織田家の衰退
評定の席で、とうとう森長重の件が持ち出されたと夫長可が森せんに困り顔で相談しにきた。
これまで何度か議題に上がりかけるのを、夫長可が自ら預かるという形で流してきたが、さすがにそれでは済まないまでになってしまったのである。
安土城に小姓見習いとして出仕してわずか三日で放り出され、織田信長公に直接謝辞を述べる為に母えいを伴い改めて安土城に滞在したものの、明智光秀の謀反により甲賀へと逃れ、美濃の動乱による森家の一大事にも駆けつけられなかった事で、それまでの素行の悪さも相まって、家臣達の中には未だ彼を『仙千代殿』と侮る者も少なくない。
その事を気に掛け挽回させようと夫長可は長重を戦場へと連れ出したが、ここで長重が問題を起こしたのである。
小競り合い程度の戦であったが、そこから彼は逃亡した。
乗り捨てられた乗馬だけが発見され、一時は死亡説も流れたが、戦場そばの廃村に隠れ潜んでいたのが後に発見された。
「今日の評定にも長重は出ず、屋敷の母上様の元で閉じこもったままですか…。長重も既に元服を済ませた武士、私もこれまでの様に母上様の所に押しかけ彼を叱ることはもう出来ませんし」
「長重の件は俺が焦りすぎたのかも知れぬな」
「それでも甲賀では野山を走り、同年代の者達と健やかに過ごしていたと母上様からお聞きしました。色々と初めての事がありすぎて、しかもそれを失敗してしまったのです。落ち込むのは仕方ない事かも知れません」
森せん自身は弟の長重を心配してはいるのだが、その気持ちは長重には伝わっていない。
森せんと長重の年齢は比較的近く、それで家臣達が明智軍と槍を交え、当主不在の金山城を一人守った森せんを引き合いに出して長重を悪く言うものだから、長重は引け目を感じてか森せんをとことん避けているし、憎々しげな言動をする事も少なく無いとも耳にした。
「今は私が長重に何か言うのは逆効果でしょう」
「うむ、そうだな」
どうにも夫長可の歯切れが悪い。
「今日の評定で何かありましたか?」
「長重を僧籍に入れるべきだとの家臣達の声が多くてな」
「森家は部門の家、長可様は長重にもそれに相応しき男になって欲しいとお考えなのでしょう。でしたらご自身の口で、長重にはっきりとそう伝えるべきです」
弟長重は失敗する事を恐れ、逃げている。森せんには彼の行動がそう見える。
「長可様が長重の失敗を笑って済ませてやれば良いのです。あなた様が失敗した時、信長様はいつも笑って済ましてくれたではないですか」
「確かに俺も何度もやらかした。各務からは切腹や打ち首でも仕方なしと小言を何度も言われたな」
「そうなのです。長可様は格好ばかり気にして失敗をすぐに隠してしまいます。あなた様が思い出して顔を覆いたくなるような失敗談を長重にも聞かせてあげて下さいませ」
「俺はお前に無様な様を見せたく無くて…」
「何です?」
森せんの問いに慌てて咳払いで誤魔化す森長可の顔を見て、せんは思わず吹き出しそうになった。
あわあわとしながらも、弟長重を元気づける何かを得たのか、夫長可の表情が随分と明るくなった。
* *
天正十一年(一五八三年)二月、羽柴軍に押される滝川一益の苦境に耐えきれず、柴田勝家が越前北ノ庄城を進発、近江北の賤ヶ岳にて柴田軍、羽柴軍の両軍は相対した。
戦況は一時膠着するがその均衡は四月に崩れて柴田軍が敗走、その勢いのまま羽柴秀吉は柴田勝家を北ノ庄城へと追い詰めて、四月二十三日、これを滅亡させた。
降伏した織田信孝は岐阜城を退去し尾張国野間の内海大御堂寺に身を寄せたが、織田信雄の命により四月二十九日、同地にて自害した。
この戦に池田恒興は参戦しなかったが、戦後美濃国大垣十三万石を拝領して摂津から転封。
自身は大垣城へと入り、池田家長男の池田元助は家老として岐阜城へと詰める事となった。
* *
五月、森長可は東美濃一帯にて軍事行動を起こす。
斉藤利尭は羽柴方についた為に征伐出来なくなったが、織田信孝の威を借り森家を除こうとした者達の拠点を次々に急襲、小里城の小里光明を追放、妻木城の妻木頼忠を再び軍門に下し、苗木城の遠山友忠は徳川家康を頼り逃走した。
この戦の間、森せんは夫長可との約定を守り、一人『飛蝶』を率いての領内鎮撫に徹していた。というよりも鎮撫の為に駆け回っていた。
この一年で森家の治める領地も格段に大きくなり、これに今回夫長可が蹂躙した新領地が加わったのである。
実際には『飛蝶』の人数だけでは足りず、森家の兵もいくらか借りて何とかしていたのだが、森家の将達は皆、目の前の戦に夢中になり後方地での森せん達の苦労の事など顧みていない様だった。
以前ならば「私達も戦場に」と自信満々に言う声が少なからず『飛蝶』の女達の中から出てはいたが、今回それは起こらなかった。
一人一人の武力は相当なものでも、一軍としては未だ未熟という現実を彼女達は知った。今の自分達では森家の戦の足手まといになると感じている者も少ないくない。
