パフュームデライトその3
「あまり詳しいことは言えないんだけど、うちの会社が企画した商品に関して、花見小路教授にご協力いただくことになったの。」
ワカナの話では、その企画の担当者が人事関係の都合であと1週間で交代になるらしい。そのため、来週以降に、新担当者が資料を持って、花見小路教授に挨拶に行くはずだった。
「花見小路教授が、どうしても早く資料を見たいとおっしゃって……。」
協力を依頼している以上、断れなかったという。
「で、担当者交代に際してのサポートを臨時でしていた私に、これを届けるようにと指示があったんだけれど……。」
「何か問題でもあるんですか?」
「直接の指導教官ではなかったのだけどね。知ってるのよ。“香貴”のことを。」
“香貴”というのは、ワカナのかつての名前だ。
ワカナはうちの大学の理学部を卒業していたのだった。
「仕事だし、自分の問題だし、1人で何とかしないと駄目なのは分かっているんだけど……。花見小路教授、悪い人じゃないんだけど、ちょっと口が軽いのよ。」
かつての自分を知っていて、口が軽い人物。
まだ、1対1で対応するのには、ハードルが高いということか。
「来週以降は、私も担当を外れるから、今回だけなの。本当に悪いんだけど……。」
店内に先にいた男の何人かが、こっちをチラチラ見ているのが目に入る。
ワカナは、あいかわらず、黒一色で統一された服装に身を包んでいる。それだけでも目立つのに、細身で手脚も長く、化粧の巧さも手伝って、中性的な凛とした美人に見える。
声はもともとハスキーで低音の上に、ひそひそ声で話しているため、内容は周りに聞こえていないと思うが、美人が俺に何か頼みごとをしているのはまる分かりだ。周囲の視線が痛い。
「今回だけですよ。でも、無関係の人間が届けたら、変に思われませんか?」
「向こうには、都合が悪くなって私が行けなくなったと連絡する。会社で書類関係をバイク便に頼むことは普通にしてるし、大丈夫だと思う。」
この時は、俺も、そう大したことではないと思っていたのだ。
コーヒーを飲み終えると、早々に店を出ることにした。会計はワカナが支払ったのだが、なんとも言えない嫌な視線が突き刺さるをを感じた。
「お待たせ。どうかした?」
「あ、いや、別に……。」
ワカナは、まったく気にならなかったようだった。
「理学部の建物は分かる?」
「えっと、レポートの関係で、理学部の図書館は利用したことがあるんですけど……。」
基本的に他学部の建物には用が無いので、大体の位置以外、よく分からない。
「そうだよね。私も、医学部や文学部や経済学部なんて、おおよその位置しか知らないもの。」
ワカナは足取りも軽く歩いていく。そして、俺が普段使っていない門から構内へ入っていった。
新学期が始まったばかりの構内は、あちらこちらでサークルの勧誘をやっている。
少なからぬ学生の視線がワカナに向かっているのが分かったが、ワカナ自身は気付いていない。するするとあっという間に通り抜けていく。
理学部は、構内の北側に位置していた。四角い無機質な白い建物が並んでいて、そのうちの1つに向かって進みながら、ワカナはスマホで連絡を取った。
「いつも大変お世話になっております。株式会社アプリコットムーンの堀田と申します。」
ワカナは、本日アポを取っていたが都合で訪問できなくなったこと、資料だけは大学の後輩に頼んで届けてもらうことになったこと、そろそろ到着するはず、であることを話していた。
「すみません。来週から担当が代わりますので、引き続きよろしくお願いしますと、教授にお伝えください。」
俺は、初めて入る理学部の建物を前に、少し緊張しつつ、3階の花見小路研へ向かった。
アプリコットムーン:フロリバンダ、1995年米国作出。花色のベースはクリーミーイエローで中心がアプリコット。