自由万歳のフレームワーク
南向きの9畳1Kの角部屋はひとりで寝るには広く、ふかふかカーペットに円になって正座をしているおれたち四名の頭を奈古陽介が「たわけぇ」と言いながら何往復も叩き回るには狭すぎる。
「たわけたわけたわけたわけ四たわけが。にゃんでぇ公民館の一室も借りることもできんのんだ。カニだってクリームコロッケになる時代にゃんだぞ」
うれしいときかなしいときくるしいときおこるとき猫になる奈古はにゃいにゃいと騒いでおり、おれの真正面に座っている相田とおりは「公民館の意味って調べたことあっか? 俺っちはない」とおれの左隣にいる八潮ホマレに尋ねて「たぶん暴力団が利用できねえ施設だろ。なあ?」とおれの右隣にいる村中鎌治に賛同を求めて「そうですね、暴力反対です。暴力反対ですよね?」とおれに聞いてきたので奈古に「イエス、暴力反対」と言ったらヘッドロックをかけられた。
「おい、やめいやめい。お子さんの教育に悪い」
「おみゃあらのような怠慢もうたまんにゃいぐずぐずーずの存在のほうがよおっぽど青少年に見せられんのにゃ。このわいせつ物どもめがぁ」
「やめてあげてください、にゃこくん。元はといえば僕たちにレンタルスペースを予約できると期待した君の考えの甘さが引き起こした事態ですよ」
「そうだそうだ、電話予約なんて高度なことができるか」
「秋なのに部屋ナツいっピ。冷房つけて間早っち」
「悪い、おれエコだから」
ヘッドロックを外した奈古はおれたちに被さらない微妙な隙間に寝転び、顔の近くにある八潮の足をくんくんと嗅いだあとで口を半開きにした。そのまま仰向けになる。
「もうだめにゃあ、にゃあにゃあ、フライニャーの文字入れ待ちの柚にゃんもにゃあたちをひとりひとり呼び出してボコボコにするに違いにゃい違いにゃい……」
「安心しろ。そんときはオレが最初に行く。女を殴りかえすんに抵抗感はねえからな」
「そのあと俺っち行く。弱っているやつ殴るのに抵抗なし」
「続けて僕が行きましょう。意識を失っている人を殴るのに抵抗がありません」
「最後におれが通報して終わらせるから、奈古は殴られんよ」
「そんにゃ連携プレイができるなら小劇場を用意するんじゃあ」
おれたちは奈古を囲みながら座り、奈古はおれたちに囲まれながら虚空をじっと見つめていた。村中の発信で猥談を始めたおれたちを余所にキャンプファイヤーでいうところのファイヤーである奈古はうとうとしだしたが、しだいに傾く首が相田の足に鼻が近づいたときに目をカッと見開いた。
「あほうの足は二分の一でくさい……」
「だいたい劇場って本当に必要? 路上でもできる」
「にゃあの天才的な戯曲『出たり入ったり』は舞台から現れたり消えたりするたびに姿から立ち振る舞いまで変わる人間を四人一役で演じて、あらゆる社会に適応しようとして一貫性を欠く自己を問うドラマで、電信柱と電信柱のあいだでやっても話にならにゃあい」
「あーはいはい。ピストン運動ね」
「最悪にゃあ」
「つうか、誇るほど斬新なアイディアでもねえだろ。ある日やってきた死神を新型兵器で撃退した職業女子高校生の中年のおっさんが窓辺で微笑む小説を書いている俺の弟と同レベルだっつうの」
「そうですね。世界でひとつのシナリオブックでないなら、ぼくたちがわざわざやる必要はありません。きっと過去・現在・未来において誰かがやっていますし、公民館の予約がすでに埋まっていたのも同様の理屈です」
奈古は寝たまま体をちびちびと半回転しおれの前に顔を向けて「まはにゃあ」と鳴いていたが鼻に足を近づけてやると目と口を半開きにして「よんぶんのさん……」とつぶやいた。
「親友に頼るなよ。おれはこうして部屋を貸してやっているんだから十分に頑張った。あとはおまえがひとりでどうにかしろ」
「頑張ったんはこんにゃに広い部屋を借りられるだけの仕送りをしてくれたおみゃあのママとパパじゃい。人でなし!」
「ヒトデマン!」
「マントヒヒ!」
「パリティビット!」
八潮はおれに耳打ちした。「パリティビット?」村中もおれの空いている耳を埋めた。「パリティビット?」パリティビット?
