味方中央に集結させて中村一忠の周囲を手勢で固めた。
「助義、後方の敵に当たり退路を作れ」
「承知」
中村一栄の声に野一色助義が応え、自身の郎党を率いて乗馬で駆け出す。
容赦なく中村軍にも降り注ぐ矢、中村家の若き当主である中村一忠を守る為に中村一栄達は、己が体を盾にしながらそれに耐え続ける。
野一色助義はは味方の退路を作り出すため包囲の明石軍に飛び込み槍を振るって奮戦し、敵を一時は大きく崩した。
しかし杭瀬川に近づくにつれて現れる、足場の悪い葦原の一つに謝って踏み込んでしまう。
乗馬の足が泥の中に沈み身動きが取れなくなった所を囲まれ一斉に槍を突き込まれて、中村家が誇る剛勇の士はついには息絶えた。
「助義殿、討ち死に」
有馬軍も相当数が討たれ、中央で固まる中村軍にも被害が出始める。
敵の包囲の輪が縮まる中で、中村一栄は決断を迫られた。
今更ながら、甥の中村一忠を連れてきた事を後悔し、初陣で死ぬことになる彼に心の中で詫びながら、敵の手にかかって死ぬよりはと自身の刀を握りしめた。
「一忠、恐ろしいか?」
中村一栄の声に、まだ幼い甥は首を横に振ってみせる。
大した者だ。中村一栄は嬉しく思ったが、自分を見つめる甥の瞳に目を合せる事が出来なかった。
「島左近じゃ」
「左近が来るぞ」
周囲の者が声を上げる。
石田三成の懐刀とまで言われる剛勇の士、そんな奴まで出てきているのか。
「防げ」
「討ち取れ」
中村一栄の防御の声に対して、有馬豊氏は彼を討ち戦況を覆そうと残りの兵全てを前に出す。
島左近を討ち取るべしと出て行った有馬軍の兵が断ち割られていく。
騎馬に跨がった猛将が一直線に中央で固まる自分達に向かってくるのが見えた。
すぐ目の前。風を斬る朱槍の一振りで中村家の兵が吹き飛んでいく。
島左近のギラつく瞳が狙い澄ました様にこちらを見た。
甥の一忠を抱きしめて、中村一栄はその場で何とか左近の槍から逃れようと、地に蹲る。
死を覚悟した。だが、槍は来ない。
代わりに聞こえたのは聞き知った女性の声。
「一栄、しっかりとなさい」
島左近の槍を自分達の目の前で受け止めている一騎の姫武者。
長い髪を靡かせたその女性が振るうのは、槍でも刀でもない古めかしい武器、長巻である。
「姉上!」
中村一栄は声を上げた。まぎれもなくそこに在ったのは、姉の中村せんの姿であった。
あの島左近と二合、三合とその場で打ち合う姉の姿。
姉の武が相当であるとは知っているが、目の前の今の光景が信じられない。当然中村家の誰もが目を見開き驚いている。
遂には姉の長巻が左近の朱槍を中央から真っ二つに両断した。
信じられないといった表情で島左近は乗馬を返して退いていく。
我が姉が、あの剛勇で知られる島左近を追い返した。何というものを俺は見せられたのだ。
感動に震えた。
だが、姉せんが自分に向けた凍るような冷たい視線に、中村一栄はこれまで味わった事の無い程の恐怖を全身に感じたのである。
* *
間に合った。
敵中に囲まれながらも翻る中村家の旗印を見て、中村せんは安堵の溜息を漏らした。
そのまま『黒雲』を駆けさせ、敵の包囲の輪に向け突撃し、長巻を振るう。
我が子中村一忠と弟の中村一栄に遅れて一人駿府城を発った中村せんは、東軍に属す中村家の通った戦の後を追いまずは犬山城、そして大垣城へと辿り着いた。
しかし何度叫べども大垣城の門が開かない。
「中村家のせん姫様ともあろう者が、一人でこの様な場所へ来るはずがない」
そう門番が至極当然の言葉で自分を追い返そうとする。
しかし当の本人がここに居るのだから、中村せんの方もはいそうですかと納得する訳にもいかない。
「中村一栄か池田輝政を呼びなさい」
門番に向け叫んだが、果たして門番は私の申した通りに動いてくれただろうか?
そんな事を考えながら待っていると、城門の上の櫓から弟輝政が顔を覗かせた。
ようやく城の門が開き、しばしその場で弟輝政と話し込んだ。
中村一栄は一忠を伴い手勢わずか三百ほどで、有馬豊氏の五百と共に瀬踏みの石田三成の兵を追い払いに行ったという。
それを聞き、一気に血の気が引いた。
「輝政、石田三成といえば西軍の実質の総大将でしょう。そのような者が瀬踏みの兵など出すはずがない。明らかな囮でしょうが」
「あっ」
思わず漏れ出た弟輝政の声に叱りつけた。
「連勝で勝ちに溺れたのですか輝政。すぐに兵率いて出なさい。中村家の軍も全てです」
「わっ分かりました。姉上」
先に行くと告げて、その場で『黒雲』に跨がり中村せんは急ぎ大垣城を出た。
そして今に至るのである。
「姉上」と声を上げる弟一栄に『黒雲』を寄せて彼を一喝。
「一栄、あれほど言い含めたのに、お前は何をしているのですか」
弟一栄の安堵の表情は、せんのその言葉に青ざめ恐怖に怯え、目の前の戦場の事など忘れたかの様に腰を抜かしながら後退る。
更にはせんの視線を何とか遮ろうと両手を前に突き出してもがく有様。
「母上様なのですか?」
息子一忠の声にふと我に返った。表情を和らげ、一忠の様子をくまなく見る。
(どこも手負っている様子も無い。一栄、お手柄です)
そしてすぐに自分が今来た方向を指差し、一忠に大声で命じた。
すでに退路を塞ぐ敵は中村せんによって崩され、そこだけがぽっかりと空白になっている。
「一忠、ただ真っ直ぐに走るのです。決して振り返ってはなりませぬ。行きなさい」
そして弟一栄にも視線を向けて、行けと合図をする。
「皆の者聞け、退路じゃ。一直線に走れ、振り返るな」
中村一栄が後方の一点を指して兵達に告げる。
「おおっ」と応えて中村家の軍は中村一忠を伴い一斉に走り出す。
「有馬殿、退路じゃ。退きなされ」
中村一栄の声に有馬豊氏の軍も退き始めた。それを見て弟一栄も駆け出そうとしたが、姉のせんがその場で動かずにいる事に気付き、すぐに歩を止めた。
「私が殿軍を務めます。行きなさい一栄」
「姉上一人だけでですか。それなら私も残ります」
「足手まといです。それにあなたに死なれても困ります」
中村せんは正直な気持ちを述べただけなのだが、弟一栄は自分を逃がす為にこの姉が命を捨てようとしているのだと、勝手に感じ入っている様だった。
そして込み上げてくる感情を押しとどめ、中村一栄が首を振り唇を噛みしめて走り出した。
「まったく、どうしようもない弟ですね」
中村せんは目の前の戦場へと向き直り、長巻を一度ひゅんと振って気持ちを切り替えた。
「敵は二千というところ。
森長可様の亡くなられた戦場に比べれば少ないですが、ここで我が武が『鬼武蔵』に並び立ち、それを越えたか直接検分すると致しましょうか」
中村せんに向けて周囲から押し寄せる明石全登率いる宇喜多軍を前にして、中村せんは不敵に笑った。




