鉄砲組誕生 前編
天正十年(一五八二年)十月二十八日、羽柴秀吉は安土城に詰めるはずの三法師様改め織田信秀を未だ手放さず岐阜城に留め置く織田信孝に再三の勧告を行うが、織田信孝はこれを無視し続けた為、羽柴秀吉は清洲会議での取り決めを破棄し、十二月二日に柴田勝家の有する近江国長浜城を攻略、そのまま美濃へと進軍し、二十二日織田信孝を降伏させた。
本能寺の変以降、羽柴秀吉と柴田勝家による織田家中の主導権争いは水面下で激化し、羽柴秀吉は越後の上杉景勝を味方に、そして柴田勝家は四国の長宗我部や紀州の雑賀衆を味方へと引き入れ、互いを牽制する動きを見せていた。
そんな中で羽柴秀吉は養子縁組していた織田家の四男に当たる秀勝を喪主として、京の大徳寺にて盛大な織田信長公の葬儀を単独にて執り行ったのである。
主筋である織田家を蔑ろにしたこの行いに最も激高したのは、織田信長の妹であり柴田勝家の妻となっていたお市の方であった。
この事もあり柴田勝家や織田信孝の羽柴秀吉に対する不信感の高まりは当然の事であった。
この羽柴秀吉と織田信孝、柴田勝家の軍事衝突に東美濃一帯に勢力を拡大した森長可は、表向き中立という立場で臨み、織田信孝からの再三の合力要請を無視するだけでなく、高圧的な態度に出る彼に向け兵を動かし、岐阜城を威圧するという行動をも見せた。
織田家本国衆である森家の立ち位置は本来、織田信孝や柴田勝家側である。
しかしながらこの争いでそうしないのは、羽柴秀吉らが織田信雄に臣従するという形を先に取ってからの行動であり、羽柴秀吉の織田に対する反逆では無く、清洲会議での決定を無視した織田信孝に対する仕置きとしての大義名分を得ていたからであった。
森長可は、織田家筆頭家老の柴田勝家の心情には配慮するとしながらも、羽柴秀吉寄りの池田家と親戚筋となった事、そして織田信雄との密約、更には織田信孝の威を借りて森家を除こうとする斉藤利尭や遠山友忠といった周辺敵対勢力に対する為にも、実質羽柴方として動かざるを得なかったのである。
年が明けた天正十一年(一五八三年)一月、伊勢長島に帰還していた滝川一益が柴田勝家に味方するとの旗色を示して挙兵。
織田信雄の勢力圏である尾張国南部と伊勢国北部の切り取りを始めると、柴田勝家が雪で動けぬ冬の間に決着をつけようと、羽柴軍七万の軍勢が滝川軍の鎮圧に向かったが、滝川一益の頑強な抵抗を受けていた。
そして森家中に再び本格的な戦の気配が漂い始めたのもこの頃である。
* *
この日森せんは、長らくはぐらかされてきた鉄砲組創設の件を夫長可にきつく迫ったのである。
今日こそはと決意して挑んでの事、夫長可のいつも以上の困り顔は、それでいて見ていて可愛いものがある。
森せんには一つ大きな武器があった。
明智光秀の争乱の騒ぎで果たせずにいた京での爆買いの約定、これの替わりにと夫長可に鉄砲を寄越せと詰め寄ったのである。
「聞くところによると城の鉄砲倉には、私が肥田家より奪い取った鉄砲がそのまま放置されているそうですね。そのうちの幾つかを『飛蝶』にくださいませ」
「そうは言うが、お前が連れて来た『飛蝶』の女達を足軽として召し抱えているのだから、それで我慢してはくれぬか?」
「何をおっしゃいます。『飛蝶』が留守を守るからこそ長可様は、後顧の憂い無く全軍を率いて戦に行けるのではありませんか。その事は城の者なら上も下も皆周知の事、それを持ち出すは筋違いにございます」
「鉄砲は金がかかる」
「またそれですか、でも今日は絶対に逃がしませぬ。
高価な玉薬に弾となる鉛、新たに雇う者の禄は私の化粧料で賄おうと考えています。ですから鉄砲もそれ程多くはいりませぬ」
「しかしだな」
「長可様、私が戦に出るのをあなた様は恐れているのでしょう?
