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江戸消失  作者: 輝井永澄
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第6話 江戸の中へ

 眼前にそびえる「雲」を見上げる源之丞の背筋に、ぞくぞくとするものが奔る。


 箱根の峠で目にしてから、東海道を上って横浜に辿り着くまでの間、常にその地平の先にあったそれだ。根本まで来て見上げるその大きさ、その迫力。頭上に、そして南北に――見渡す限りの白い壁。視界を覆いつくすほどの巨大さには、およそ現実感というものがまるでない。


 当時の横浜は、江戸に住む旗本の領地が入り組んでいた。源之丞の周囲には、ぽつぽつと家屋、それに林が立ち並ぶ以外は田畑が広がる。


 村人の姿はなかった。きっとこの「雲」を恐れて逃げたのであろう。静まり返った田畑の中を、人影がひとつだけ、ふらふらと――恐らくは精神に異常を来した男が、横切っていくのが見えた。


 無理もない――源之丞はなるべく「雲」の全容を捉えようと目を凝らす。書物や物語の中でさえ、このようなものは聞いたことがない。



「近くの代官所はどうしただろうか……」



 旗本領には代官屋敷が置かれ、江戸にいる旗本に代わり、代官が年貢を取り立て江戸へと送る。江戸からなんらかの動きがあれば、そこに詰める者に報せが入っているはずだ。


 源之丞がここに来るまでに、具体的な情報はなにも得られていない。前の宿場――戸塚宿や保土ヶ谷宿でも、みな不安そうに首を傾げるだけだった。宿場には武士もいたが、江戸から来たという者は誰もいなかった。だとすれば――


 源之丞は「雲」へと向き直る。元々そのつもりだったが、やはりやらねばならない。


 あたりを見渡し、近くの納屋に立てかけてあった長い竹竿を拝借する。それを小脇に構え、先を「雲」の方へと向ける。



「さて、鬼と出るやら蛇と出るやら……」



 どちらに出ても、得られるものはあるだろう――誰も知らない情報は、自分が知ればよい。


 ゆっくりと、源之丞は「雲」に向かって歩みを進めた。その歩みにあわせ、竿の先が揺れる。その先には白い壁がそびえる。


 近づいてみれば、それはやはり雲のように見える。わずかに揺らめいているようでもあった。歩みを進めるにつれ、霧に包まれたように視界が悪くなっていく。明確な境界を感じることもなく、源之丞はいつの間にか、その「雲」の中に突入していた。


 歩みを進めるごとに、視界は悪くなる。もはや手に持った竿の先さえ、よく見えなくなってきていた。今のところ、その先に触れる感触はない。しかし、竿を持つ源之丞の身体は、異様な感覚を訴えていた。こめかみにジンジンと響き、胃袋を押し上げるかのような圧力(プレッシャー)。雲そのものが重さをもってのしかかってくるかのようだ。



「……たまらぬな、これは……」



 股間にぞわぞわとヒリつくような感覚が奔る。源之丞の鼻が、生臭いような、青臭いような、妙な臭気を嗅ぎ取る。火薬や硫黄などとも違う匂い――現代で言えばそれはオゾン臭とでもいうべき匂いだったが、源之丞にはそれと知れるはずもない。


 こみ上げてくるものを抑え、源之丞はさらに歩みを進めた。こめかみを抑えられるような感触は脳髄にまで響き、口からは内臓が飛び出そうだ。心臓が激しく脈打つ衝撃が、指先にまで響いて、外界からの圧とせめぎ合っていた。もはやここまで、引き返すべきか――そう思った、その瞬間だった。



 ――パシッ!!



 構えた竿の先端が、強力な力で弾かれた。



「なっ……!?」



 小脇に抱えていた源之丞の身体も一瞬、持っていかれそうになる。驚いた源之丞は足を止め、竿を引いた。



 ――なにか、ある――?



