青春アゲイン
オール讀物新人賞で、一次通過させていただきました作品です(投稿の際の名前は違いますけど)。
お暇つぶしにでもしてください。
1
荒木涼平三十八歳、高卒サラリーマン既婚で、特に趣味もなく最近ビールの飲みすぎか腹が出てきたのが悩み、というと掃いて捨てるほどいるであろう典型的平均値の中年に片足を突っ込みかけたただの成人男子なのだけれど、娘が二十歳だと言うと一瞬その場の空気が固まる。
再婚女につかまったのかとか、連れ子か親子丼か、なんて下衆な話題を振られてしまったりもするのだけど、うちの娘は正真正銘俺の娘だ。
嫁さんはひとつ年上の三十九歳。当たり前だがうちの嫁なので、二十歳の娘は彼女が産んだし、二十歳の娘がいるのに嫁はまだ三十代だ。いわゆる、できちゃった結婚で。俺はまだその時高校生だった、嫁は大学浪人中だった。なにを浅はかなことをして! と親達からは天地がひっくり返るほど怒られたが、授かった子供を堕ろすという選択肢は誰も持っていなかった。後から、嫁は若い頃から――十九歳と言うのもとてつもなく若いんだが――生理が重くて、子宮の具合があまり良くなかったらしい。子供は産めないかもしれないと言われていたところに俺が妊娠させてしまったのだから、実は嫁の両親は結婚前の妊娠に呆れたものの、どこか少しだけ嬉しかったという。
無事に生まれた娘はすくすくと大きくなり、嫁はその後妊娠することがなかった。夜の営みがなかったわけでもないのに。それなりに、ふたりして頭を突き合わせて、排卵予定日がどうのだとか基礎体温がどうのだとか、妊娠しやすい身体になるための食べ物だとか、妊娠させやすい精子のためのサプリメントなんかを摂取してみたにもかかわらず。
「涼平くん、今日晩ご飯ないからね」
朝ご飯は納豆と味噌汁と、目玉焼きとウィンナーだった。キュウリとトマトもスライスされて、皿に乗っている。忙しいときや気分が乗らないときは食パン一枚だったりするけれど、毎日毎日特に文句も言わず作ってくれて、ありがたいことだ。こちらがまったく料理ができないのもあるのだろうけど。
「おや、俺はなにか実咲さんを怒らせましたかね」
「怒られるようなことしたの?」
「してない」
「でもあたしのスケジュールは忘れてたのね、今日夜勤だよ」
「ああ、お疲れ様です、行ってらっしゃい」
「なに言ってるの、先に出るのは涼平くんだよ」
うちら夫婦は子供が産まれてからも、互いを名前で呼び合っていた。きっとじいさんばあさんになるまでそのままなんだろう。
嫁の実咲さんは娘を出産後、バリバリ働いて勉強をして介護の資格を取った。今も介護施設で結構偉い責任者さんになっているようだ。コーヒー飲む? と聞かれて、うん、と頷く。
「え、飲むの?」
「なに、ないの?」
「インスタントでいい?」
「なんでもいいけど、え、ないとかなら飲むかって聞かないでよ」
「いらないっていうかと思ったから」
「なんでそう思ったの」
なんなんですかうちの嫁、と言うと、実咲さんがきゃらきゃらと笑った。できちゃった結婚なので、夫婦になって二十年が経つ。友達や同僚なんかは、新婚さんで子供が産まれたばかりで、なんていうのも多いけれど、うちの子育てはもう遠い昔の話だ。子育てというより、うちらの親が必死に孫育てをしただけかもしれないが。
なんなのもう、と言いながらも、ふざけたような嫁の態度はいつものことで、こちらもそれが嫌いではなく、ふんふん怒った振りをして手元にあった新聞を開いた。特に見たい番組があるわけでもないのに、習慣なのかなんなのかついテレビ欄を眺めてしまう。
「あっ、」
「え、なに、涼平くん?」
しかし、あると思ったテレビ欄はなく、今日のスマイルさん、という独身女性のインタビュー記事がそこにはあった。笑顔の写真が載っていて、その周りを「あげます」「ください」「募集のお知らせ」「今日のイベント」などが囲っている。「本日の眼科緊急医」のお知らせもあったので、ん? と顔を上げた。眼科が午後休診なのは、水曜日だ。
「これ、一昨日の新聞だし、」
タウンタウン、という名の地域情報誌だし。なんか気になる記事でもあったの? と聞いてみる。
お弁当を詰めてくれているらしい嫁が、流しのところで振り返った。
「なに見てるの、あ、タウンタウン?」
「うん。一昨日の」
「涼平くんにいいのあるじゃん、って思って引っ張り出したの、っていうか、職場の人から聞いて」
「なに?」
「募集のお知らせのところ」
「うん?」
右上の記事を見る。募集のお知らせ、という見出しがあって、今日の日付が書いてあった。予約不必要。ほうほうなに、と思って目を走らせる。ついでに口に出して読む。
「参加者募集。青春アゲイン講座。二十代後半から四十代中頃までの、十代での早婚された方。早くに結婚して満喫できなかった青春を取り戻しませんか。そして次の世代にも役立ちませんか。南白松公民館二階にて、夜八時から。予約不必要。全六回予定」
なんじゃこりゃ。
そう思ったので、そのまま口に出した。なんじゃこりゃ、って感じだねえ、と実咲さんもゲラゲラ笑い転げている。
「なに、これ」
「行ってあげてよ」
「はああああ? やだよ、こんな得体の知れない」
「それ、ちゃんとした市の運営する講座だって」
「青春アゲインって、なにダサい」
しかもかなり限定された募集のような気がする、条件が当てはまる人はそう多くない気がするし、十代で早婚の方々は大抵中卒だの高卒だのなので、現在はバリバリのたたき上げで働き盛りだったりするのではないか。金曜の八時なんて、集まれるものなのか。
「職場の人の、知り合いが初めて企画した講座なんだって。サクラで出てあげてよ」
「サクラ? じゃあやっぱり募集かけても人が集まらない感じ?」
「あたしもよく知らないけどさ。荒木さんとこって結婚早かったんでしょ、って聞かれて。そうですよ、って答えたら、旦那さん行ってあげてくんないかしら、って」
「なにか見返りとかあるの?」
「見返り?」
「これ、サクラとして俺が引き受けると、実咲さんが職場で優遇されるとか、飴玉もらえるとか」
「飴玉くらいはもらえるかもしれないけど、お給料が上がるとか役職が上がるとかはないよ」
それでも出ろって? と聞くと、実咲さんが目を細める。持ちつ持たれつよ、と言う。
「ギブアンドテイク?」
「もうこの歳になると、お友達増えなくない?」
「うん?」
「子供が小さいと、保育園とか学校とかで知り合いができたりするけど。それでも友達になる確率って低いじゃない、卒業したりして離れるとあっという間に疎遠で。嫌いになったわけじゃないんだけど、わざわざ連絡取ってまで会うかしら、って思ってるうちに時間が経っちゃってそのまんまっていうか」
「うん」
「涼平くんもコレ! っていう趣味があるわけじゃないし、友達いないと老後淋しくない?」
「もう老後の話!」
「娘も成人しちゃったし、もしかしたら老後は孫とかひ孫で忙しいかもしれないけどね」
「孫とかひ孫!」
「ひ孫の孫とか」
「なんだっけ、やしゃ孫?」
青春取り戻すなら今くらいじゃない? と言われたけれど、別に取り戻したい青春なんてあったっけ? と俺は首を傾げる。
2
若くして結婚した、というと、結構不思議がられる。二十二、三で結婚したと言っても、男だと「早いねえ」と言われるし、十代で結婚、なんて言うとあからさまに怪訝そうな顔で「なんで?」と聞かれたりもする。
いわゆるヤンキー系の人間、いかにも暴走族とか好きで入ってました、リーダーとかケツ持ちとかやってました、みたいな茶髪というより真っ金々の頭して蓮っ葉な物言いをして、若い頃のやんちゃが武勇伝で、だけど今はガキもいるんで真面目に働いてますよォ、みたいなタイプだったら案外すんなり納得してくれそうなのだけど、俺みたいに別にグレてたわけでもないし、だからといって生まれる前から許嫁が決まっているようなお家柄というわけでもない。詰め込み詰め込みで勉強させられていた秀才君が、親の敷いたレールなんて! とドロップアウトした感じでもない。小中高どころか、保育園まで公立の平平凡凡人間だったし、今でもそうだ。だからみんな不思議がる。なんで十八で結婚したの? と。
だけどこれが、子供ができたんで、というひと言があると一斉に納得される。腑に落ちた、という顔になる。「ああ、子供ができちゃったからか」「でもほら、考えによっては結婚する前にお互い妊娠できる身体って分かったってことでね?」なんて言いつつも、大体の人が揃って同じことを言う。「失敗しちゃったんだねえ」と。あのとき浮かべられる薄笑いはなんなんだろう。避妊に失敗しちゃったねえ、か。人生に失敗しちゃったねえ、か。
避妊には失敗したかもしれないが、人生には別に失敗してない。嫁さんが初めて付き合った女だと言えば、さらに憐れまれるような顔をされる。奥さんしか知らないのか、みたいな。奥さんしか知らなくてどうした、少なくとも「そろそろ結婚したいんだけど彼女もできたことがない」みたいな奴らにはそれを言われる筋合いなんてない。
そんな風に、もうちょっと若い頃は憤慨していたけれど、今になると面倒くさいので流すようになってきた。どうせ俺が三十八歳で結婚していなくても人はなにか言ってくるだろう、子供が二十歳ではなく二歳だったとしてもなんだかんだ言われるだろう。人は誰かになにか言いたい生き物なのだ、文句だったり説教だったりちょっといい話だったり、なんにせよ語って自分がいい気になりたいだけのものなのだ。
「ええっと、では自己紹介、を、」
メガネをかけてやわらかそうな髪をした、ワイシャツ姿の少しおどおどした男が声をかける。胸ポケットのところに、深澤と名前が書かれていた。「青春アゲイン」講座の企画者らしい。背はそう低くないのだろうが、猫背でとにかく怯えたような感じだ。頬がこけていて、ひょろりとしている。
結局俺は、タウン情報誌に載っていた講座に参加していた。
「あの、まず私から、なんですけど、あの、すみません、私、南白松公民館職員の深澤と申します。深澤良彦です。あのですね、今回このような企画を立ち上げさせていただいたのですが、その、講師の先生が特にいらっしゃるわけではなくてですね、あの、」
