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江戸消失  作者: 輝井永澄
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第3話 箱根関の巫女(1)

 箱根の関所は既に騒ぎになっていた。普段なら門の前で列を作り、大人しく自分の番を待つ旅人たちが、今日ばかりは口々になにかを喚いている。



「静まれ! 静まらんか!」



 番士の足軽は大声を出すが、人々は収まらない。どうやらあの「雲」の話が既に広まっているようだ。



「江戸はどうなってんだ!」


「お上はなにをしてるんだ、まったく、年貢ばかり取り立ててこういう時に役に立たねぇな!」



 人々は口々に騒ぎ立てる。番士に詰め寄る者、顔を見合わせため息をつく者、お互いにいがみ合う者、それぞれが正体のわからない事態に苛立ち、その矛先の行き場所を探しているようだ。


 彦右衛門がその喧噪の後ろで、商人風の男に声をかける。



「これは一体、どういう騒ぎになっているのだ?」


「ああ、これはお侍様……」



 商人は振り返り、首を横に振る。



「あたしもねぇ、なにがなんだかわからねぇですが……なんでも天変地異だのこの世に終わりだのってみんな騒いでるんでさぁ。あたしらはこんなにぴんぴんしてるってのにね」


「ふぅむ……」



(ここにいる者のほとんどは、あの「雲」を実際に見たわけではないのだろうな)


 彦右衛門と商人とのやり取りを横目で見ながら、新之助は考えた。


 人の往還の激しい箱根関のことだ。峠越えの途中でそれを目にした人々の口から口へ、あの雲の異常さだけが伝えられているらしい。情報が少ないほど人は不安になる。


 商人がため息交じりに話を続ける。



「江戸の人間は全員死んだなんていうやつまでいてねぇ、さすがにそれはねぇだろう、って言ったんですが……」


「……なんだと!?」



 つい前のめりになる彦右衛門に、商人は肩をすくめた。



「そんな怖い顔されたって困りますわ。あたしだってなにもわからないんでしてね」


「む、むぅ、そうか、すまぬ」



 話を切り上げ、戻ってきた彦右衛門に新之助は声をかける。



「……想像もしたくないなぁ、江戸の人間が皆死んだなどと」


「全くでござる! ええい、腹立たしい」


「誰に腹を立てているのだね?」


「誰にでもござりませぬ!」



 相変わらずせかせかと落ち着かない様子の彦右衛門に思わず笑い、新之助は空を見上げた。時刻はそろそろ昼も過ぎる。もしまだ日の無い内になんらかの異変があったとして、すぐに早馬が出ればそろそろ箱根関に着く。


 だが、見たところそのような気配はない。江戸から音沙汰がなにもないとなれば――峠で彦右衛門に天岩戸の話をしたのは新之助自身だが、もし本当に江戸の幕府が消失_・・するようなことになったら――


 空には雲一つなく、風は穏やかにそよぐ。しかし、大地と人との間は不穏な空気に満ちていた。峠を越えて江戸の方角から漂って来る風に、皆あてられたかのようだ。



「……いい加減にしやがれ! この木っ端役人め!」



 ――突然、大声が響いた。見れば、ひとりの男が番士に喰ってかかっている。



「ぐずぐずしてねぇで、さっさとここを通せってんでぇ年貢泥棒が!」


「改めは尋常に行うと言っておるだろう! いいから大人しく順番を待て!」



 男は町人風の旅装束だが、その髷を高く結い、小袖には凝った刺繍が施されている。斜に構えた態度と言葉遣いも、無頼を気取る江戸の若者といった風のそれだ。



「さっきからそんなこと言って、全然進まねぇだろうがぃ! おめぇさんたち、なにか隠してるんじゃねぇのかぃ?」



(言いがかりだな)


 新之助は人知れず肩をすくめた。関所の改めには元々、時間がかかるものだ。この男は張り詰めた空気にあてられ、誰かを責めずにはいられなくなっているのだろう。場の空気に乗るのを粋とするあのような輩は、特にそうなりやすい。



「てめぇら役人どもはいつもそうだ! 大方、向こう側に行かれるとなにか、都合の悪いことがあるんだろう。その『雲』ってやつも、お上がまた民から搾り取るためになにかしようって……」


「やかましいと言っておるだろう!」



 番士がその手にした棒で男を突き飛ばすと、男はみっともなく尻もちをついてその場に転がった。



「……まずいな」


「ええ」



 新之助と彦右衛門は囁き合った。あの手の輩は、なによりも自らの体面を気にする。ああして尻もちをつかされては収まらないだろう。それも、自分たちが日ごろ粋がり、虚仮にしてみせている下級役人が相手なのだ。命を賭けてでも突っ張り通さねば、引っ込みがつかない。