そしてもう一つ、彼女達を直接率いるなつとゆうの二人が大人しくしているのが大きな原因だった。
* *
賤ヶ岳での戦の最中も南で織田信雄と蒲生氏郷の二万の軍を釘付けにして奮戦していた滝川一益であったが、柴田勝家と織田信孝の両名を失い孤立しながらも七月まで一人戦い続けた。
しかしついには降伏し、滝川一益は所領没収の上で京都妙心寺にて剃髪、その後は丹羽長秀の元を頼り蟄居し、『賤ヶ岳の戦い』として括られるこの一連の争乱は一時の終息を迎えたのである。
しかしすでに水面下では、次の戦に向けての準備が着々と進められていた。
羽柴秀吉の手に牛耳られ様としている織田家中に対する織田信雄を頭領とする織田家の復権である。
織田秀信の後見として安土城へと入った織田信雄は、織田家本国衆と呼ばれる者達に対して密使を送り、力を増す羽柴秀吉の排除を呼びかけた。
織田信孝と織田信雄が協力して織田秀信を当主と立て、筆頭家老柴田勝家が健在であったならば、織田家から羽柴秀吉を切り離す事は出来たかも知れない。
だが今となっては本国衆を総動員しても羽柴秀吉に対抗できぬ程に織田そのものが弱体化している。
更に織田信雄は織田秀信ではなく、自身を織田の頭領と名乗り事を成そうとしているのである。
これを本国衆の大半は織田家正統に対する反逆と見なしたのである。
この誘いに岐阜城と大垣城を押さえている池田恒興は、表向き了承の意を示しつつ裏では羽柴秀吉と通じ、金山城の森長可も縁戚となる池田家の動きに準じると決定した。
織田信雄は徳川家康を後ろ盾とし、北陸の佐々成政、紀州の雑賀衆と四国の長宗我部を味方に引き入れ、着々と秀吉に対抗する勢力を拡大させていった。
天正十二年(一五八四年)三月、満を持して尾張国と美濃国を手中にすべく動こうとした織田信雄と徳川家康に先制して行動を起こしたのは池田恒興であった。
徳川家康が織田信雄の居城、尾張国清洲城へと入るその時を狙い、尾張国東北部の要の城である犬山城を占拠したのである。
池田家の行動に二日遅れて森長可も犬山城下に着陣。
森長可はそのまま小牧山城をすり抜け尾張国と三河国を分断し、徳川家康を尾張国内に閉じ込めようと画策するも、その試みは徳川家の松平家忠、酒井忠次の軍五千に補足されて失敗に終わった。
味方と思うていた池田恒興と森長可の裏切りに慌てた徳川家康は、すぐに小牧山城へと入り防備を固め、以降両軍は小牧山城付近で対峙する形となり、織田信雄が目論んだ尾張国と美濃国の奪取はその第一撃から頓挫したのである。
* *
池田恒興が犬山城を占拠してより二日後、羽柴秀吉が三万の軍勢を率いて大阪城を発したという知らせが森長可の元へと届いたが、そこには大阪の南で勢力を拡大する雑賀衆に対する備えとして、羽柴に味方する城主達は手薄となる大阪に一隊を送るようにとの要請も含まれていた。
つい数刻前の徳川軍との戦いで敗走し、陣を立て直したばかりの森家にとってそれは中々に厳しい内容であった。
三百人近い損害を受けたばかりで、そこから更に一隊を引き抜き大阪へと送れと言うのである。
この時の森家の軍表情は荒れに荒れた。
安土城に比肩するとも言われる強固な大阪城に入るのであるから、戦が起こる可能性は無いに等しい。
それに今は一兵でもこの戦場に欲しい時であり、功にもならぬ羽柴秀吉の居城の守りに進んで行きたがる家臣は誰もいなかったのである。
金山城の兵五百の一部を割くという所までは決まったが、誰を向かわせるのがで森家中の意見は真っ二つに割れた。
せん姫と『飛蝶』を送るべきとの家臣達の声と、森長重に兵二百と守り役の将を付けて送るという森長可の二つの案であるが、せん姫を送り出すことを頑なに反対しているのは森長可だけであり、その場の全ての家臣達が「是非とも、せん姫様に」と申すのである。
「森家は現在池田家を介して羽柴秀吉と連携しているものの直接の繋がりがございませぬ。当家の今後の為にもこの機会を利用せねばなりませぬ」
家老の各務元正の言い分はもっともであり、羽柴家との縁を強固にするこの機会での失態は許されない。森長重であれば何か問題を起こすかも知れぬし、守り役としてこの中の誰か一人がついて行かねばならない。
「お断り致す」
森長可の視線を感じて各務元正がふんと先手を取る。
さすがにここまで言い切られると、長可としても折れざるを得ない。
妻せんの武勇に心配は無い。
『飛蝶』の女達もすでに十分に精兵と呼べる程に仕上がっている。
正直なところ、今日の敗戦で失った兵の穴埋めに『飛蝶』を呼び寄せる事も森長可の頭にはあったのだ。
「わかった。金山城城代を森長重に任せ、せんには大阪へ行って貰う」
森長可がそう申すと、家臣達が一様に安堵の溜息を漏らす。
また、しばしの別れになるのか…。
そんな中で森長可だけが、一人苦い顔をしていた。