「もっとはっきりしゃべればよくね? たらったらしゃべられっとイラつくんでよ!」
ガラッとした声で吠えたのは、頭が真っ金々の男だった。濃い灰色のぶかぶかしたニッカボッカを穿き、上は蒸し暑くなってきている六月の下旬だというのに濃い紫色の長袖を着ている。日に焼けた茶色い肌をしていた。声ががらがらしているのは、普段から怒鳴っているせいだろうか。俺の斜め前に態度も悪く座っていた男だ。
深澤が眉を垂れ下げて、ひいっ、と小さな悲鳴を上げた。普段公民館なんてところに勤めていたら、あまり柄の悪い人間などとは交流がないのかもしれない。いや、クレーマーのじいさんばあさんなんかはいるのか。
「し、失礼いたしました、あの、ではすみません、自己紹介をお願いしてもよろしいでしょうか、あの、」
「オレか?」
金髪ニッカボッカが自分を指差す。深澤がこくこくと頷く。
「立つのか?」
「いえ、別にお立ちにならなくても、」
立たなくてもいい、と言われたのに、パイプ椅子をガンッと音させて立ち上がる。七尾平太、と名乗った男は、三十五歳だと続けた。なんでこんなのが青春アゲインなんて胡散臭い講座にやってきたのだろう。俺みたいなサクラなのか、と首を傾げてしまう。
「見りゃわかると思うけど、とび職人やってて、子供は女ふたりで、十八と十七だわ。子供できたんで十七で結婚したけどな、ここは早婚の奴しか資格ないんだろ?」
資格といいますか、と深澤がごにょごにょ言っているうちに、七尾がバンッと机を叩いて座ってしまった。いちいち動作に移るのにうるさい奴だ。
二人掛けの白いテーブルが三列×七列くらいで並んでいたのだが、オレは真ん中の二番目の席に座っていた。七尾のいる廊下側の席に、後ろの方でもうひとり座っていたらしい。カタン、と静かに席を立つ音がして、咄嗟に振り返る。
「鈴木はじめ、はじめという字は源泉の源の字です。サンズイに原っぱの原。自動車のセールスをやっています。子供は二十三歳と二十一歳で、女の子と男の子。ああ、自分は四十二歳になります」
深澤と似たような服装をしていたが、きっちりとネクタイを締めていた。刈り込んだ短髪で、穏やかそうな顔をしている。
順番的に次は俺で、前のふたりも立ち上がっていたので、と席を立った。
「荒木涼平三十八歳、えっと、工務店の事務員やってます」
「え、どこの工務店?」
自己紹介の途中で声がかかってしまった。七尾だ。今までぷすっとしていたくせに、なんだか急に目を輝かせている。
「上揚町の唐沢工務店だけど、」
「おーっ、唐沢さんとこ! へー、知ってる知ってる、唐沢さんとこの人か、へー!」
急に馴れ馴れしくなってしまった。はあどうも、と頭を下げて、俺は続ける。十八で結婚して娘が二十歳です、と。
「そうか、唐沢のおっさん元気?」
「社長なら元気ですよ、もうめちゃくちゃ元気で」
「飲み仲間なんだわ」
「えっ!」
「よく行く飲み屋が一緒でさー。唐沢のおっさんに、七尾がまた会いたがってたって言っといて」
「あ、はい、」
そういえば向こうの方が年下なのに、うっかりこっちが敬語になってしまった。話が続いてしまいそうだったが、部屋にはもうひとりいる。講座の受講者は全部で四人だった。窓側の席に座っていたその人は、ポロシャツ姿でなにをしている人なのか見当がつかなかったけれど、意外とよく通るはきはきした声をしていた。
「高橋剣之介です。三十七才、子供は二十一と十九と六歳。職業はですね、プーで――」
「プーってなんだ!」
七尾からすぐに突っ込みが入った。確かに気になるところではあったが、気になったら即直球ズドンというのがすごい。空気読まないのか、といった空気が若干流れるが、七尾は気にした様子もない。高橋の方もまた、気にした様子がなかった。
「そうなんですよ、家が金持ちなんで」
「無職ってことか?」
この中では金髪七尾が一番年下のはずだが、思い切り砕けた口調になっている。ヤンキーというのは上下の関係が厳しいと聞いたことがあるけれど、今はそうでもないのだろうか。それとも、この場では上下というよりただ集まっただけの横のつながりしかないから、年齢など関係ないと思っているのか。
「そう、無職」
「無職でも結婚して子供いて、やってけんのか。奥さん働いてんのか? お前、主夫?」
「奥さんは働いてるけど、家のことはお手伝いさんがやってくれるから」
「お手伝いさん! え、なに、すげえ! お前金持ちなの?」
金持ちだと最初に自己紹介していたのに、七尾はもう頭からふっ飛ばしているのか。それでも高橋は面倒くさそうな顔もせず、にっこりと微笑むと頷いた。
「お手伝いさんって、メイド服のエロエロな感じ? 若い? 可愛い? 巨乳?」
「もうすぐ六十歳のおばちゃん」
「うわっ、興味ねえ! 解散だ!」
なにを解散させるのか。ぶふっ、と吹き出したのは、一番真面目そうな顔をしているように見えた鈴木だった。俺や七尾達の視線が向いたせいか、彼はこほんと空咳をする。
「失礼しました、いや、楽しそうだと思いまして。ところで深澤さん、この講座の目的はなんなのでしょう。すみませんが、ワタシは知り合いからここで早婚の男性を集めた講座をするので、条件に合う人もそう多くないかもしれないから顔を出してやってくれないかと頼まれて来たのですが、いまいち内容がはっきりしていないのが気になりまして」
青春を取り戻しませんか、という募集コピーでしたが、と彼は続ける。深澤さん、と職員の名を呼ぶ。
「職業柄、セールスポイントがはっきりしていないのが気になりまして。売り込みのときに、これ、というポイントが弱いとススメにくいんです。すみませんが、この講座の内容をきちんと説明していただけませんか?」
申し訳なさそうな笑顔をしているが、きっぱりとした口調だ。七尾の方も、うちの親方に行ってみろって言われた、と頷いている。高橋の方はよく分からない、へらへらしているばかりだ。荒木さんは? と鈴木から聞かれた。司会進行はこの人の方がよっぽど向いているのではないか。
「あ、俺も実咲さ……と、妻から行ってくれって言われて。なんか、職場の人から講座の人数が集まらなさそうだからって頼まれたとかなんとかって、」
そんな感じで。語尾をごにょごにょにしながら言うと、七尾がでっかいため息を吐いた。
「なあ深澤!」
「ひいっ、はっ、はい!」
「ひいってなんだよ、お前別に脅してんじゃねえんだから。なあ、ここなんで結婚早かった男ばっか集めてんの? なんかあんの? なに、なんかの補助金とかもらえんの?」
「違うんじゃないかな、青春を取り戻しませんか、ってあったし」
鈴木が口を挟む。青春を取り戻すことに、意外と興味があるのかもしれない。
「青春を取り戻すってなんだ?」七尾が首を傾げる。
「青春時代に戻るってこと? 若返りの薬とかの研究?」高橋も首を傾げたが、いやそれは違げぇだろ、とすぐに七尾の突っ込みが入る。
「青春時代を取り戻す……早婚の男性ばかり集めたということは、結婚によって青春時代を満喫できていないと考えて、今からでも青春しよう、という趣旨、ですか……?」鈴木も首をひねった。
「え、青春してなかったの、俺達?」俺の言葉が一番間抜けだったかもしれない。
みんなして、またもや職員の深澤をバッと見る。なんだか真っ白な顔をしてこくこくと頷いている彼が、ああああああ、と盛大なため息を吐いて前のめりになった。
「うわっ、危ねっ!」
一番に飛び出したのは七尾だった。椅子を蹴って腕を伸ばす。深澤は前に倒れこそしなかったものの、その場にぐずぐずと崩れた。
「あの、あ、あの、すみません、き、緊張して、」
「なに緊張してんだよ、おめえは!」
「吐きそう……」
「うわああああっ、バカッ、ゴミ箱っ、ビニール袋でもいいっ、誰かっ、なんか! うわっ、吐くなよっ、吐くなよ!」
七尾が駆け寄る。意外といい奴かもしれない。ふはっ、と鈴木がまた吹き出している。一見落ち着いたクールそうな人なのに、よく笑っちゃう人なんだろうか。ゴミ箱でいいのー? と高橋が部屋の後ろにあったゴミ箱を抱えてきた。
すみませんんんん、と深澤が死にそうな声を出している。
すみませんんんん、と深澤が情けない声を出した。ぐったりと白い長机の上に上半身をだらりともたれかけさせて、ぐったりしている。
泣きそうな彼がもだもだした言い方でようやくこちらに伝えたことは、「南白松公民館勤務になり今年で四年目」で、「市民講座に力を入れているこの公民館ではシルバー人材派遣からきているスタッフを含めて、館長とその他の市の職員五名、そしてシルバーの人が三人いる中で新規講座案を出せていないのは自分だけ」であり、「そうでなくても使えない人間として、けれど公務員なので特にクビになることもなく、ただただ厄介扱いされている感があり、あちこちのできるだけ害にならなそうな部署に配置されている」そうで、「このまま歳を取っていくだけなのは哀しい、娘も十八歳になり、進学か就職かで悩んでいるようだが父親としての威厳がなさ過ぎて相談もしてもらえない」ということで、「ここらでどうにか頑張ってせめて新規講座のひとつでも立ち上げて、自分も役に立っていることを知らしめたい」と思っているということだった。
「どこに知らしめるんだ?」
「それは多分、娘さんとか……いや、ここの同僚さんにですかね」
「っていうか、シルバーの人達って七十とか過ぎてない? そういう人達ですら新規講座の提案してんのに、お前ひとっつもしてないの? マジで?」
「で、講座を立ち上げたものの内容はなんにもない、と。よくこれで通りましたね、企画」
口々に俺達が話しはじめると、深澤は責められている気になってしまったらしい。うう、と鼻をすすりはじめる。
「集まった俺達も俺達だけど」
「頼まれたんだから仕方なくねえ? オレだって別に来たくて来てるわけじゃねーもん」
「でもまあ、全六回でしょう? いいよ、僕毎回来るし。みんなでだらっとおしゃべりして帰ればよくない? この歳になると、あんまり友達ってできないからさ。僕ちょっと、今楽しいよ?」
