ザ ダークレディその4
声の主のうち1人はワカナだった。あのハスキーな声には聞き覚えがある。
「あんたが、堀田君をたぶらかしているのは分かっているんだ。会社も辞めてしまって……。真面目で優秀な子だったのに。」
光華が言っていたように、中肉中背の、そして確かに額の辺りの髪の毛がやや後退しているように見える中年男が、ワカナに食ってかかった。
「渡良瀬さんは、勘違いされてるんです。とにかく、こんな事やめてください。」
「なっ。何で、私の名を知っているんだ! いよいよもって怪しい。あんた宗教か何かと関わってるんじゃないのか?」
とにかく、止めなくては。俺は、2人の間に割って入り、夜間なので静かにしてくれと言った。
「あんっ、あんた、この女の知り合いかっ?」
「挨拶しかしたことありませんよ。堀田さん、警察を呼びますか?」
「ほっ、堀田だってぇ?」
俺がワカナに、通報するか問うと、中年男は、悲鳴のような声を上げた。
光華と玉子さんも、近くまで来ていた。
ワカナは観念したような顔をして溜息をつき、言った。
「渡良瀬さん、私、今、化粧をしているので分からないかもしれませんが、堀田です。堀田 香貴です。」
「へ? ほっ、堀田君? 堀田君なのか? そっ、そんな……。」
中年男は狼狽し、そのまま、逃げるように帰っていった。
「すみません。お騒がせしました。」
玉子さんの家の客間で、堀田ワカナは俺たちに事情を説明した。
「私、小さいころから、自分の姿に違和感がずっとあって……。」
大学進学を機に、1人で故郷を離れ、そして自分が、性同一性障害と呼ばれる状態であると分かったという。
しかし、両親にも友人にも打ち明けることはできず、大学を卒業した後は、男性として就職。社会人生活をスタートした。
「渡良瀬さんは、最初に就職した先の上司だったんです。真面目で、仕事に対しては厳しかったけれど、1人暮らしの私のことをいろいろ気にかけてくださって……。」
結局、5年間勤めたが、一方で、自分への違和感は増すばかりだったという。
「本当に偶然、他の性同一性障害の人と知り合いになったんです。それで相談にのってもらって。会社を辞め、今のところに転職し、ワカナという名を得て、女としての人生を取り戻したんです。」
最近になって、渡良瀬が、3年もの間、自分を探していたことを知ったという。
「事情を説明できずに辞めてしまっていたので……。それで、渡良瀬さんには、“堀田は幸せに暮らしているので、気になさらないでください”って言ったのですが、誤解されてしまったようなんです。」
今夜、きっと誤解は解けたであろう。しかし、ワカナは、事情をきちんと手紙にして林に詫び状を送ると言う。
「ずっと心配してもらっていたのに、自分だけが不幸だと思っていたんです。ワカナになって、過去とは完全に決別して……。でも、間違ってた気がします。ちゃんと、自分で取り戻した人生を歩んでいるから、大丈夫だと、報告します。」
その2日後、渡良瀬博一は、菓子折りを持って、玉子さんの家に来たそうだ。
渡良瀬にはワカナと同年代の息子がいたのだという。交通事故で、20歳の誕生日の1週間前に亡くなった。当時付き合っていた年上の女性の家に向かう途中だったらしい。
一人息子を亡くした渡良瀬には、就職してきたばかりの堀田香貴青年の、優秀でありながら、どこか自信なさげで、いつも俯き加減な様子が、かつての息子に重なって見えた。
5年間勤めた会社を、はっきりしない理由で突如辞めてしまったことで、何かトラブルに巻き込まれたのに違いないと思い込んだという。
「会社近くで、堀田君、あ、いや、堀田さんか。声をかけられて。てっきり、この女に騙されてと頭に血が上ってしまったんです。それで跡をつけて……。ここの2階に住んでることが分かったので……。」
郵便受けには、部屋番号しか表示されていない。
渡良瀬は、玉子さんに、書類上の性別の件で引っ掛かりがあるかもしれないが、真面目な子なので、このまま部屋を貸してやって欲しいと頼んだそうだ。
ワタラセ:ハイブリッドティーローズ、1977年日本作出。花色は淡青紫色。
香貴:ハイブリッドティーローズ、1995年日本作出。花色はサーモンピンク。