わたしの素敵なパン屋さん
月曜日、すっかり熱が下がった真紘は、元気に、そしてそれは爽やかに「今日は早めに行く」と出勤して行った。わたしはといえば、今日はパート出勤である。マンションの玄関前掃除もそこそこに、さっとメイクをして家を出た。新しく買ったほんのりグレージュのマスカラが、気分を上げてくれる。
しかし、マンションの敷地を出るまでに思ったより時間を食うのが何とも。何せここは広いし、我が家はまさかのペントハウスである。専用エレベーターがあるとはいえ、前は2階建アパートに住んでいた身としては、なかなかどうして慣れない。一階にはコンビニ、目の前にはスーパーがあるが、何かしら買い忘れると結構面倒くさいと思ってしまう。贅沢な悩みだ。
それでも春。新しいマスカラに、新しいワンピースで、うきうきしながらパート先に向かった。
パート先は駅前商店街にあるパン屋さん。気のいいご夫婦が営んでいて、わたしは不定期シフトで朝8時から昼過ぎ3時くらいまで働いている。真っ白な制服があるのもパン屋さんらしくていい。
「おはようございまーす」
「おはよう、灯ちゃん」
奥さんが親しみやすい笑顔で応えてくれる。60代の彼女からすれば、わたしはまだまだちゃん付けで違和感がないのだろう。それがなんだかくすぐったい。
「おはよう」
「おはようございます」
奥から出てきた忙しそうなご主人もやっぱり親しみやすい笑顔で、わたしはすきだ。
「あ、おはよう幸くん」
「おう」
お2人の長男、日出幸くん(26)。何とも縁起のいい名前の彼は、将来このヒノデパン屋を継ぐ後継者である。どこかしらに修行に行っていて帰ってきてからというもの、味や見た目が飛躍的に向上したらしく、今やここはテレビでも取り上げられるほど人気店となった。らしい。
そして、彼もまたなかなかにワイルドなイケメンであった。幸くん目当てのお客様もかなりいるんじゃないだろうか。
そんなことを考えつつ、さくっと制服に着替えて売り場に行くと、そこにはすでにお客様が大勢来店していた。わたしは8時からだが、お店自体は7時半から開いている。パン屋さんの朝は早いのである。ご主人から渡されたパンを並べつつ、笑顔で接客。何とやり甲斐のある職場だろう。ありがたい。
「いらっしゃいませ」
「すみません、塩バターロールはどこですか?」
「ああ、こちらです」
「お姉さーん、カレーパンは?」
「カレーパンはあっちですよ」
忙しい。楽しい。最高に働いている感がある。わたしは昔から接客向きなのだ。次々話しかけてくるお客様を応対しながら、品薄になったパンを補充していく。レジ対応の奥さんも笑顔で忙しそうにしていた。
そうしてあっという間に10時を回り、朝のピークもひと段落した頃、奴はやって来た。
「よう、灯」
「……一真」
霜月一真(31)、件のわたしの元彼である。
「いつもの」
「……自分で取って」
「いつもの」
全く人の話を聞かない。パンくらい自分で取ってレジに行けばいいのに。小さく溜め息を零し「こいつはお客様、お客様」と心中唱えながら、明太フランスとカレーパン、ハンバーガーをトレーに乗せて渡す。
「牛乳も」
だから、自分で取って。グッと堪えたわたしはえらい。
「レジ」
「レジは奥さんが」
「レジ」
う、うわああああぁあ!発狂しそうなんだけど!どうしてくれようかこの野郎!
隠しもせず睨みつけたが、奴はポケットに手を突っ込んだまま、どこ吹く風でまた「レジ」とだけ言った。それしか喋れんのか。
怒髪天突き抜け諦めの境地に達したわたしが肩を落としてレジに向かうと、す、と手からトレーが消えた。え、消えた?
「代わってお伺いします。灯、休憩行って」
「え、休憩?」
早くないか。
見上げてみれば、幸くんが無愛想にそう言っていて、手には一真のパントレーが。あ、もしかして……助けてくれた?
「おい」
「……休憩、いただきます!」
一真が何か言いかけたけど、わたしはありがたく幸くんの言葉に乗る。素早くバックに駆け込んでいった。
「……おまえ」
「どうかしましたか、お客様」
「……いや、何でも」
そんなやりとりがあったとかなかったとか。わたしはもちろん、知らない。
「は────……何なのあいつ」
口からは思わず、そんな言葉が。
真紘には大丈夫だと言ったけれど、実際、1年ほぼ毎日、別れてからというもの一真がパン屋に来る。毎日かどうかは知らないが、わたしが出勤のときはだいたい来る。そして、あれである。1人っ子気質とはいえ、真紘だってそうだし、少しは見習ってもらいたい。同じ真を1文字頂いているというのに、真逆もいいところだ。あと、わたし達はもう別れているんだし、ああいう扱いはやめて欲しい。
「目的がわからん」
「すきなんじゃねえの」
ソファーにぐだっとなっていたら、後ろから幸くんがやって来た。どうやらお店は落ち着いたらしい。
「やるよ」
「え、ありがとう」
缶コーヒーを渡された。さっきといい、無愛想ながらも気が利く男の子である。
「さっきもありがとう」
「おまえも、まだすきなのか」
え、さっきの続き?続くの?
「すきはないかな。別れてもう1年だし、付き合ってたときも……」
今思えば、すきだったかどうか。あの付き合いはおそらく、前世からの既定路線だったのではないかと思っている。
「なるべくしてなったというか、まあ、運命だったというか」
運命という名の既定路線というか。
幸くんは「ふうん」と興味なさげに缶コーヒーを飲んでいた。聞いておいてそれか。いいけども。
「運命とか信じてんの」
「あはは、どうかな。信じてなかったんだけどね」
今もそんなに信じてないが、神様と出会ったことを思い出した今は、全くとも言い難い。そういうこともあるのかもしれない、くらいには信じてもいいかもしれないと思っている。
何を隠そう、わたしはそれに抗うためにここに投入されているのだから。びっくりである。
「歳下、すきなの?」
「歳下?ああ、そうかなあ。長く働いてくれるのは安心だよね」
前世にて1番の不安は将来でしたし。今はもう特に不安ではないけども。やっぱり、経済安定は大事なことだと思う。
「彼氏いんの?今」
「?いないけど」
まさか……心配してくれている……!?え、何かごめんね幸くん……!
「作んねえの?」
「あー……ねえ……」
目が泳ぐ。この感覚は……久しぶりで動揺する……!母の生前はしこたま言われたなあ。
『あんた……あれはやめときなさい。絶対結婚なんてやめときなさいよ。もっといい人いるわよ』
一真をあれ呼ばわりした母を思い出して、遠い目をした。まあ、仕方ない。あれ呼ばわりされても仕方ない男である。
「どういう男がすきなの」
「ぐいぐい来るね」
「いいから言ってみろよ」
「紹介でもしてくれるの?」
「いいから」
どっちなんだ。まあ、いいけど。
「優しくて誠実で浮気しない人かな」
「……当たり前じゃね?」
「だよね」
たはは、と情けなく笑ってしまった。何せ、今まで付き合ってきた男は全員それに当てはまらない。どういうことだ。
「あ、休憩終わりだ。お昼に向けて、またがんばろ!」
「……おう」
何故こんな話になったかはさておき、今日は、幸くんの作った美味しいパンを持って帰ろうと思った。
そんなことまで心配してくれるなんて、ここは素敵なパン屋である。