「うーん、でもそれだと内容がないまま終わってしまいますね、講座。青春を取り戻そう、っていうキャッチフレーズも関係がなくなってしまいますし、ただの詐欺になりますよ?」
詐欺じゃないですうううう、と深澤が震えた声を上げる。
「じゃあ、青春取り戻せばいいんじゃね?」
七尾があっけらかんと提案した。
「どうやって?」
「そもそも、どうして?」
高橋と鈴木の声が重なる。なにがなんだか分からないものの、これだと実咲さんに報告するのになにひとつ面白くないなあ、と思った俺は、キーワードをひとつずつ集めて、深澤の気持ちを考えてみた。工務店の仕事だってそうだ、頼まれたことをそのままやることだってあるが、お客の漠然とした提案や要望を形にすることもこちらの仕事だったりする。暗い感じの台所が嫌なのだと言われれば明かり取りの窓を作ってみたり、収納が少ないと困る、と言われれば階段下の空きスペースを上手く利用する方法を提示したり。
「早婚、が、ポイントなわけだよね、多分。ここにいる全員って、もしかしてデキ婚?」
うんうん、と全員が頷く。こんな奴でも結婚できて子供いるんだもんなあ、と七尾が深澤の頭をべちべち叩いている。
「深澤さんはさ、早くに結婚してしかも子供までいて、他のまだ結婚してない奴らが遊んでるときに仕事だ子育てだで大忙しだった人間は、青春を犠牲にしてきちゃったんじゃないか、って思ってるってことだよな? 自分の感想かもしれないけど」
そうです、と深澤が小さな声で言う。この人が職員なんだから、一番しっかりしないといけないはずなんだけど、まあ仕方ない。
「で、デキ婚で早婚だと、俺達の年代になったらむしろ子供はもう手を離れてるわけだ」
「うち、まだ六歳がいるよ」
高橋が挙手して、にっこり笑った。それはちょっと置いといてよ、と返せば、いいよ、とさらににっこりする。笑った顔はどこか犬っぽい。子犬の人懐こさだ。
「犠牲にした青春って、なに?」
話を振る。ええ? と七尾が眉を寄せた。
「そもそも、青春ってなに? バカやる感じ? オレ、族とかやってないよ」
「えっ! 七尾くん、暴走族とかやってないの?」
びっくりしたのは高橋で、やってねーよ、と七尾から不機嫌そうに睨まれる。
「ケンカとかはしてたけど、族とか意味分かんねえし。バイクとか乗るんなら、くだんない団体じゃなくてひとりで乗ってた方が楽しいし」
「へえ、バイク乗るの?」
食い付いたのは鈴木だ。自動車のセールスをしている、と言っていたが、バイクも範疇なんだろうか。いや、自動車のディーラーでバイクなんか見たことはない。
「十年くらい乗ってなかったから、嫁さんに売られた」
「そうか、残念。ワタシもバイク好きなもんで」
「自動車売ってんのに? あ、そういうあんたは? 青春犠牲にした?」
犠牲にした青春ねえ……と鈴木が考え込む顔になる。鈴木さん別にグレてた感じじゃないですよね、と俺が聞いた。
「グレてた、って、不良だったかってことです? こう見えても昔は吉田高校の狂犬と呼ばれていまして」
「えっ、マジで!」
「嘘です」
「嘘なのかよ! なんだよあんた!」
単純な七尾がころりと騙されて悔しがっていた。それを見て鈴木が笑っている。
「普通の生徒でしたよ。若干成績はいい方でしたけど。高校の同級生と付き合っていて、彼女が妊娠してしまったのでそのまま進学はあきらめて、結婚しましたが」
「俺のとこはひとつ上ですけど、高校三年のときに相手が妊娠したもんでそのまま結婚、って流れです。周囲、いろいろ言いませんでした?」
「勘当されてしまいましたが、彼女の親が途中で折れてくれまして。婿入りしました」
ふふふ、と鈴木が目を細める。オレも中学んときの女と結婚! と七尾が嬉しそうに混ざった。
「ってか、小学校も一緒だったんだけどさ、中学で何となく付き合いはじて、まあガキができたもんでさ。責任取れ! って親父に殴られて、取ったるわー! って結婚した。若いうちのデキ婚なんてどうせ離婚するとか言われたのが悔しくてさ、そんなわけねえ! ってガキもうひとり作ってさ、両方女だったのがなんかアレだったけど、でも離婚もせずちゃんとやってるっての。オレの嫁、未だにオレのこと好きだって言うぜ」
ふふん、と七尾が自慢そうに鼻を鳴らした。なあなあ高橋は? とそして話を飛ばす。
「僕のところは、許嫁と結婚だから」
「許嫁! なんだよ、お前ん家って金持ちか!」
だからさっきから金持ちだと言っているだろうに。七尾が素っ頓狂な声を上げた。
「うん。旧家だし」
高橋もこれまた、さらっと答える。
「生まれたときからお互いの祖父によって孫同士の結婚が決められてて、どうせ結婚するんならいくつになってからでも同じでしょう、って」
「あれ、でもお前、子供二十歳越えてんのいるって言ってなかったっけか? あれ、日本って十八から結婚できんじゃなかったっけ? ん?」
七尾がしきりに首を傾げている。そういえばそうだ、よくそんなところに気付いたな、と感心していると、高橋がまたもやしれっとした顔で頷いた。
「そっちは兄の子だから。でも母親は僕の奥さんだし、実子だから大丈夫」
「なにが大丈夫なんだーっ? お前ん家なんなんだーっ?」
訳分かんねえけど金持ちってそんなもんなの? とこちらに疑問を振られても困る。七尾が俺の顔を見て首を傾げるので、こちらもかくかくしながら首を傾げた。分かりません、のジェスチャーとして。ちっ、と舌打ちをして、七尾は次に鈴木を見る。鈴木も眉を寄せて、首を横に振る。多分、分かりませんのジェスチャーだ。
変なのがいっぱい集まった感じだな、とおかしいのが半分、途方に暮れたいのが半分で入り混じった複雑な気分になっていると、あああああああ! と深澤が急に吠えた。もう、なにがなんだか分からない講座だ。講座ですらない。
「うちの娘も、もしかしたら私の子じゃないかもしれないんです……!」
「なんなんだ、なんなんだお前まで!」
「うわーんっ、だって、だって、うちの娘、うちの、うう、ううううう……」
結構本気で泣き出してしまったらしい、おろおろとした空気がこちら側に流れ始めたが、さすがに年長者だからか鈴木が静かに立ち上がった。深澤のところへ寄り、ぽん、と肩を叩く。
「講座は五回残っていますから、また深澤さんのお話もしましょう。とりあえず今日はこの青春を取り戻す講座で、なにをして青春を取り戻すか考えませんか。ねえ、みなさん」
「なにして青春取り戻すのかって、なにすんだよ」と七尾。
「だから七尾くん、それを考えるんじゃなくて?」と高橋。
「青春で連想するものでも上げていってみる?」と、俺。
「あ、じゃあワタシ、ホワイトボードに書き出していきましょうか」と鈴木。
鼻をすすっているのは深澤だ。
途中から七尾だけしりとりのようになっていたが、他の人間は比較的真面目に考えていた。意外にも深澤からは恋愛に関する言葉ばかり――夏祭りだのクリスマスだの、夕暮れの海辺だの――出てきたが、俺を含めた残りからは、どちらかというと男ばかりの修学旅行のようなノリの言葉がたくさん出てきた。
3
次の金曜日に、もしかしたら俺以外は誰もいないんじゃないかと思いながらも南白松公民館に顔を出した。
すると驚いたことに七尾も高橋もすでに席についていて、俺の入ったすぐ後から鈴木も少し慌てたような顔をして駆け込んできた。
「すげえ、オレ以外誰も来ないんじゃないかと思ったのに」
七尾がにっかり笑う。今日も幅の広いニッカボッカ姿だったが、この前とは違ってくすんだような水色のものだった。上に着ているシャツは、目の覚めるようなブルーだ。先に高橋が来てやがった、と七尾が続け、僕無職だから、と高橋がにっこりする。無職が、無色に聞こえた。
先週は家に帰る途中でコンビニ弁当を買って帰った。娘は県外の短大に行っているので、実咲さんが夜勤だと俺はひとりになる。淋しいかと聞かれると、別にそんなことはない。けれど、ひとりの方がいいのかと聞かれるとそれは分からない。
子供が小さい頃は、ひとりになりたい、と思ったことがないわけでもなかった。
妻の実咲さんは、どちらかといえばよく泣く娘に手を焼いて、しょっちゅうヒステリックな声を上げていた。育児ノイローゼもあったんだと思う。若くして子どもなんか産んじゃって、みたいな声もあったんだろう。俺にだってあった。
未成年で責任も取れないのに子供作るとか親不孝だよね、と笑っていた同級生は、二十代後半で結婚したものの子供ができず、周りからなにやらやいやい言われているらしい。風の便りで聞いた。子供産むのって最大の親孝行だよォ? なんてしたり顔の周囲から悪口なんだか同情なんだかアドバイスなんだか分からないことばかり言われるのは、きっと嫌な気持ちになるだろう。
人の数だけその人なりの正解があったりするんだから、すべての常識を自分のものと一致としている、それ以外は認めない、攻撃する、というのを止めれば、もっと世界平和になるんだろうに、と思ってしまう。
だけど面倒くさいことに、大抵の人は「よかれ」と思って余計なことを言うし、余計なことをやるし、その気はないまま誰かを傷付けるものなのだ。
けれど今思えば、子育て最中は周囲の悪意めいた小言もあまり耳に入ってこなかった気がする。それどころではなかったからだ、俺は進学ではなく就職の道を選んで、それでもそれまでなんとなく大学に入ってそこからやりたいことをのんびり探せばいいや、くらいに思っていたので、未来についてのビジョンなんてなんにもなかった。それなのに実咲さんのお腹の中の子は一日たりとも休まず、せっせと成長していく。
大きくなっていくお腹は、正直喜びよりも恐怖の方を感じさせた。責められている気がした。なんの覚悟もなくて大丈夫なのか、と問い詰められているような怖さがあった。