ですから約束致します。私は今後長可様の命無き限り、決して戦に出るとは申しませぬ」
「真かせん。真なのだな」
「はい」
夫長可の困り顔が満面の笑みに変る。
「そうか、そういう事なら何でも聞いてやる。そうか、そうか」
何度も森せんに確認を取る夫長可の態度に、このお方はこんなにも自分を心配してくれているのかと改めて感じ入ると、森せんの方も何やら嬉しさがじわりと込み上げてくる。
* *
翌朝、なつとゆうの二人を伴い城の鉄砲倉に踏み込んだのであるが、見えて上機嫌な森せんの後ろでなつとゆうのニヤニヤ顔が止まらない。
「もう」
あれこれ言い訳しても夫長可との夜の営みを根掘り葉掘りと問われるだけ、うっかりと口にでもしてしまえば、思わず赤面してしまう事をしろだの何だのと茶化してくる。
結局森せんは、その一言で彼女達に不満の意を示す事にしているのだ。
「姫様、これですか?」
頷くと、二人は用意された鉄砲の入った木箱を三つ、苦も無く二人で次々と運び出していく。
鉄砲は全部で十丁、それでも森せんは『飛蝶』の為にと懐具合を奮発した。
鉄砲を扱う十人は、なつとゆうの二人が領内を回り集めて来ていた。
なぜ女ばかりなのだと問われても『飛蝶』だからとしか言いようがない。
当初は二十人は集まった女達だが『飛蝶』の調練の激しさに目を剥き、三日で三人が脱落し、鉄砲の重さに似せた石入りの袋を持たせて延々と走らせると、十日で七人が消えた。
城に入れば楽して毎日飯にありつけ給金も出る。
そんな甘いことを考えていた者は、今の村での暮らしの方が遙かにましだと知って逃げ出した。
予備に二丁を充て、八人の鉄砲組を編成するつもりだったが、ともかくやる気のある十人が残った。
それを聞いた森せんは、その全員に鉄砲を支給すると決めたのである。
『飛蝶』の女達が持つ胴丸といった具足はその殆どが摂津の兵站庫で揃えた物であり、長刀も槍と交換という形で手に入れ、今ではその全てが彼女達個人の所有物となっている。
刀槍に比べ遙かに高価な鉄砲は合戦時のみの持ち出しであるが、この十丁の鉄砲に限っては他の女達と同様に個人所有として与えた。
森せんと鉄砲組十人の女達との初顔合わせの日、配られた鉄砲を手に取り嬉しさに声を上げる十人の前に立つ小柄な少女の事など彼女達は意に介する様子も無い。
これまで彼女達を怒鳴りつけてきたゆうが声を上げると、ようやく彼女達はこちらを向いたが、手に持つ鉄砲が気になって仕方ないらしく、どうにも態度が悪い。
構わず森せんが厳しく言い放つ。
「戦の時は近い。夜の寝る間も惜しみ扱いを覚えなさい。森家の財を託すのですから、その紛失は死罪に値します。大切にしなさい」
死罪の声に場は一気に静まり返り、鉄砲組の女達は初めて背筋を伸ばした。
彼女達は刀槍の扱いは学ばず、鉄砲のみに習熟させる。
その為彼女達の護衛に長柄の使い手二人を付け、その二人が鉄砲道具の入った背負い箱をそれぞれに持つ。
鉄砲組の指導には天野源右衛門が自ら声を上げた。
彼がかつて使えた明智家では鉄砲戦術を重視する風潮があり、明智家臣は皆「明智流砲術」とも呼ばれるそれを学ぶ事が推奨されていた。
その経験を活かし、鉄砲組を鍛えてみたいと彼は申してくれたのである。
* *
程なく、あれは何だと嘲笑混じりの声が城内であがり始めた。
「鉄砲組の調練と聞いたが、あの女達は走ってばかりでは無いか」
それが森家家臣達の大方の声であった。
鉄砲組の十人の女達の鉄砲が火を噴くのは十日に一度程度である。
それまでの間、彼女達は鉄砲の繰り返しの装填操作、火縄の扱い、鉄砲弾作りに勤しんでしる。
森家の鉄砲組でも月一度実射出来るか出来ないかという程に火薬も弾も貴重なものであるが、すぐ側に戦が迫っている事もあり、鉄砲組には森せんも力を入れた。
だから実際には森家の鉄砲足軽よりも鉄砲を撃ってはいるのだが、走っている姿ばかりが目立つのでそのような言葉が飛ぶ。
登城して朝一番に彼女達がするのが、火を起こして専用の鉄皿の上で鉛を溶かしての一日十発の弾づくり。
その中の出来の良い一発を残し、射撃調練に備えるのである。
天野源右衛門は普段彼女達に、棒を持って実際に突撃してくる相手に向けての鉄砲の装填から射撃までのからくりの扱いを繰り返し行わせている。
二十五間(約五十メートル)離れた場所から走り来る相手に向け、空の火薬袋から玉薬を注ぐ振りをし、銃口を下に向ければすぐに転がり落ちてくる程の小さな弾を装填する。
銃身からカルカと呼ばれる細い棒を引き抜き、それを銃口から押し込み弾と火薬を突き固める振りをする。
火縄を取り付け火蓋を開き、構えて対する相手に向けて引き金を引く。
十から十二も数えれば、突撃してくる相手の棒は自身に届く。
それまでにこの一連の動作を終えれば天野源右衛門の手が上がり合格となるが、間に合わねばそのまま棒に突き倒される。
これを日に一人が十回繰り返し行い、合格しなかった回数分だけ、一里塚(約四キロメートル)の間を火縄銃と同じ重さの石を詰めた袋を抱えて往復させられる。
同じく射撃調練の日には、二十五間先に置かれた竹束を的にして作り貯めた選りすぐりの十発を実射して、的を外した回数分また走るのである。
最初は文句を言っていた鉄砲組の女達だが、その声はすぐに消えた。
彼女達自身がその意味を理解したからである。
まず二十五間離れた的に鉄砲を当てる事が中々に難しく、しかも本来の相手は動き回るのである。
その射撃を外せば自分の死が目の前に現れる。
抗うには次弾を素早く装填し敵を倒すしか無い。
それにも失敗するか敵に距離を詰められた場合、戦う術の無い彼女達の最後の武器が逃げ足である。
刃の届く距離からひたすら逃げる。
逃げ切れば、遠間から鉄砲でまた相手を倒す機会が得られる。
「逃げるが勝ち」だから走る。彼女達はひたすら走るのである。