何もない場所を凝視していた奈古はいきなり「にゃ」と立ち上がるついでに考えこんでいた俺のあごに拳を入れた。やつは開かれた遮光カーテンの先にある外を指して「うおおおおおおおお」と叫んだ。
「なになに、ルーフバルコニーで変質者が事実を歪曲している?」
猫、じゃない奈古は伸ばした両手の人差し指と親指でカギ括弧を作って、レースカーテンに透けたマンションやアパートだらけのごみごみとした景観を閉じこめた――ように見えた。
「枠にハマった」
南向きの9畳1Kの角部屋では廊下とはべつに玄関の照明をつけることができた。廊下の照明は玄関と部屋の二箇所から操作できる。本日は晴天で昼の一時、レースカーテンは開けていたが遮光カーテンは閉めていた。いかなる明かりも働いていなかったから部屋は日中にもかかわらず暗く、奈古が玄関扉を開けたことで射しこむ光は廊下の奥まで届かなかった。
玄関から見て廊下の右に折れるとキッチン、左に折れると浴室がある地点で相田は玄関の照明をつける。彼はスーツを着て、折り紙で武装した黒い靴下を履き、満面に笑みをたたえている。
「みなさん、仲良くしましょう。先生との約束ですよ」
相田がキッチンに行き、キッチンにいた八潮が廊下に入れ替わりで現れる。彼はボサボサとした頭で裸足にダボダボとしたトレーナーを着ている。
「パパはとっても眠いんだ。おまえも遊んでばかりいないで勉強しなさい」
八潮は浴室に入り、村中が浴室から登場する。彼は肌色のシャツとズボンの上に緑色の縦に長いセロハンを貼りつけてふらふらとしている。
「あーん、わけワカメー」
静寂。そそくさと玄関の照明を消した村中は部屋に直進して壁にやもりのように張りつく。浴室から出た八潮は室内と浴室のあいだにあるトイレの扉を開いてその陰に隠れる。玄関からすこし進んだ奈古が廊下の照明を点灯させ、キッチンを抜けて開いたままのトイレの扉を背に立った先生相田が現れる
「成績が落ちているね。何かあったのかい? 悩みごとがあるなら先生が聞くよ」
背後の扉に押されるかたちで相田はトイレに退場、トイレの扉が閉まると同時に父親八潮が登場。
「どうしてこんな簡単なミスをしたんだ。満点を取れる内容だっただろう」
あげた拳を下ろしてとぼとぼと部屋に入る八潮と立ち替わりにワカメ村中が部屋から廊下に飛び出す。
「ワカメ・ワカメ・ワカメのワルツ」
静寂。部屋にいる八潮が廊下の照明を消してふたたび真っ暗になる。村中はセロハンをしゃかしゃかとさせながら室内の壁沿いに待機。トイレにいる相田は抜け出して部屋奥、ドア正面にあるソファ状態のソファベッドに腰を下ろす。廊下の奥まで進んだ奈古が部屋の照明スイッチに手を伸ばして室内の電気をつける。
「ええ、ええ……彼は確かにあまり成績がいいとは言えませんし、騒いで問題を起こすこともあります。でもそう悲観しないでください。この子はとても足が速いんですよ」
相田はソファベッドを倒して横になりゴロゴロと端まで転がった。ベランダに面した大きな窓とベッドのあいだに落ちて消える。そして照明スイッチのそばに隠れていた八潮が部屋の中央に移動する。彼はベッドやベランダを正面に、部屋の入口に背中を向けている。
「満点を取れない完璧ではない正しくないおまえに生きる価値などなぁい」
八潮は己の背で隠した左手の甲を右手の指先で何度も叩き、室内入口から見て左にはける。
そして交替するように左からワカメが出てくる。
「ワカメは水で戻すと……」