自分はまだ子供で、自信もなくて。自分の未来さえあやふやだったところに、責任を持たないといけない赤ん坊という自分の他人が新しく存在してくるという、それはどうすればいいんだろう。どちらかといえば流されて、絶対産む、産んでもらう、と言ったけれど、本当は産むにしても堕ろすにしてもなんの覚悟もなかった。どこか他人事だった。意味が分からなかった。覚えたてのセックスと言う繁殖行為で、言葉通り繁殖してしまったのだ。結婚も子供を持つということも、もっともっと遠い未来のことだと思っていた。いくらひとつ年上とはいえ、同じような立ち位置だった実咲さんが日に日に大人の顔になっていくことにも、実を言えばついていけなかった。自分ばかりおろおろしているようで格好悪かった。だけど、どうしていいか分からなかった。
産まれたら産まれたで、よく泣く娘に実咲さんはパニックになるし、こっちもつられてあわあわするばかりで何の役にも立たず、それでもふたりして「ほらみろ、子供が子供を産んだからだ」とバカにされないようにだけしようと、歯を食いしばってきた気がする。
「思えば遠くへ来たもんだ……」
ついつぶやくと、どうしたんです? と鈴木から聞かれた。
「ねえ」
「はい?」
「いや、今、青春時代って歯を食いしばってた気がする、とか思いまして。あの、青春時代っていつからいつまでのことですっけ?」
「ええっと、十代後半から二十代前半くらいまでですかね。諸説あるようですけど」
二度目の講座に前回の全員が揃ったのは喜ばしいが、またしても職員の深澤はきょどきょどしているばかりだ。ただ、それでもなにかはしようと努力したらしい。二人掛けテーブルの一番前の真ん中に、ごそっとしたビニール袋が乗せられていた。
「すみません、あの、みなさんジュースを買ってきましたので、よろしかったら……」
「ジュース! 酒じゃねーのかよ!」
七尾が呆れたような声を出すが、アルコールはさすがに公民館で出してはいけないだろう。
「炭酸もありますから、サイダーとか、コーラとか、」
「僕コーヒー欲しいな、ある?」
「あ、あります、あります、コーヒー! 無糖でも、カフェオレでも!」
なんか子供会みたいだ、と鈴木が笑った。子供が小学生の頃、奥さんが地区PTAの会長をしていたという。一学期に一度ずつ地区の子供会があり、参加する一年から六年の子供達のためにおやつとジュースを用意するのだが、子供会費で集めた資金には限りがあって、できれば多少はプールしておきたい。
「他にも地区の夏祭りだお楽しみ会だなんだ、って行事があるから、カレー作ったりいろいろで。うちのカミさんは車の運転ができないもんで、ワタシが休みの日に買い出し付き合うんですよ。一本三十円のオレンジジュースを箱で買ったり、小袋の菓子を買ったりなんなりって。なんかちょっとそれ思い出しまして」
オレンジジュースがいい、リンゴジュースがいい、サイダーがいい、とケンカがどうしても起こるので、ジュースを統一してしまうか、それでも多少は選択する喜びがあった方がいいので数種類にした方がいいのか、奥さんはよく鈴木に相談したという。
「なんでもいいんじゃない? って答えて、よく怒られたな……」
「よく奥さん地区PTAの会長なんて引き受けましたね。ちょっと前って、まだそこそこ子供いましたよね?」
「荒木さんのところの奥さんも、学校の役員とか引き受けちゃいませんでした?」
「あ、なんか言われてみれば……学級PTAの長とかやってた気がするな、環境整備委員会とかって名前なのにバザーの代表みたいなのやってたりとか、」
「若い母親だとしっかりしてないって思われるのが嫌で、陰でいろいろ言われるよりは自分を知ってもらって協力してくれる人を増やしたいんだ、って、うちのカミさんはそういうのわざわざ立候補してたみたいですよ。男親なんて、子育て手伝ってる気にだけなってて、結局学校のこととか全部カミさんに任せっぱなしだったんですけど」
「青春時代がなかったのって、奥さん達も一緒ですよねえ」
ふたりなに飲むんスかー? と七尾に聞かれる。それは敬語なのか、なんなのか。なんでもいい、と答えると、お茶が渡された。サイダーとかあります? と聞いた鈴木には、水色のラベルのサイダーが渡される。ペットボトルって飲み残しができるから便利ですよね、と鈴木が受け取った。
「今日は、あの、どうしましょうか、」
それぞれに飲み物が行き渡ったところで深澤がおずおずと切り出した。相変わらず何のビジョンもないのか。それでよく講座の企画が通ったもんだと、逆に感心してしまうくらいだ。他のメンバーも同じことを思ったらしい。企画したときどんな内容を提示したんですか、と高橋が無邪気に聞く。深澤はしどろもどろになって、あ、だの、えっと、だのしか言わなくなったので七尾が吠えた。もーいーわ! と。
「青春取り戻すって言っても、このまま今日含めて残り五回の講座をだらだら雑談で消費してもまずいですよねぇ」
今日はノートパソコンを持ち込んだらしい高橋が、頬杖をつきながら画面を覗き込んでいる。なに見てるの、と鈴木が聞いた。次に買う株の研究です、と答えられる。
「ああ、トレーダーさん?」
「お遊びみたいなもんだけどね」
「なんだ、プーなんかじゃないじゃないですか」
「プーですよ、損しても儲けてもどっちでもいいっていう。完全なるお遊びだし」
「いやいやいや」
「いやいやいやいや」
「いやいやいやいやいや、って永遠に続きますね、これ」
「株買う大人になると、青春って遠くなった気がしちゃうね」
「青春って金で買えないですもんねえ」
カブって野菜の方かと思った、と七尾がつぶやくので笑ってしまった。
そういえばさ、と彼がそのまま続ける。
「青春っていえばさ、オレ文化祭とかやりたい」
文化祭。
文化祭?
「なんか高校とかであったじゃん、本番っつーより準備の方とかでさ、遅くまで学校残ってていいとか、いつもうるせえセンセがそういうときだけなんか差し入れしてくれたりとかってイメージあって。あれ、青春っぽくね? 体育会とか一緒にやんなかった? 仲、そんな良くもないクラスなのに、そんときだけ団結したりして。ああいうの、青春っぽい気がする」
深澤さん、と鈴木が声をかけた。公民館だから、そういう行事ってあるんじゃないですか? と。
深澤が慌てて、持っていたファイルをバラバラとめくりはじめる。
あっ、と小さな声を上げた。
「あの、九月にこの南白松公民館の文化祭があります、」
九月の第三土曜日に、毎年公民館で文化祭を行っているという。バスケ大会とかもあんの? と聞いた七尾が、ないです、と即答されて頬を膨らませた。
「えっとですね、例年生け花サークルの花の展示と、編み物講座の作品展示、お茶サークルの実演と、料理講座によるお菓子の販売があります、で、えっと、書道講座やボールペン字講座の作品も展示されまして、オープニングイベントで地域の少年少女吹奏楽団のみなさんにお願いして、曲を披露したりですとか、あと近くの農家のみなさんによる、農作物の販売などもありまして、」
「地味くせえ!」
「あ、あの、ポップコーンの販売とかも予定されています、あの、職員による、その、」
「まあまあ七尾くん、公民館の文化祭とかって、そういうものだと思うよ」
先着五十名様にトン汁の無料配布とかもありますけど、と深澤がフォローらしきものを入れたが、あまり役に立たなかったらしい。
「青春講座も、そこに参加してみます? ねえ、深澤さん」
鈴木が提案する。どうやって、なんの参加? と七尾が首を傾げる。
「展示とか?」
「なんの展示? 青春っぽいのってなんだよ」
「ケンカ口調やめようよー、七尾くん。あ、Nゲージとかは? うち、いっぱいあるよ?」高橋がにこにこして提案した。
「Nゲージってなに?」
「あれ、電車のじゃなかった? 俺の同僚とかも好きで集めてて、一部屋潰して奥さんに怒られてる」
「電車ごっこかよー、青春ってよかオタクじゃねーか!」
電車を好きな人が全部オタクではないと思う。それより、文化祭に出る方向でみんなの心は向かっているのだろうか。屋台で焼きそば売ろうぜ、だの、夏休みの一研究みたいなのを展示したら、だの、小学生の宿題かよ! だの、口々に好きなことを言い出して、少しもまとまらない。立て看板作ろうぜ、だの女子高に招待状出そうだの、どうでもいいものも混ざりはじめる。
公民館の文化祭に出るのはいいけど、他の講座やサークルに迷惑をかけるだけなのでは、と思った。せめて他の団体が使用するはずのスペースを無駄に占領するのは止めたい。そう思ったけれどなにかいい案が思い浮かぶでもなく、歌でも歌えば? という言葉がぽろりと出た。自分でも、俺なに言ってんの? と思うような意見だった。
「歌?」
深澤が顔を上げる。
「歌って、なに」
七尾がきょとんとした顔をする。
「ああ、歌?」
高橋がノートパソコンを閉じた。
「歌って、歌……合唱?」
鈴木が目をぱちぱちさせながらも小さく頷いてる。
「僕、昔ミッシェルガンエレファント好きだった……」
高橋がつぶやいた。
「兄ちゃんがものすごく好きで、格好いいから聴けって言われて。しょっちゅう聴かされて、格好いい格好いい言われてるうちに僕も好きになって、愛だの恋だの歌わなかったじゃない、あの人達。単語の羅列だったりとか、でもそういうのも格好良くて」
それであんまり好きになったもんだから、自分も楽器やりたくなって。そう、高橋が続ける。
「結構弾けるよ、僕。――ベース!」
「ベースかい!」
七尾が即座に突っ込んだ。
「ミッシェルっつったらアベフトシだろ、ギターだろ!」
「僕が好きなの、ウエノコウジだもん」
「鬼って言われたアベフトシじゃねーのかよ!」
「アベフトシも格好いいけど、ベースすごいよ? ウエノコウジ、最高だよ? って、七尾くんミッシェルガンエレファンってちゃんと知ってる?」
「オレにも兄ちゃんいるし、ミッシェルとブランキーはそっちから流れてきたし」
でもオレはギターやりたいとかって方に行かなかったな、と七尾が言った。すす、と小さく鈴木が挙手する。
「あの、実はワタシもベース弾けましてね……」
「なに、鈴木さんも? え、ベーシスト?」
「いやいや、中学の頃友達とバンド組もうって盛り上がりまして、やっぱりギターってのは花形だからやりたい奴が多くて。最初に、形は似てるから自分はベースでいい、って、そっち担当になりまして」