 今、ここで血の雨が降りでもすれば、混乱は恐慌へと至る――新之助は、張り詰めた空気を肌に感じながら前に進み出ようとした――



「はいはい、どちらさんもそれくらいにしときなよ!」



 ――と、その瞬間に別の方向から声が響いた。


 芯が張ってよく通る、それでいて軽やかな声。その声の方向を見れば、それは小柄な女――藍染の小袖の裾を高くからげた下から、朱の襦袢の裾を蹴って大股で歩く若い女である。


 女の髪は簡素にまとめられていたが、こうがいには凝った装飾が施され、丸く端正な顔立ちを引き立たせていた。その白い肌の中に納められた、形のいい唇ときりっとした太い眉が、それはよく動く。



「天変地異だか弁天様だか知らないが、大の男どもが喚き散らすほどのもんなのかい? 祭りの晩でもあるまいし、焼いて喰えもしない尻もちなんざ、ついても誰も得しやしないよ!」



 滔々《とうとう》と叩き込まれる啖呵に、男は呆気にとられる。女は番士に対しても向き直り、眉を寄せて見せる。



「こちらもなんだい、お侍なんてのは穀潰しなんだから、せめて堂々としてなってんだよ。チンピラ相手にムキになるのがお役目じゃないだろう? どうせ改めは受けるんだからね、粛々とキビキビと、進めてもらおうじゃない。こちとら天下の庶民様だ、逃げも隠れもしやしないよ」



 そして女はまた振り返り、男に手を差し伸べる。



「お上が嫌いなのはあたしも同じだけれどね、木っ端役人に転ばされて懐のものを抜くんじゃ、そいつぁ粋がり方の間違いってもんさ。ほれ、ここはこの新田のお糸さんの顔を立てて、大人しく立ってくんなよ」


「あ、ああ……」



 すっかり毒気を抜かれて、男が立ち上がった。番士がそこへ声をかける。



「すまんかったな。なにぶん、こちらも何事か混乱しとってな」


「ああ、まぁそうだよな」



 男は女の方に顔を向ける。



「あんた……お糸さん、かい。いやぁまったく見事な口上だった。さっきの尻もちはあんたにつかされたってことにすらぁな」


「調子のいい野郎だねどうも!」



 小柄な女――お糸が男の肩を叩くと、そこで人々が笑った。



「……これは出遅れて正解だったかな」


「当然でござります」



 思わず新之助が呟くと、彦右衛門がぶすっとして応じる。



「ああした者たちには、ああした者たちなりの収め方というものがございます。力で抑えれば反発を招く。新之助様も、参考になされるとよろしい」


「うん、いいものを見たよ」



 新之助はそう言って、お糸の姿を目で追った。お糸は、連れらしい別の男女のもとへと歩み寄っていく。



「お嬢、ご苦労でした」



 股引き姿の男が頭を下げると、お糸はその頭をぺしっ、と叩く。



「ご苦労でしたじゃないよ佐吉! 男がぐずぐずしてなんだい!」


「だ、だって気が付いたらお嬢が……」


「うるさい!」



 お糸がもう一度男の頭を叩くと、傍に立っていた巫女装束の少女がふわりと笑った。



「ああもう、恥ずかしいとこ見せちゃったな」



 お糸は先ほどまでの威勢を恥じるようにして頭を抱え、笑った。出で立ちこそ男勝りの女侠客風であるが、その姿は花も恥じらう年頃の乙女といった風だ。巫女装束の少女が、目を糸のように細めて柔らかく声をかける。



「お糸さんは、流れに身を任せることをよしとしない方なのですね」



 お糸は少女のその物言いに、少し小首をかしげた。



「流れに……? よくわかんないけど……まぁ、気に入らなかっただけさ。大層なことは考えてないよ。あんただって、自分が嫌だと思ったらそう言やいいのさ」


「……巫女は因果の流れの中に身を置くのが務めですから」



 なんとはなしにそのやり取りを眺めていた新之助は、ふと、巫女の少女のその物言いが気にかかった。



(因果の流れ……)



 新之助はその一行に声をかけてみようかと、足を踏み出す――と、ちょうどその時、一人の農夫が巫女の少女の前に立った。



「もし……あなた様は、祢津の歩き巫女様ではございませんかのう?」



 巫女の少女が黙ってその言葉に頷くと、農夫はありがたがって手を合わせる。



「こんな天変地異の最中で、祢津の巫女様に会えるとはなんと幸運なことじゃ……よろしければ一体何事が起きているのか、託宣をお授けくださりまし」



 手を合わせる農夫に呼応するように、何人かの旅人たちが集まってきて少女に手を合わせ始めた。



「おいおい、芳乃様は見せもんじゃねぇぞ! 散った散った!」



 佐吉、と呼ばれた男が手を振りながら言うが、少女を拝む人々は増える一方だった。思わず大声を上げようとした佐吉を手で制し、芳乃、と呼ばれた少女が前に進み出る。



「こうなることはわかっていましたから」



 芳乃、と呼ばれた少女が静かに言った。


江戸っ子が啖呵切るセリフは書いてて楽しいなあ。あ、お糸さんは川口春奈さんでお願いします。

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