立ち止まることなく右方向にワカメが退場。奈古は照明を消す。そのあいだにワカメは閉ざされているカーテンの右横に、八潮も左横についている。ベッドの縦の長さに身を隠した相田が開いていない側の窓を叩くとき、二人によってカーテンは開かれる――台本になっている。
勢いよくカーテンが開かれ、横たわっている相田、ベッド状態のソファベッド、ラグ、の向こう側に奈古と彼の横に立っている数人の観客が現れる。彼らは壁とカーテンとベッドに囲まれた枠を通しておれを見ている。
ベランダでひとり、半裸のおれを見ている。
ここからがおれにとっての幕開けだ。
「奥さん? 奥さんのことなんてどうだっていいさ。娘さん? あんなのが何になる。すべて体裁のためなんだ。先生になったのも、家庭を築いたのも」
もともと開けていた窓から部屋に入ってベッドで四つん這いになる。何も寝ていない枕をそっと撫でる。
「おれに規範を守る以外の意欲なんてないね。今から君を愛するのも、家庭を顧みずに若くてきれいな女と愛し合うことが男として素晴らしいと羨ましがられるからさ。もしもこれが弱者の行いだと減点されることなら、おれはきみのなかに出たり入ったりしたいとは思わないよ」
そして宙に向かって腰を振る。ベッドをギシギシとさせている最中に、床で寝ていた先生相田が顔だけひょっこりと出す。
「私は違う。人のどこまでも善くありたいという願いを助けるために先生になったんだ」
「なるほど、でも言葉だけだ。足が速いだけの馬鹿と同じ階級にいたくないと考えて貴様は先生になった」
「ぐぬぬ」
先生相田の頭はふたたび床に沈んでいく。そこでカーテンの横に立っていた父親八潮が立ったままおれを見下ろしている。
「なんて汚らわしい。私はこのように欲望を露わにして気ままにふるまう見苦しい人間が嫌いで、自律しようと決めた」
「なるほど、でも言葉だけだ。おまえは自分と子どもの価値をごちゃ混ぜにしている。己の領域のわからないものになぜ自律ができる。なによりすでに下半身が律せていない」
「ぐぬぬ」
八潮は後ずさってカーテンの後ろに隠れる。ベッドの上に残されたおれは空気に腰を押しつけている。
「おれがこの前、とんでもなくひどいことを言い放ってだれかを傷つけたとき、近くにいる仲間に畏怖されたい体面があったから冷笑しただけで、そのだれかと二人きりだったら言わなかったし優しくしただろう。主体性なんてない。意思なんてない。人格なんてない。一生、構造どおりに働く機械だよ。おれもおまえらも人間じゃない」
「ワカメです!」
とつぜんベッドに乗っておれの背中にぴとっと張りついたワカメに腰の動きを止められる。ワカメは掛け布団を頭に被っており、おれも布団に覆われそうになるが片腕で持ちあげて抵抗する。
「やめろ、おれはワカメじゃない」
「人間じゃないならワカメです!」
「よくない。ワカメだけはよくない」
「ルールブックにワカメだけはよくないと書いていないなら、ワカメになりたくないのはあなたの性格です」
「違う」
「枠にはめられたからと言い聞かせれば反省から逃げられるなんて大間違いです。社会があなたに要請したわけではない。仮に要請したとしてもあなたは断ることができた。あなたはワカメです」
「はっはっはっ、禁忌への罰だ」
「あなたもワカメです」
「二人がやられたぞ、しかし俺は」
「あなたもワカメです」