鈴木は照れ笑いをしている。ミッシェル知ってる? と七尾に聞かれて、名前だけは、と答えていた。彼は洋楽畑の人らしい。
「荒木さんは?」
「えっ、なに?」
七尾がぐるんとこちらを向く。楽器ならできない。なんにも。小さな頃ピアノを習わせられたとか、そういうこともない。むしろ学校では鍵盤ハーモニカもリコーダーも苦手だった。
「あっ、だけどアルトリコーダーなら!」
そうだ、アルトリコーダーは長さがあったから、ちまちまと指を余らせるようなソプラノリコーダーより断然吹きやすかった記憶がある。
「アルトリコーダーなら少し! って、二十年以上吹いてないけど」
「はあ? リコーダー?」
七尾の表情は面白いくらいに大げさだ。くるくる変わる。眉ががっつりと寄って、眉間にしわが刻まれている。不可解、という顔になっている。
「アルトリコーダーってなに、バンドの名前?」
「え? 楽器の話じゃなくて?」
「あ、なんだ。や、荒木さんミッシェル知ってる? って聞こうとしてた」
「あ、ああ、ああ、そっち……あれだろ、バードメンとか、ルーシーとか」
「ゲットアップルーシー」
「あ、うん。えっと、あとあれ、エレクトリックサーカス」
名曲! と七尾が叫んだ。あれ聴くと淋しくなる、と高橋が唇を尖らせる。
バンドでもやる? と鈴木が微笑んだ。ベースふたりとアルトリコーダーってどうすんの、と七尾が笑う。七尾くんはなんか楽器できないの? と高橋が聞く。
「なんも。なんだっけ、あの叩くやつ。ふたつ重なってて、なんかいっこが赤で、いっこが青くて。ゴムとかでくっついてて、あの叩くやつ」
なんだそれ、とみんなが首を傾げる。もしかしてカスタネット、と深澤が小さな声で言った。
「あ、そう! それ! あと三角のさ、なんかチーンチーンって鳴らす、」
「トライアングル?」
「それそれ、それできる。あとタンバリン」
上手いよ、と七尾がなぜか胸を張った。カラオケとかでよく叩いてたけど、リズム感いいって絶対言われる、と言う。そういえばカラオケなんて行かなくなって随分久しい、二十代の頃は流行っていたのかなんなのか、仕事の帰りなんかに行ったりもしたのに。飲んだら次の店はカラオケ、みたいに。
「タンバリンとさ、ベースとアルトリコーダーでバンドってできんの?」
「前衛的なバンドになると思う」
「前衛的って、なに」
「えっと、なんか見たことなかったり、時代の先を行き過ぎてたりする感じ?」
「え、格好いいじゃん?」
「バカにされてるときにも使うでしょ、その言葉。理解されない感じとか」
高橋が鈴木と七尾の言葉に口を挟む。
理解されない感じって、まさしく青春じゃん? と七尾がきょとんとして言った。
4
日曜日に娘が帰ってくる、と実咲さんが言うので、なんで? と思わず返した。朝ご飯の目玉焼きは、黄身がまるく盛り上がっていてぷっくりつやつやしている。
「夏休みは忙しくて帰れないからだって」
「へえ」
「興味なさそう」
「興味なくないけどさ、だってどうせあいつ地元の友達だなんだって遊びに行くだけじゃんか」
そうなんだけどねえ、と妻の実咲さんが笑う。
「バイトめいっぱい入れて忙しいんだって。服でも買ってあげようと思って」
「いいんじゃない? っていうか、バイトめいっぱい入れてんならバイト代だって結構入るだろ」
「車の免許取りたいらしいよ。夏休みに運転免許の合宿も入れてるみたいだし」
「……こっち頼ればいいのに」
「あの子、そういうのちょっと不器用よね。甘え切れないっていうか」
若いって言っても親なのにね、と実咲さんが笑う。
娘は保育士の資格が取れる短大に通っている。図書館の司書と迷っていたようだったけれど、保育士の方が就職の幅が広いらしいと高校の頃に進路指導の先生と相談して決めたらしかった。そのときの進路指導の先生は五十を過ぎた男の先生で、なにを相談してもばしっと帰ってくる安心感みたいなものがある、と娘が言い、俺は勝手にちょっとだけ傷付いた。若造の父親じゃ役に立たない、安心感もない、と言われた気がしてしまったからだ。それで勝手にちょっと拗ねた。俺が拗ねても全然気にしないで、というより気付かなかったようで、娘は妻と話をまとめて、隣の県の短大を受験したのだが。
お父さんって結構いなくとも大丈夫なのかな、と思ってしまう淋しさが時々ある。
今だって、実咲さんとはメールだLINEだと娘と連絡を取り合っているのに、こっちは特になにもない。実咲さんから話を聞かされるくらいだ。年齢は関係ないのかもしれない。お父さん、というのは、娘にとってそう大歓迎でもないものなのかもしれない。
「なに難しい顔してるの、本当にバイトみたいだよ? 別に彼氏と遊び回ってるっていうのでもないみたいだし」
「彼氏いるの?」
「うーん、はっきりは言わないけどね。いるみたい、あの子結構モテるんだから」
親の欲目だけど、と実咲さんが目を細めた。
「涼平くんに似たから、可愛い顔してるし」
「俺に似てる? え、実咲さんに似てない?」
「やだ、あの子は小さい頃からお父さんそっくりって言われてるじゃない」
言われてるけれど。父親に似て嬉しい女の子なんているんだろうか、俳優とか、めちゃくちゃ顔のいい父親だったらまだしも。小さい頃から、俺に似てると言われるとちょっとだけ申し訳ない気分になった。母親は腹の中で子供をあたためて、出産した頃には一人前の「お母さん」の顔になってるのに、こっちなんて出てきてからもおろおろしていただけだ。気がついたら子供は大きくなっていた。いろいろと苦労はあったし、怒鳴ったり反抗されたり、そういうのもそれなりに経てはきたけれど、それでも気付けば娘は成人していた。そういえば、冬になったら成人式に出るんだろう。こっちに帰ってくるのか、レンタルかなにかでも、着物を着たりするんだろうか。
実咲さんは、着られなかった。
俺も、着てない。ふたりとも、成人式には出ていない。成人式、っていうのも、青春の一部だろうか。
南白松公民館のあの講座に顔を出しはじめてから、青春、という単語を捜している自分がいる。
「あの子帰ってきたら、たまには三人で出かける?」
実咲さんが台所のテーブルの、向かいに座った。最近、肌にいいらしいと酢を飲んでいる。いろいろ試した結果、レモンの酢が一番飲みやすいと気付いたらしい、炭酸で割ったり水で薄めたり、せっせと摂取している。酢を飲む用の檸檬の絵が描かれているグラスの中で、氷が小さく動いた。
「出かけるって、ディズニーランドとか? 遊園地とか?」
「二十歳の娘が、親とそんなとこ行きたがらないでしょ」
呆れられてしまった。ため息まで吐かれてしまった。そう? と首を傾げると、可愛い顔されてもそうですー、と返される。
「可愛い顔とかしてませんー」
「してたよ、涼平くん。今、可愛い顔してたよ」
「してないって、なんだよ、三十八歳の男つかまえて可愛い、って」
「ごめんね?」
「……なに?」
「涼平くんに似た男の子とかも産めたら良かったんだけど」
「……なに、いきなり」
動揺するようなことを言わないで欲しい。
「え、なに、も、もしかして、妊娠した、とか?」
上ずった声に実咲さんが被せてくる。そんなわけないでしょ、と。
「そんなわけなくはないでしょ、でもそっか、違うか」
「欲しかった? 子供、もっと」
「ううん」
「即答」
「できた、っていうなら考えるけど、いるか、って聞かれたら別に」
「そう?」
「うん」
「そっか」
「うん」
「なんか、最初の子育てはバタバタすぎて、訳分かんないうちにあの子成人しちゃったでしょ。もう一回チャンスがあったんだっら、今度こそちゃんと子育てできそうなのに、ってちょっと思っちゃった」
もう一回チャンスがあっても、きっとバタバタして訳分かんなくなって、気がついたら子供が成人していると思う。そう実咲さんに言ったら、そうだねえ、と彼女は笑った。
「実咲さん」
「なに?」
「青春時代とか、もう一回やりたい?」
「え、なに? あ、あの青春なんちゃらって講座の話? 義理でも行っててくれてありがとうね。でも結局なにやってるの?」
「分かんない」
「えええ?」
「なんかしよう、ってなってるんだけど、まだこう、上手く動いてない。ベースがふたりと、アルトリコーダーがひとりと、カスタネットがひとり」
「なにそれ」
意味分かんないわねえ、と実咲さんが笑いながら首を傾げた。
「とりあえず立ち上げてみただけのサークルみたい。講座って、講師の人がいて、なにかを教わるっていうんじゃないの?」
「講師とかいないし、教わるとかってのもないな……青春を取り戻したいか、そもそも青春ってなんだ? みたいなところで二回分が消費されて、スタートラインにも立ってない感じ」
なにそれ、と実咲さんが更に首を傾げた。
娘が帰ってきたのは日曜というより、土曜の夜遅くのようだった。朝の十時までだらだらと寝ていた俺が、ようやく起きる気になって台所へ水を飲みに行ったら娘がいた。
「あ、お父さん」
「おお、おかえり」
娘はプリント柄のすとんとしたワンピースを着ていた。長かった髪はあっちで切ってしまったらしい。ショートボブというのか、随分短くなっている。
「誰かと思った」
「お母さんかと思った?」
「髪型、違ってたし」
「切っちゃった。楽でいいよ、頭洗ってもすぐ乾くし」
噛み合わないというより、なにか気恥ずかしいような、変な感じで会話をする。元々娘はお母さんっ子だ。親子というより姉妹のようで。そういえばお母さんが服買ってくれるって言ってたぞ、と言ってやる。
「うそ、やった! お母さん買い物から帰ってきたら、一緒に出掛けようかって言ってたけどそれか!」
「どうするんだ、今日なんか三人で食いに行くか?」
うん、と頷いたものの、娘の表情が少しだけ硬くなった。都合が悪い? と聞けば、夜はと地元の友達と飲みに行く約束しちゃった、と言う。もう酒が飲める歳なんだもんなあ、と、若干しみじみしてしまう。
「そっか、じゃあまあ、今日でなくても。……いつあっち戻るんだ?」
「明日、午前が休講だから、午後までに戻ろうかと思ってて」
