ブラックバカラその5
部屋に戻ってからも、しばらくは、2人とも無言のままだった。
美咲は、所在なさそうに、ライティングデスクに積み上がった本を見ていた。
ぱらぱらとページを捲り、何か気になる記述でも見つけたのか、そのまま読んだりしているようだった。
どれくらい経過しただろう。
突然、外から雨の当たる音が聞こえてきた。
「遣らずの雨か……。」
ふと、口から言葉が零れた。
美咲が、本から顔を上げて、俺の方を見た。
「雨、降ってきたの?」
「ええ、雨です。……帰れませんね。」
今更、何だというのだ。俺はソファーに腰を下ろし、美咲に訊ねた。
「何か面白いことが書いてありましたか?」
「面白いっていうか、宮野君って、こういう本を読むんだなって。」
「レポートのための資料ですから、普段読むような、その、好きで読むような本じゃあないですよ。」
今、積み上げてある本は、主にガーデニングの歴史とプラントハンターに関する本だ。
「もともと植物に興味があったわけじゃないんで。その、ただ、何というか……。」
そう、結局のところ、美咲が、伯父であるアキトさんと処分することを約束していたバラのせいなのだ。
口にすることが躊躇われた。
「じゃあ、あの秘密の花園のせいか……。」
美咲は、ぱたんと本を閉じて言った。
「秘密の花園?」
俺は訊き返したものの、それが、あのサンルームのことであることは、もう分かっていた。
「美咲さんは、今でも、あのサンルームのバラを約束通りに処分すべきだと思ってるんですか?」
そうだとしても、俺にできることはないだろう。今では、あのバラは玉子さんのものだ。
「よく分からない。玉子さんが持て余しているのなら……。でも、文句を口にしたりする割に、楽しそうなんだよね。何か。」
「楽しそう、ですか?」
「うん。そもそもね、アキ兄ちゃんがバラを育て始めたのは、玉子さんと結婚してからなのよ。玉子さん苗字が変わって“星野玉子”になったわけなんだけど、その結婚して割とすぐの頃、ダイレクトメールか何かで、“星野王子”様宛の手紙が届いたらしくって。」
「星の王子さま?」
「そうなの、星の王子さま。それでね、アキ兄ちゃんが面白がって、バラを育て始めたの。最初のバラはレッドライオンっていう真っ赤なバラだった。」
「すみません。その、話が、よく見えないんですが……。何で、星の王子さまから、バラに繋がるんですか?」
「ひょっとして読んだことない? サン=テグジュペリの『星の王子さま』。」
「題名は知ってるんですが……。ないです。何か、大人になると大事なものが見えなくなるとか何とかいう話だと聞いたことはあるんですが。」
なんとなく、男の読む本ではないようなイメージがあって、ちゃんと読んだことはなかった。今度、図書館に行ったら、借りてこよう。何か、ちゃんと読んでおいた方が良い気がしてきた。
「ねえ、これ、ラテン語の教科書?」
美咲は、ラテン語入門Ⅰで使っているテキストを見つけて、訊いてきた。
「そうです。史学科で西洋史に進むと必修なんで。文献読むのに必要ってことらしいんですが。」
美咲は興味深げに、テキストを広げて読み始めた。
「医学部じゃ、ラテン語なんて古くてもう使われてないような言葉、やらないですよね。」
美咲にとっては珍しいものなんだろうと思った俺は、ちょっと卑下した言い方になった。
「よその大学のことは分からないけど、うちの大学では、医学部にラテン語の授業は無かった。使うんだけどね。」
「医学部で、ラテン語使うんですか?」
「だって、学名ってラテン語でしょ。解剖学の用語とか、細菌とか真菌とか、ああいうのの名前、ラテン語だよ。」
言われてみれば、その通りだ。
何か、古臭い、もう、どこの国の誰にも使われなくなってしまった死んだ言葉だとばかり考えていたせいで、どうせ、文献だって日本語訳を読むのだし、無駄なことをしている気がしていた俺は、美咲の言葉にハッとした。
「ちゃんと生きている言葉だったんですね。ラテン語。」
「殺しちゃ駄目だよ。化けて出てくるかもしれないよ。」
「ラテン語のお化け? それは勘弁して欲しいな。試験前にうなされそう。」
部屋の外では、雨が降り続いていた。
ル・プティ・プランス(ローズシナクティフ):シュラブローズ、1999年仏国作出。花色は藤色。
レッドライオン:ハイブリッドティーローズ、1964年英国作出。花色は濃い赤。
サンテグジュペリ:ハイブリッドティーローズ、2003年仏国作出。花色はローズピンク。