おれたち三人は引きずり込まれるようにワカメが被っている布団に完全に覆われる。そのあいだに二人は急いで服を脱ぎ、窓側のベッド横に落として捨てる。おれは布団の裏に隠していたセロハンを身体に巻きつける。ワカメはベッドの表面を押す勢いで起き上がり、背中だけで掛け布団を弾き飛ばす。
奈古と観客の前に四人のワカメが現れ、無言でソファベッドの前に横一列で並ぶ。ふらふらと揺れて重なったり離れたりするセロハンのしゃかしゃかとした音のなかで声を合わせて終幕。
「ふえるワカメー」
拍手はない。奈古がパチンと照明をつけたところで、外が明るいから大して部屋も明るくならなかったように反応はなかった。しゃかしゃかを止めてセロハンを体にまきつけた無と化したおれたちの端に奈古が加わって観客のほうをくるりと向いた。五人で軽く礼をする。
「本日はご観劇ありがとうございました。代表の奈古陽介です。簡潔にご紹介いたします。この四体のワカメは下手から相田とおり、八潮ホマレ、村中鎌治、間早智聡です。ぼくたちは大学のサークルからあらゆる罪状で追い出された無法者で、劇場すらろくに確保できません。しかし枠にとらわれなければ、いつでもどこでもどうやってでも表現は死なないと思っています。意志さえあれば物語はけっして打ち砕けない強度であらわれる。実現にむかって諦めない発想が閉塞した日常からぼくたちを解き放つのです。つきましては来たる日にこの部屋でこのお試し公演と同様の内容を三公演ほど実施させていただきたいのですがよろしいでしょうか」
両手を後ろに隠してニャコニャコとしている奈古に対し、おれの部屋の隣・上下・斜めに住んでいる奇しくも全員学生の観客たちは「うっせえからやめろ」「全然おもんねえぞ」「管理会社に通報してやる」「金出してないけど返せ」「逮捕だ逮捕」と爽やかな歓声をあげた。
奈古は固めた両こぶしをゆっくりと表に出した。
「にゃるほどにゃるほど、おみゃあらの言い分はよおくわかった。意見の不一致は……暴力で解決するほかにゃあい!」
にゃろうども、のかけ声でおれたち四人も奈古に加勢し、観客五人との殴り合いが始まった。おれと奈古はすぐさまベッドに弾き飛ばされたが、村中が三人を投げて投げて片付けて相田と八潮が一人ずつ倒したので計算上ではおれたちが勝利した。五体の屍を前に五人で円陣を組んで万歳をする。バンザイ、バンザーイ。「勝った、勝った、にゃあたちは自由にゃあ」騒ぎを聞きつけた他の住民からの通報によって公演は中止となり、おれは退去を命じられた。
パリティビット!
ようやく終わった。たたんだ段ボールをミニキッチンの横に立てかけ、部屋の中央で床に丸まって手まりを転がしている奈古の背をぐにぐにと踏んづける。
「にゃにするにゃあ」
「親父に何回殴られたと思う? 五回だよ、観客の野郎にも殴られたし柚にも殴られたから計七回。もう脳細胞が死滅している」
「おみゃあの頭脳が死んでいるのは昔からじゃあ」
「おまえを殺す……」
からだを起こした奈古は目をまんまるにして胸を隠すような構えでじりじりと後ずさったが、すぐにベッドの側面にぶつかった。
「にゃあはこうして部屋を貸してやっているから十分に頑張ったにゃ」
舌を小さくべっと出したあと、奈古はふたたび手まりで遊びはじめた。じゃれていると良い発想がうまれるらしい。おれは奈古とベッドをまたいで午後から閉めきっていた遮光カーテンを開く。見慣れない景色が直視できない赤さで燃えている。
西向き八畳ワンルームの部屋はひとりで寝ても狭いのに、奈古といっしょに暮らすにはさらに狭すぎるが、創造が自由なら有り余るほど広すぎる。