「忙しいじゃん」
「そうなの、結構」
「……車の免許取りたいって?」
「あっ、お母さんもうしゃべっちゃったの? やーだー、免許取ってから、お父さんにドヤ顔で自慢したかったのに!」
小遣いいるか、と自分でも下手に出たような声で聞いてしまった。くれるんなら遠慮なくもらう! と娘が両手を差し出す。
この大きな子供が、自分の子だと思うと、時々めまいがする。時間軸が妙に縮んでしまっているような、もしくは随分とブレているような。だけど確かに、この子がオムツをしている姿を俺は知っている、初めて履いた靴の色は忘れてしまったけれど、それがとても小さな小さなものだったことは覚えている。運動会の白い半袖シャツ姿だとか、ビニールプールに浮かべたビニールの黄色いアヒルやらピンクの水鉄砲やら。紺色の制服やら、どうしてもとタダをこねて買ってもらったくせに、結局そうそう着なかったド派手なミニーマウスのトレーナーやら。買ったばかりですぐに壊してしまった、キャラクターものの傘やら。
懐かしい、本当に。目の前の娘が二十歳なのだから、二十年分の記憶だ。あっという間に過ぎ去った気もするけれど、これからの二十年を考えたら途方に暮れるほど長い。
二十年。
だけどまだ俺は三十八で、働き盛りで周囲はこれからが結婚だの子育てだので忙しい最中だ。
「なあ、」
青春ってなんだ? と、つい娘に聞いていた。娘はちょうど、青春真っ盛りなのだろう年齢だ。
「はあ?」
当然のように、怪訝そうな顔をされる。それもそうかと、南白松公民館での講座に通っていることを話した。
一昨日の金曜日は、高橋が欠席した。七尾も顔を出したけれど、呼び出されたとかですぐに帰ってしまった。職員の深澤は相変わらずおどおどしていたけれど、鈴木がいろいろと話しかけて、三人で結婚のなれそめの話をしていた。きっかけは全員、いなかった高橋も七尾もそうだろう、「子供ができたから」だ。
相手の父親に殴られただとか、自分の母親に回し蹴りにされただとか、最初はなんだかんだ言ってたものの産まれてしまえば可愛いらしく、しかもまだ自分達も若いうちの孫だったので、嬉々として孫と遊んでいた親の話などになった。
若い頃のデキ婚はどうせすぐに離婚する、と周囲に言われて、無性に腹が立ってふたり目を作ったと鈴木が苦笑し、俺は誰にも言ったことのなかった、ふたり目はできなかった話をつい、した。
身近過ぎると言えないし、距離があってもわざわざ言わないような話をしたのは、子供ができて若くに結婚した、という共通点のみでたまたま集まった歳の近い人間で、友達でもない、同僚でもない、知り合いなだけであるけど、そこそこにお互い似たような人生を歩んでいる、という安心感に似たものがこの講座の人達にはあったからかもしれない。
打ち明け話みたいだ、と途中で恥ずかしくなってしまい茶化したら、職員の深澤がぽかんと口を開けたまま俺の顔を見ていた。
「荒木さん、奥さんのこと好きです?」
「へっ? え、なに、まあ、好きじゃなかったら一緒にいないというか、ええっ?」
「鈴木さんは? 奥さん好きですか?」
「改めて聞かれると照れますね、どうしました?」
あ、なんか上手くかわしたな? と思ったけれど、鈴木を見る前に深澤がしょぼんと首を落とした。
「分かんないんです、私」
「奥さんのこと、好きかどうかです?」
「え、離婚とか考えてるんです?」
俺と鈴木の声が重なる。離婚なんて、と小さく、笑ったのかため息なのか分からないような息を深澤がこぼした。
「離婚なんて、できませんよ」
自嘲だったのかもしれない。ぽつんと落ちる言葉に力がない。
「うちの奥さん、私より六つ年上なんです。私の通っていた高校って、普通の公立高校だったんですけど、進学と就職が半分くらいで。いわゆる普通の生徒と、不良の生徒っていうのがはっきり分かれてる学校で」
出身はここでないらしい。暴走族とか今でも現役なとこなんです、と深澤が唇をゆがめた。
「私なんてどんくさいもんですから、どうも一部の不良みたいな人達に好かれてしまう……好かれるって変ですね、からかわれるというか絡まれるというか、そんな感じで。うちの奥さん、元レディースの人なんです、先輩達が先輩扱いしてましたから。ああいう人達ってなに考えてるか分かんないですよね。童貞狩りだ、って、私、襲われたんですよ。うちの学校、他にもいたのかなあ。私みたいな大人しいというか、いじめられっ子体質の人間が」
この日も深澤が飲み物を買ってきていた。俺と鈴木は思わず顔を見合わせて、もらったコーヒーに口をつけることもできずに深澤の話に適当な相槌を打っていた。
想像もしなかった告白話がはじまってしまった、と、目を白黒させていたと思う。
「女子生徒襲って暴力働いたら、それこそ強姦なのに。なんで被害者が男だと、むしろ情けないみたいに言われるんですかね。女に襲われたなんてみっともない、みたいに。あれ、なんなんですかね。それでしばらくしたら、うちの奥さんが――その時は奥さんじゃなかったんですけど――妊娠したから責任取れ、って言ってきまして。もう頭真っ白ですよ、なにが? って。そういえばなんか襲われたな、って。でも、それ本当に私の子なのかな、って、正直思いますよね? だって相手、レディースの人ですよ、女暴走族ですよ? 男なんていっぱいいるだろうし、妊娠したから責任取って金を出せ、ってことだと思ったんですよ、そしたら……責任取って結婚しろって……」
「そ、それで結婚したんです?」
思わず食い気味で聞いてしまった。
「だって、他にどうすれば良かったんですかー!」
深澤が泣き声で叫ぶ。
「親はびっくりして勘当だって言うし、それでうちの娘、私の親に会ったこともないんですよ。逃げるみたいにして私、本当に妊娠してた奥さん連れてこっちに引っ越してきて、バイトしながら高卒認定資格取って、公務員の資格取って、――なんか必死で生きてきたんですけど、私、こんなじゃないですか。しゃきっとしろとか、しっかりしろとか言われっ放しで。娘も十八になって、なんか……私なにしてるんだろう、って思っちゃいまして、」
第一うちの娘って私の子なんですかね、と深澤が泣き笑いみたいな声でつぶやいた。
「違うんですか?」
鈴木がやや強い声で聞く。深澤が首を横に振る。
「だって、うちの奥さんレディースだった人ですよ? 男経験なんて、そりゃあいっぱいあると思いますよ? 本当に私の子なのかどうか……DNA鑑定する勇気もないんですけど」
「あの、でも、ほら深澤さんに顔が似てるとか、そういうのは、」
爆弾みたいな打ち明け話にくらくらしながら、それでも俺も聞く。深澤が、また首を横に振る。
「うちの奥さんにそっくりです。瓜ふたつの子で」
「だけど深澤さんに似ているところもありません? ほら、足の爪の形とか、耳の形とか」
鈴木がさっきより穏やかな声で聞いた。うちの奥さんも言うんですよ、と深澤がため息混じりに息を吐く。手とか足の爪の形があなたそっくり、耳の形がよく似てる、って、と。
「自分の子じゃないかも、って疑われてたら、奥さん哀しがりますよ?」
「だって本当に分からないんですもん、今まではなんかもう、よく分かんない人生になってると思いながらも必死にやってきましたけど、なんかちょっと……疲れてきちゃって……ここの館長から、講座のひとつも仕上げられないんなら、もう行くと来ないぞ、って笑われまして……ハッパかけてくれるつもりだったのかもしれないですけど、なんかもう、頑張っても頑張ってもこれかー……って思っちゃって……」
頑張ってないわけじゃないんですけどねえ、と深澤が深いため息を吐いてから淋しく笑った。笑ったように見えた。
不器用な人間というのは、どうしてもいる。
頭が悪いとか言うのではなく、むしろ勉強はできたりする、詰め込んで覚えるのは大得意だったりするけれど、応用が利かない人間が。自発的に動くというのは苦手な人間が。マニュアルがないと動けない人間は、どうしてもいる。そしてそれを、弱いものとして嬉々と叩く者もいる。
「普段から、まあ、厄介者扱いはされてるんですけどね、でも自分でも自覚はあるんですよ、なんにも感じてないわけじゃなくて、どうして自分はできないんだろう、って悩んでて、これでも過去の資料をひっくり返していろいろ勉強してるつもりなんですけど……あんまりちくちく、役に立たないだの、公務員だからクビにならなくて良かっただのって言われてると、つらくなってきまして」
家には自分の子なのか確信が持てない子供と、深澤に責任を迫って結婚した妻とがいる。心が休まらない、と深澤は首を横に振る。
「……本当に娘さん、自分の子じゃないと思ってます?」
いつもよりずっと低い声で、鈴木が聞いた。へえ? と間抜けな返事を、深澤がする。
「妊娠したから責任取れ、って結婚を迫ってきたんですよね? もしお腹の子供が別の男の子供なんだったら、言っちゃなんですけどそんなまだ高校生だった深澤さんなんか頼りますかね? もっと金があったりする男捕まえませんかね?」
首を傾げたのは俺だった。え、なに? と聞き返してしまって、なんだか眉間にしわを寄せて怖い顔をしていた鈴木が、表情をゆるめた。俺も間抜けな顔をしていたんだろう。
「深澤さん、奥さんが妊娠するようなことしたんですよね?」
「無理矢理ですよ! 無理矢理、ズボン脱がされて! 無理矢理だったんだ、でも怒鳴り付けられて、怖くて……」
女が男に対してでも、強姦は強姦になるんだろうか。挿入できる状態になっていたということは、合意だったのではないかと取られてしまうんだろうか。スマホで検索しようかと思ったけれど、さすがにそういう雰囲気ではなかったのでやめておいた。
女に襲われて情けない、と、言う人もいるだろう。俺も少しだけ、そう思ってしまう。だけどそれは、俺が暴走族の人間になんか襲われたことがないからだ、運のいいことに学生時代も暴力的ないじめを受けたことがないから、想像できないというだけだろう。
「い、今だって、うちの奥さん見ると、怖くて足がすくむんです! ふ、夫婦生活だってないんですからっ!」
