エンジェルフェイスその1
輝くような、あなたの笑顔。
リンゴにアンズ、少し酔うよな甘い香り。
幸せ色の、幼い思い出。
いつまでも、いつまでも。
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『ハイツエグランテリア』の敷地内の生垣で囲まれた、ちょっとしたスペースで自転車の練習をする女の子は、今や、住人のアイドルと化していた。
4歳の誕生日を迎えたその日に祖母からプレゼントされた自転車を練習するためのスペースが近くに無かったため、女の子と母親は、玉子さんのところに相談しにきたそうだ。
瀬戸川凛。彼女は、少し前、年上の遊び友だちとはぐれて、町内で行方不明になった。そして、児童公園の横の桜並木の下で、捜索を手伝っていた202号室の経済学部生、北山康太に見つけられたのだった。
「今の子供用自転車って、補助輪付きじゃなくて、ペダル無しなんですね。」
「私、はじめて見た。」
凛が、自宅から『ハイツエグランテリア』まで押して歩いてくるピンクの自転車には、ペダルが付いていなかったのだ。
「地面を蹴って、バランスを取りながら乗る練習を繰り返すと、早く慣れるらしくって。」
凛の母親が、そう言った。
「これね、けったましって言うんだよ。」
凛は、大きなヘルメットを被り、肘あてや膝あてを着けて、なかなかの重装備。そして、誇らしそうに、愛車の説明をした。
「あぁ、ケッタね。」
「ケッタって何?」
「自転車のことですよ。ケッタとかケッタマシンとか。方言なのかな? 自分たちじゃあまり使いませんが、親は使ってましたよ。『ケッタ、端に寄せとけ!』みたいに。」
凛は、真剣な表情で、自転車に跨り、両足で蹴っては、少しずつ進む。時々、左右に揺れそうになりながらも、そのたびに、足を着き、そして、また同じ動作を繰り返した。
「凛ちゃん、上手!」
光華に声をかけられて、凛は、嬉しそうに顔を向けた。と、バランスが崩れかかる。
「町田先輩、邪魔しちゃ駄目ですよ。」
「ごめん。凛ちゃん、も1っ回やって! ね、も1っ回!」
凛は、頷いた。そして、車体を真っ直ぐに直してから、また、両足で地面を蹴った。視線は正面に集中し、周りはよく見えていないようだった。
母親は、自宅に練習スペースが無いものの、車道で練習させるの危険と考え、近所をあちこち見てまわった後、しばらくの間だけ、必ず親が付き添うという条件で、玉子さんに場所の提供を依頼した。
行方不明になる前に、凛は、何人かの子供たちと共に『ハイツエグランテリア』敷地内を勝手に“遊び場”にしていた。その事もあって、母親は、かなり迷ったようだが、結局、娘の安全を第一に考えたのだ。
玉子さんの方でも、凛が1人、年上の子供たちから置いてきぼりにされている様子を目撃しており、気になっていた。
行方不明騒ぎの後、凛は、両親に連れられて、『ハイツエグランテリア』の住人、特に発見者となった康太に礼を言いに来たのだが、その時も、しっかりとした調子で、『ありがとう。』と『ごめんなさい。』を口にした。
その様子を見て、玉子さんは、特別に敷地内での練習を許可したのだった。
まだ、体型的に頭が大きく、ちょっとしたはずみでバランスが崩れる。今日も、何回か、車体ごと倒れて、膝などぶつけているが、凛は、集中力があるのか、泣きもせずに、何度もチャレンジしていた。
そして、1時間ほど練習をすると、きちんと挨拶をして、ピンクの愛車を押しながら、母親と自宅へ帰っていった。
「もう少しで、ペダルを付けられるようになりそうね。凛ちゃん、頑張り屋さんだ。」
玉子さんは、すっかり感心している。
平日の午後に、練習に訪れることが多いため、社会人である入居したばかりの201号室の住人と203号室の堀田ワカナ、そして、かなり忙しいらしい301号室の医学部生は、立ち会うことがなかったが、玉子さんや光華、康太の3人は時間を都合して見守っていた。
俺も、講義とバイトの時間の合間に、様子を見に行くようになっていた。
エンジェルフェイス:フロリバンダ、1968年米国作出。花色はラベンダー色。
北山:ハイブリッドティーローズ、1994年日本作出。花色は白地に薄いピンク色の覆輪。




