パフュームデライトその4
3階まで階段を昇っていき、ドアのプレートを確認しつつ廊下を歩く。
有機化学第3研究室、通称、花見小路研は、奥から2つ目の部屋のドアが開けられていた。
「失礼します。あの、株式会社アプリコットムーンの堀田から、こちらに届けるよう封筒を預かってきたのですが。」
部屋の中にいた秘書が、入口の手前まで来てくれた。
「連絡はいただいてます。はい。確かに。」
秘書は、受け取りのサインを書いて、紙を渡してくれた。
はぁ、終わった。やっぱり他学部は勝手が違うし、緊張するな。と、ちょっと気を緩めていたところ、40代前半くらいの男が部屋を覗き込んできた。
細いストライプの入ったワイシャツに紺の無難なネクタイ。グレーのスーツ姿だった。
「君が堀田さんの後輩?」
「はい。えと、文学部2年の宮野です。」
「え? 文学部なの? そうか、てっきり堀田さんは理系だと思ってたんだが……。あ、ここの責任者の花見小路だ。」
花見小路教授は、気さくな人柄のようだった。当然のように右手を差し出してきた。
「え? あ、すみません。封筒を届けて欲しいと頼まれただけで、詳しいことは知らないんです。堀田先輩、どうしても訪問できなくなったみたいで、謝っておいて欲しいと……。」
「そう。逃げられちゃったかな? 来週から担当外れるってメールが来たから、無理を言って、資料を届けてもらうことにしたんだが……。」
「え?」
「堀田さん、1か月だけの繋ぎで、メールのやり取りだけだったんだけど、むしろ、前任者よりしっかりしててね。優秀だし、化学の知識もあって。何とか、来月からも引き続き担当に残ってもらえないかと思ってたんだ。」
あぁ、そういうことだったんだ。そりゃ知識はあるんだろうね。具体的なことはよく分からないけど。ワカナ、学生時代は“香貴”だったが、理学部卒なわけだし。
それどころか、この人、“香貴”を知ってるんだっけ。
ワカナの方も、この花見小路教授を知っている。きっと、専門分野は何とか、……論文とかも読んでるんじゃないのか?
おまけに、前の会社の上司だった人物にも、優秀だったと言われていた。
「堀田先輩、あ、堀田に伝えておきます。」
「そんなに慌てなくていいよ。この後何か用事でもあるの? 宮野君。」
「あ、いえ別に……。」
「ちょっと待ってて。」
花見小路教授は、一旦、隣の部屋に入り、そして何かを手にして戻ってきた。
「これさ、堀田さんの会社と共同で研究してるもののサンプル。宮野君、使ってみてよ。感想を教えて欲しいんだ。」
「いいんですか? その、企業秘密的な……。」
「ああ、これは、もうOKが出てるやつだから。それに、君、ここの学生なんだろ? 堀田さんとも知り合いだし。」
ワカナは、花見小路教授のことを『ちょっと口が軽い』と言っていたが、ノリも軽そうだった。
断るのも変な感じだったので、サンプルを受け取った。
「男性用のフレグランス、オーデトワレのタイプで、ライトな香りだから使いやすいと思うんだ。」
「え? あ、何か臭います?」
まさか、まだ牛乳臭かったのか? 俺。
慌てて、腕のあたりを嗅いでみる。
「いや、そうじゃないよ。堀田さんの会社、君たちみたいな若い男性にも使ってもらえる手軽なフレグランスを開発中なんだよ。」
「そうだったんですか。本当によく知らないんです。あ、でも、ホッとしました。まだ、牛乳の臭いが残ってるのかと思って……。ははは。」
「牛乳の臭い?」
俺は、例の、アブラムシ退治について話す羽目になった。
「所謂、“牛乳臭さ”の原因は、アルデヒド類や脂肪酸類によるものだね。牛乳は栄養価が高いために雑菌の繁殖を招きやすいんだ。雑菌の活動によって臭気成分が増加するんだが、特に脂肪酸類は少量でも臭気が強いものだから……。」
「え~と?」
「まぁ、よく洗い流すことだね。あと、衣服の方が臭いが残りやすいけど、綿製品だったら40~50℃の湯で酵素系漂白剤を使って洗い、よく濯いで、日光にあてて干すといいよ。熱に弱い材質のものでなければ、煮ちゃうっていう手もあるんだけど。床やじゅうたんに牛乳をこぼしてしまった場合は、重曹水が有効だね。」
「そもそも、牛乳でアブラムシって退治できるものなんでしょうか?」
「牛乳が乾くと、アブラムシの体表がコーティングされて窒息するんじゃなかったっけ? 効果はなくはない、かな?」
とりあえず、服の洗い直しは決定した。