 呼吸を落ち着け、先ほどの感触を思い出してみる。


 固体ではなかった。竿は斜め上へと弾き飛ばされるようにして、跳ね上がったのだ。鳴門の渦潮に竿を突っ込んだら、似たような感覚だろうか。


 源之丞は、雲の中に目を凝らす――竿の先が裂け、弾け飛んでいた。もう一度、竿を前に構え、今度は先ほどよりも大股に踏み込み――槍のようにして、竿を突き出す。



 ――バシィッ!



 またもや、竿が弾かれる――だが、今度は先ほどと逆側へと、水平に弾かれた。その勢いに、竿の先が折れて飛ぶ。



「どういうことだ……?」



 源之丞は折れた竿の先を見詰めながら呟いた。恐ろしい力ではあった。しかし、それは例えば、突き出した槍を横から叩かれるような感触とも違う――まるであの雲の奥に、()()()()()()()()()()()()()()()()()、そんな感触だったのだ。


 源之丞は竿を捨て、目を凝らす――視覚だけではなく、聴覚も、触覚も、五感を一点に集中し、雲の奥のその「壁」を見る。


 ――確かに、そこにはなにかが存在していた。曇った視界の向こう側、実体は見えなくとも、なんらかの「力」があることを、源之丞は明確に理解する。


 源之丞は腰を落とし、左手で腰の刀の鯉口を切った。


 呼吸を整えながら、じりじりと足を前に進める。右足を前に、左足を後ろに置いた姿勢のまま、半歩ずつ足を前に、その顔と重心をまっすぐ雲へと据えたまま。そのまま一間ほども進み、源之丞はその「壁」を間合いの内に捉えた――



 ――カッ!



 次の瞬間、放たれる雷鳴の如き抜き打ち。充分に溜めを作った足腰から、解き放たれた鋼鉄の刃が深々と、その「壁」に斬り入った――はずだった。



「……折れた、だと……?」



 源之丞は右手の中に残ったものを見ながら、唖然とした。その刀身が中ほどから消え失せていた。


 渾身の斬撃だったはずだ。大木でさえ斬り倒せただろう。だが――源之丞が斬りつけたのは大木でも、巨岩でもなかった。硬いものに当たった感触はない。足元を見れば、そこには折れた刀身が地に突き立っていた。


 源之丞は雲の中で立ち尽くす。



「……どうにも、ならぬ……か」



 それは、考えないようにしていた可能性――この雲がやはり、人智の及ばない強大な、それこそ天変地異とでも言うべきものであること。そして、江戸に入ることも、出ることもできないということ。


 手裏剣を投げてみようかとも思う。しかし、結果は変わるまい。きっとただ、手裏剣を一本失うだけだ。長刀が折れた以上、他の武器を浪費するべきではない。なにしろ源之丞は――


 そこまで考えて、源之丞は気が付いた。雲の中に、何者かの気配がある。



「……刺客が……」



 源之丞は唇を噛んだ。雲に入る前までは、確かに警戒をしていたはずだったのだ。目前の異常さに気をとられ、今まで気が付かなかったのは迂闊としか言いようがない。こういう時だからこそ、襲うのが刺客ではないか。


 気配を探りながら、手裏剣を手に構える。正確な距離がわからなければ手裏剣も打ちようがないが、それは向こうとて同じ条件だろう。刀を失ったことは知られただろうか――


 複数の気配の間を、縫うようにして源之丞は静かに移動した。あの「壁」に追い詰められるのは避けなくてはならない。気配の動く先を察知しながら、源之丞は静かに、稲妻形(ジグザグ)に走る。どうやら、向こうも雲の中で仕掛けようとはしていないらしい。だとすれば――



「…………!」



 目の前の霧が晴れた。新鮮な空気が肺に流れこみ、陽の光が目にかかる。白い陽光に照らされるその下に、何人かの見知らぬ顔と、ひとつの見知った顔があった。



「よう、源之丞。雲の中はどうだったね?」


「土橋……!」



 旗本小普請組の同僚、土橋左門が抜身の剣を手に提げ、そこに待ち構えていた。

元ネタを知っている人には竿はお馴染みです(小説版)

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