桜霞その1
桜、闇夜に浮かぶ白い雲。
ほのかに明るく光る薄灯り。
春を導き、風を纏い、儚く溶ける、霞の名残。
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「タマちゃん、ここ2、3日の間、ちょっと元気がないんだよね。」
「何かあったんですか?」
「よく分かんない。これまでも時々、旦那さんのことを思い出してふさぎ込んだりしてたけど……。」
玉子さんの夫のアキトさんは、2年前に病気で亡くなっている。
玉子さんは、アキトさんが残したという大量のバラを引き継いで、サンルームで育てているのだ。
「また、アブラムシが発生したとか……。」
「それはない。もし、アブラムシなら、大騒ぎしてるはずだもん。虫苦手だから、タマちゃん。」
玉子さんの姪で、俺の大学の先輩である町田光華は、伯母のことを“タマちゃん”と呼ぶ。
バラはいろいろと手間がかかる植物で、俺は、その手伝いとして、光華に呼び出されること数回。アブラムシ退治にも駆り出された。
「アブラムシ退治くらいなら、手伝えますが……。」
「あまり考えたくないけど、見つけたら、宮野君に頼むよ。牛乳は用意しとく。」
「外に出して、やりましょうね。」
先日は、アブラムシ退治に牛乳を使ったせいで、えらい目にあったのだった。
今週は、2年生から参加できるゼミの見学のため、予定は少しばかり立て込んでいる。
3年生の光華は、同じゼミに入るよう勧めてきたが、ゆくゆくは卒論に繋がる選択なので慎重に検討したいところ。
学食で、昼食をとりながら、予定を確認していたところに、その光華が声をかけてきたというわけだ。
「タマちゃんのことは、とりあえず置いといて。ねぇ、うちのゼミ、絶対お勧めだから。」
「先輩方は、同じこと言いますよ。」
実際、光華以外にも、自分の入ったゼミを勧めてくる先輩は何人もいるのだ。
曰く、『うちのゼミに入ると、就職に有利。』『教授が熱心だし、ゼミ合宿も楽しい。』などなど。逆に『あまり忙しくないゼミだから、負担にならないよ。』なんていうのまである。
まぁ、就職に関しては結構切実ではあるんだが、大学時代は、自分が興味があることに集中してみたい気もする。
その辺の折り合いがうまく付けられそうなところがいいのだが、果たして、見学予定のゼミに、あるだろうか?
今日は、2つのゼミを見学予定にしていた。
赤城英輔教授の西洋文化史ゼミ。文字通り西洋史における文化、美術や音楽、あるいは大衆文化といったものを研究するゼミだ。
そして、三笠健次郎教授のイギリス中世史ゼミ。まぁ、こっちも文字通りだ。
2年生は、プレゼミ扱いであり、履修届の期限は再来週までになっている。それまでに、いろいろ考えねばならない。
単に歴史が好き、もしくは面白いということで進んできたものの、テーマを絞るとなると、何がいいのか、悩むのだ。
同じ文学部でも、日文科に進んでいる友人などは、かなり初期からテーマを決めている、というか好きな作家がいたりするので、あまり悩んだりはしないようだった。
「何か特別にやりたいテーマとかあるの?」
「それなんですよね。1年の最後の振り分けで、西洋史を選択したんですが、国単位でというより、欧州全域に渡った文化交流的なものの方が面白そうで……。」
「なのに、三笠教授なんだ。」
「まぁ、人気ゼミなんで、一応。」
光華は、手元の資料に付けられた印を見て、どこに見学に行くか分かったようだった。
「宮野君、第2外国語はドイツ語選択だったでしょ。ドイツいいよ。滅茶苦茶でさ。大事なところで、いっつも負けちゃうし。」
「それ、全然、良くないじゃないですか。」
光華は、ドイツ近現代史ゼミをアピールしようとしているらしかったが、かなりズレていると思う。
俺は、時間になったので、荷物をまとめ、光華に手を振ってみせた。
桜霞:フロリバンダ、1990年日本作出。花色はピンク。
赤城(レッドラディアンス):ハイブリッドティーローズ、1916年米国作出。花色は赤。
三笠(ラ・トスカ):ハイブリッドティーローズ、1901年仏国作出。花色はピンク。