「えっ、じゃあ、あの、子供できた一回しか……?」
思わず聞くと、深澤が顔を赤らめた。最初の頃は何度か襲われて、その、ともごもご口にしていたが、なんだかどんどんと怒ったような顔になる。
「で、でも十年以上もうなんにもしてません!」
ちょっと頭冷やしてきます、と深澤が立ち上がる。バタバタと部屋を出てしまったので、俺達だけ残されても、と鈴木と顔を見合わせてしまった。
「すごい話を聞いてしまった気が……」
「ねえ」
鈴木が苦笑してる。
「奥さんも可哀想な気がしますけどね」
「え、でもレディースで深澤さん襲って妊娠して、無理矢理妊娠して結婚迫ったって、可哀想というより犯罪な気もしてきますけど……」
「まあ、でもねえ……。昔から、どうしても手に入れたい男がいたら、女は妊娠しちまうって最終手段があるから、ねえ」
「……鈴木さん、すごいこと言ってますよ?」
ははは、と彼が笑う。困ったような声の色をしていた。この講座、どうなるんですかねえ、と俺は首を傾げた。残りあと三回で、前半三回はこんなに意味もなく終わってしまいそうで。
あー、と鈴木が両腕をぐんと上げて伸びをした。
青春ってなんですかねえ、とそのまま口にしたようだっけれど、背を逸らしていたせいかどこか苦しそうな声で、せえしゅんってぇ、と間延びして聞こえた。
「青春?」
「そう、青春。今、公民館の講座に通ってるんだけど、青春についての講座でさ、だけど誰も青春についてよく分かんないから」
この前の講座のことをちらっと思い出していた。
「バンドやろうか、って言っても、ベースがふたりとアルトリコーダーがひとりと、タンバリンとトライアングルしかない」
「それをどうやるとバンドになるの?」
「さあ」
「なにしてるの、え、好きで通ってるの?」
「お母さんの知り合いに頼まれて」
ああ、と娘が納得顔で頷く。じゃなかったら興味なさそうだもんねえ、と言われる。確かに。
「青春についてって、青春がどうかしたの? なんなの?」
「青春を取り戻そうって講座」
「なにそれ」
「お父さんにもよく分かんない、だから青春真っ盛りのお前に聞こうと思って」
「えー、青春とか意味分かんない」
意味分かんなくはないだろう、と言いかけて、実際そんなもんなのかな、と思い直した。故郷は遠きにありて思ふもの、と同じやつか。真っただ中にいたら分からないのか。振り返ることによって、やっと輪郭が見えるものなのか。
振り返らないと気付けないもの。見えないもの。認識できないもの。振り返ることのできる俺なんかの年齢になって、いや、本当はもっと歳を取ってから思うものなのか。取り戻したい、と思ったときにはもう、「青春」に似たことをなぞることしかできなくなっているのか。
こっちまで考え込む顔になったせいか、娘がちょっとあわあわした様子で、あ、あ、でも、と取り繕うとしてくれた。
「あのね、今、短大で体育とかもやってるんだけど。ほら、高校までと違って運動着とかバラバラでいいし、それこそジャージを着てたりしてもいいんだけど、だから色とかもみんな違うし、球技大会とかマラソン大会とかがあるわけじゃなくて、本当に基本のことをちょろっとやるだけなんだけど。この前、フォークダンスしたの。女ばっかだから、背の高い方から男役になって。なんか、それがめちゃくちゃ楽しかった、みんなでゲラゲラ笑いながらやったの、中学のときとか男子と手がつなげなかったよね、とか、高校だと片想いの友達が好きな男の子と組めるようにこっそり列入れ替えたりとかしなかった? って後からも盛り上がって。普段特に話さないような人とかとも、きゃっきゃして。あれ、楽しかったな、って、えっと、そういうこと?」
「フォークダンス?」
「うん。楽しかったよ、オクラホマミキサーとか、マイムマイムとか、あとなんか体育の先生が見つけてきた初めて聞くようなのもやったけど、もうそれはぐちゃぐちゃだった。でもそれはそれで、笑った」
「フォークダンス……」
男五人でフォークダンス。マイムマイムなら小さな円になる、が、ふたり組のものにするとひとり余る。しかも二組でくるくる踊っても、見栄えがしないというか、格好悪いというか。なんだありゃ感が強いというか。
「フォークダンスか……」
「お父さん?」
フォークダンスって、そういえば実咲さんと踊ったことがないな、と思った。そうしたら、なんだかものすごく青春的につまらないんじゃないかという意味も分からないような後悔が、ぽつっと胸に小さく落ちた。
5
工務店の事務員、といっても小さな会社なので、書類制作だのなんだのの事務仕事にプラスしてなんだかんだで営業の方もやっている。
営業と言っても、何年か前に家を建てたところにその後どうですかと電話を入れたり、公民館などに手すりをつけませんかと話を持って行ったりする感じだ。
階段に手すりを付けて欲しいと言われて、伺った家があった。土曜日だったせいか、俺と同じような歳の男性がいて、半螺旋階段に手すりがつけられるのかと話をされた。
「狭い土地に、親父がどうしても家を建てたいって建てたらしくて」
ウナギの寝床を縦にしたような家だ。ひょろりと細長い。三階建てなのは、むしろ部屋数を取るためだったのだろう。ただ、その代わりに階段のスペースを広くとることができなかったので、半分くるりと回りながら上がる階段を作ったらしい。一段の高さも結構あった。建築法でぎりぎり許容される高さだった。
「母が膝の手術をして人工関節を入れたんですけど、この階段が急で上りづらいようで。うちのも今九ヶ月で、階段結構つらいみたいで、」
男性が妊婦のジェスチャーをする。おめでとうございます、と言ったら、ありがとうございます、と嬉しそうな顔をした。
「初めてのお子さんです?」
「そうなんです、子供も産まれたらまた考えないといけないのかな」
「すべり止めを張ったりなんかもできますね。だけど意外と子供って環境に慣れるので――」
「お子さんがいらっしゃいます?」
自分が父親になることが嬉しい人なんだろう。俺のことも同じだと見てくれたのだろう。
もう大きくなっちゃって、と言う。学生なんです、と、二十歳だとはなんとなく言えずに誤魔化した。だから、きっと相手は小学生くらいだと思ったのだろう。それも、低学年を想像したんだと思う。
そうか、お兄ちゃんですか、お姉ちゃんですか、と聞かれて、女の子です、と答えた。
「やっぱり産まれてくるときって、立ち会いしました? 嬉しかったです?」
「立ち合いはしませんでした、恥ずかしいから絶対に嫌だって、妻が言いまして。そうですね、嬉しかった――」
娘が産まれたとき、嬉しかったけど不安の方が大きかった。まだ十代だった。自分が子供みたいなものだったから。早く大人にならないといけないと思った。早く大人にならないと、子供が子供を産んだと、化け物みたいなものから食われてしまうんじゃないかと思った。実際、そういう夢をよく見た。
俺は階段に手すりを付けて欲しい男性を見て、目を細めた。
同じような歳の人だと思う。この人はこれからなんだ。子育ても。そういうものに関する不安も。自分は通り越してきたものだ。いや、まだ分からない。人生は長いから。だけど、変な一段落をしてしまった気はする。
この人は青春をちゃんと消費してきたんだろうか。
「あの……?」
「あっ、ああ、手すりですよね、こちらの階段でしたら壁も木製なので、大丈夫だと思います。作業員を寄越す前に、ちょっと材質などで見積もりが変わるので……ご相談させていただけますか」
「ああ、はい、よろしくお願いします」
俺は、青春をちゃんと消費してこれたんだろうか。だけど、青春ってなんだろう。
四回目の講座は休んでしまった。会社で結婚が決まった同期がいて、社長がお祝いだとみんなを飲みに連れて行ったからだ。金曜日の夜に予定があります、青春講座です、と言うのも躊躇われて、それにあの講座にひどく思い入れがあるわけでもないんだから、と思いながらその日は休んだ。連絡を入れた方がいいのか悩んだけれど、子供の習い事でもあるまいし、と、そのまま行かなかった。
一度休んだら、行くのが面倒くさくなってしまった。
そもそもなにかを習う場所でもない、似たような年齢の、早婚で子供がいる男達が集まって、青春を取り戻そうとかよく分からないことを言っているだけのサークルなのだ。妻の実咲さんが人から頼まれてきた話でなかったら、そのまま足を遠のかせても良かった。だけど、俺は実咲さんが好きなので、彼女が人から頼まれてこっちに話を持ってきたものなら、少しでも役に立ってあげたいと思ってしまう。
そういえば青春真っ盛りだろううちの娘は、青春の真っただ中にいることに気付いていなかったなあ、と、その話でもみんなにしてやろうかと思っていた。
七月の半ば。今年は四月頃から随分暑い日があって、六月の早々に入梅して多少肌寒い日があったりしたものの、結局空梅雨で気がつけば梅雨明けしていた。七月って夏休みの月だったっけ。社会人なんて盆くらいしか休めないもんな、だけど今、あの小学生だったり中学生だったりした頃の夏休みをまるまるもらったら、俺は途方に暮れるかもしれない。なにをしていいのか分からなくなって。
そんなことをつらつらと考えながら、金曜日の南白松公民館へ向かった。玄関でスリッパに履き替えて、二階に上がって。手前が給湯室と調理室、その向こうに和室と会議室があり、青春講座で使っているのは一番奥のもうひとつある小さな会議室だ。トイレは階段の脇にある。
使ったことなんて全然なかったけど、これが無料で借りられるのなら便利なものだ。玄関のところにあるホワイトボードに、いつも俳句会だのお茶の講座だの、なんならヒップホップダンスだの社交ダンスだののサークル名で時間割が埋まっている。一階にはちょっとしたミニ体育館のようなスペースもあるのだ、ただ、社交ダンスの靴底は特殊らしく、踊られると床が傷むのだと事務室の外でぶつぶつ怒っている人を見たことがある。
会社帰りの、半袖に一応のネクタイという姿でぷらっと講座に顔を出す、という予定だったのが、目指していた会議室のドアが勢いよくバンッと開けられたので足が止まった。
バタバタバタッ、と走り出てきたのはこの公民館の職員の深澤だった。ああ深澤さん……と名前を呼ぶ間もなく、なにやら真っ赤な顔をした彼は怒っているのか泣いているのか、駆け足でやってくる。
「ちょっと、待ってくださいよ!」
後から追いかけてきたのは鈴木だった。自動車のセールスをやっているという、背の高い男だ。
「待てって、あっ、荒木さん! 深澤さん捕まえてくださいっ!」
「えっ、ちょっ、ああ? 深澤さん、ちょっと、待っ――」
「うるさいっ、うるさいうるさいっ、あああああああああああっっっ!」
うわーっ、と深澤が叫んで、両耳を塞いで頭を左右に振った。驚いてひるんだ隙に、深澤はそのまま俺の脇をいつの間にかスピードを上げてダッシュで通り過ぎる。
「なっ、どうしたんです?」
「あーっ、すみません、待ってくださいって、待てっ、こらっ、話をっ、聞けっ!」
後ろから追ってきた鈴木に聞いてみたが、こちらもろくに話ができない。彼はおもむろに履いていたスリッパを脱ぐと、深澤目掛けて投げつけた。ひとつ目は当たらなかったものの、ふたつ目が足元を掠る。嘘吐きっ、裏切り者っ! と深澤が叫んで、ますます脱兎の勢いを増した。あのまま、どこへ行くのか。
なに、えっ、どうしたんです、えっ、えっ、と混乱している俺の目に、目指していた会議室のドアのところでちょいちょいと手招きをしている七尾と高橋が見えた。追いかけっこのふたりも気になるが、とりあえずそちらに足を運ぶ。
「すっげえことになってる」七尾がわくわくした色を隠していない顔でにんまりした。
「前回荒木さんが休んだときに、深澤さんがレイプされて無理矢理結婚させられた、って話をしてたんだけど」高橋がそう教えてくれる。俺それ聞いた、と言うと、そうなの? と高橋が首を可愛らしく傾げた。
「じゃあ、鈴木さんが深澤さんの奥さんと、夫婦揃って知り合いだったってのは?」
「え、聞いてない」
「むしろ奥さん同士は高校の頃からの付き合いがある親友だった、ってのは?」
「なに、え、全然知らない、あれ、でも深澤さんの奥さんって元レディースって、」
「鈴木さんの奥さんも元レディース」
「ええっ?」
「そして鈴木さんも元ヤン」
「ええええええええっ!」
なんとか高校の狂犬っての、マジな話だったって! と七尾が嬉しそうだ。なんで嬉しそうなんだ、こいつは。
深澤の奥さんは、親友に夫とのセックスレスを相談していたらしい。深澤の真面目なのにどんくさい所が好きでたまらなくて、けれどグレていた自分など相手にしてもらえないだろうからと悩んでいた彼女に、既成事実を作って結婚すれば、と助言したのはなんと高校生の頃の鈴木だったという。
「……嘘、」
「本当。で、今それを鈴木さんが暴露して、深澤さんがショック受けて飛び出してったんだよ」
「……偶然? 鈴木さんがここの講座に来たのって、偶然?」
まさか、と七尾が首を横に振る。
深澤の奥さんと鈴木夫妻が繋がっているのなら、確かに偶然ではないだろう。
けれど、深澤を襲って既成事実を作らせて結婚をごり押ししたのが本当なら、それはなんらかの罪になったりしないのだろうか。あの、大人に見えた鈴木が。元ヤン?
「ちゃんと話を聞かないとなんとも……」
「じゃあ追いかける? 僕らも」
高橋がどこか楽しそうに言った。なんで嬉しそうなんだよ、と七尾が変な顔をする。唇を尖らせて、眉を寄せて、なんだかひょっとこみたいな。
「なんか、みんな若いなあって思って」
「はあ?」
意味分かんねえ、と七尾は言ったけど、俺は分かる気がした。利害があるから知り合ったのではない、それこそ勝手に割り振られた学校の教室の中みたいに、共通点なんてひとつかふたつくらいしかなくて集まっている人間。
「もしかして外飛び出してった?」
「え、それはまずいんじゃ……深澤さん、ここの職員だし、職務放棄になったら怒られるんじゃ……」
「手間のかかる男だなあ、おい!」
追いかけますか、と残された三人で顔を見合わせる。なんとなく早足で、階段を目指す。
「いろいろあるね。なんかうちもさ、実は長女だけ死んだ兄の子なんだよね。うちの奥さんは兄のお嫁さんだった人で。なんか家柄の関係で、婚姻関係保っとかないといけないからってさ、そのまま僕にスライドしてきたんだよ、ひどくない? 兄嫁だった人が今日から僕のお嫁さんです、ってさ、惚れてて奪ったとかならともかく」
「おまっ、なにさらっと打ち明け話してんだよ! うちなんか別になんもねえよ、なんかつまんねえな、おい!」
もしかして荒木さんとこもなんかあんの? と七尾が聞く。少しずつ、早足の速度が上がっていく。
「うちは別に、なんにもないよ。ふたり目も欲しかったけどできなかったな、ってくらいで。なんか、デキ婚でひとりっ子だと離婚率高いとかって信憑性があるんだかないんだか、ソースどこよ、って言いたくなるいちゃもんつけてくる奴は多いけどね。でもまあ、娘も二十歳になったし、あんまり言われなくなったかな」
「この歳で子供が大きいと、むしろ子供連れて歩かなかったりするから、逆に独身だと思われたりするよね」
「分かる、遠回しに見合い勧められたリ」
「なんだよそれ、オレ、見合いとか勧められたことないし、合コンも連れてってもらえたことねえよ!」
「七尾くんは……」
「うん、なんか……分かる」
「なにが分かるんだよ!」
バタバタバタッ、と階段を駆け下りる。利用客なのか、二階に上がってこようとしていた女の人がちょっと眉を寄せたのが見えた。すみません、と頭を下げてみる。なにが? と七尾が聞く。お前にじゃない。
「そういえばさ、この講座って今日とこの次だけだろ? 今日は深澤さんと鈴木さん追いかけて終わっちゃう気がしない?」
「する、しかもこんな暑いときに走らせやがって、あいつら後でビール奢らせちゃる」
「僕ビール飲めない」
「ジュースでも飲んでろよ!」
「でもウィスキーとかワインは飲めるよ」
「なんじゃそりゃ」
「苦いのが好きじゃないんだよねえ」
「ワインとか渋いだけで意味分かんねえよ!」
ビールの方が好きなので、俺は七尾に賛成する。七尾は走りはじめていたけれど、俺と高橋は日頃の運動不足で息が上がりかけていた。体力落ちてるなあ、と苦笑する。
玄関で靴に履き替えて、遅せえよ! と足踏みしていた七尾に怒られながら外に出た。どこ行っちまったんだよあいつら! と七尾が唸る。館内で追いかけっこの音は聞こえなかったから、外なのは多分間違いがない。
額と背中に汗をかいていた。シャツが張り付く。首元がべたつく。だけどなんだか笑ってしまう。
とりあえず右か左かときょろきょろしていると、高橋が「講座延期してもらおうよ」と言い出した。
「延期?」
「あ、違った。延長? 二期とかでもいいんだけど。申請出しとけば通りそうじゃない? よく分かんないけど」
「青春取り戻してねえよ、まったく。なんの講座だったんだよ、これ」
七尾もぶつぶつ言いながら頷く。このまんまじゃすっきりしなくて気持ち悪りィしな、と続ける。
そういえばさ、と俺は娘の話していたフォークダンスの話をちらっと口にした。息が上がっていたから、なんだか途切れ途切れで説明もなんだかまどろっこしくなったけれど。楽しかったらしいから、フォークダンスしない? と。
「はあ? フォークダンス?」
「あ、なんか青春っぽい。文化祭とかの終わりっぽくて」
「だろ? フォークダンスだったらなんとなく身体が覚えてると思うし。もし公民館の文化祭出るんならさ、フォークダンスの発表とかどう?」
男五人でかよ! と七尾が呆れた声を出した。結局左に向かうことにして、うちらが遅れを取るので彼は若干スピードを落としてくれている。
「だからさ、奥さんとか、子供とかに声掛けない?」
「はああああ?」
「ああ、いいかも。うん、そうしたら人数も増えるし」
「だろ? なんかさ、いろいろ考えたんだけど、俺達の青春って、もう奥さんとか子供とか、全部含められてるからさ。今更単体で取り戻すとか無理な気がする」
俺は実咲さんの顔を思い浮かべた。
青春時代、はバタバタと過ぎてしまったかもしれないけれど、その時隣にいたのは彼女だった。それは、間違いがない。記憶を振り返ったとき、彼女がそこにいる。
「だったらフォークダンス講座になっちまうじゃねえか!」
「楽しいことなんでもすればいいんじゃない?」
「ビアガーデン行きてぇ……」
「大人の青春だねえ」
高橋が笑う。まあいいか、と七尾が鼻を鳴らす。とりあえずあのふたり見つけて連れ戻して講座延長の話を持ちかけよう、と言いかけたとき、どこからか「待てっつってんだろォがァァァァァァァ! おいこらっ、このボケがァァァァァ!」という怒声が聞こえてきた。
三人で足を止めて、顔を見合わせる。
「今の、」
「鈴木さんの声だね」
「どっちだ」
「うー、あーあーあー、あっちだ!」
七尾が指を差す。鳶というのは耳もいいんだろうか。疑いもせず俺も高橋も指の差された方へ走り出す。
「っていうか、マジであの人元ヤンかよ」
「七尾くんは現ヤン?」
「なんだよそれ、現役じゃねえよ! ってか、族はやってないっつの!」
「鈴木さんて、メンバーの中で一番ちゃんとしてる人かと思ってたけど……」
「別にちゃんとしてないわけじゃなくない? ただ、元ヤンなだけで」
「ごめん、うん、俺が偏見っぽいこと言ったかも」
「荒木さんていい人だよね」
「え、そう? ありがとう」
「すげえ、正面から受け取った」
「お世辞だったの? え、高橋くん?」
しゃべりながら走るのは結構つらい。本気の体力不足だ。お世辞じゃないよ、と、多分言われたと思うけど、なんだかよく分からなかった。
青春っぽい、と高橋が嬉しそうに、切れている息で笑う。
夏の夜はどこかうっすら明るくて、群青の雲がいくつも重なっているのが見えた。もう少ししたら、熱帯夜だのなんだのと暑苦しい日々がやってくるのかもしれないけれど、今はまだ、それでも風があると若干涼しかった。はっきり説明しろと言われたら困るけれど、それは確かに青春っぽい空気の中だった。