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「裏のオレンジがたくさん実ったので今日はオレンジのケーキです」
とん、と目の前に置かれたそれは、香ばしさと柑橘特有のさわやかさを帯びた香りを振りまく。
要するに、美味しそうだった。
手を一杯に広げたほどの大きさ。特に目立つ装飾はない。
独特の光沢を持つ表面にフォークを入れる。ふわりと沈み、そのまま焼き菓子の弾力を伴いながらもあっさりと切れた。
一口大に切り取り口元に運べば強い柑橘が漂う。
それは、口に入れてもなお強く。噛み締めると生地から届く甘みと酸味。
美味しそう、ではない。美味しいのだ。
甘く煮詰めた皮の食感もいい。ほんのり苦味があって。
表面の光沢はたっぷりと塗られたマーマレード。
中にもふんだんに使われているのだろう、オレンジの味が強い。
「どうですか?」
「美味しい」
「よかったです」
ほわりと笑う辰砂は、もうすっかりお菓子作りにも慣れている。
一人暮らしだった頃にはありえないほど豪華なおやつを頬張り、考える。
昔はこちらが作って与えていたのだが、あの頃のものとは格段に質が違う。甘さのバランスが格別だ。
鼻に抜けるオレンジの香りを堪能し、ふわふわとした生地を楽しむ。
一体こんなもの、どこで覚えたのやら。
「辰砂、マーマレードは残っているのか?」
「いっぱい作ってあります」
「そうか」
うん、と頷く。
何よりもこのケーキはマーマレードが命だ。
この絶品がたくさんあるのは喜ばしい。
「では紅茶に少し入れたのが飲みたい」
「はい。準備してきます」
嬉しそうに去っていくのを眺めながら、冷水で割ってもよかったかと気付いたが、もう遅い。
それはまた後日だ。
きっとなくなったらまた作ってくれるだろう。
オレンジもたくさんと、先ほど言っていたからな。
それに満足して食べ進める。
やがて、半分ほど食べ終わった頃に、辰砂が戻ってきた。
「お待たせしました」
そっと置かれた愛用のマグカップ。
ほわりといい香りがする。
「ありがとう」
一口飲むと、甘く香るオレンジ。
紅茶の渋みで口に残る甘味をさらりと流すのが丁度良い。
「辰砂は食べないのか?」
「実は……味見で食べすぎて……」
「……そうか」
多分、嘘ではないだろう。
食べる量は辰砂のほうが圧倒的に多い。
子供の時点で同じくらい食べていたのだから、本当に獣人の食事量には恐れ入る。
とはいえ、こうして一人で食べていると、なんというか。
「辰砂は私の世話ばかりだな」
「そう、ですか?」
「あぁ。別に、私のこと以外に好きなことをしていいんだぞ?」
「してますよ」
笑っているが、そんな記憶がない。
いつだって掃除して料理して洗濯をして裏の作物を管理して。
稀に繕い物もしていたな。
「……しているか?」
趣味のようなことをしている姿が浮かばない。
口の中に微妙に残った皮を噛み潰す。ほのかに苦い。
これもまた、味に緩急がついて美味しいのだが。
「一応、したいことがあるのなら、優先すればいい。そのときは何とでもしておくから」
む、と明らかに不機嫌な顔になった。
おや?
何か言い方を間違えただろうか。
「先生は、僕が必要ありませんか」
「辰砂?」
「別に先生は僕なんていなくても一人で生きていけますもんね。先生は何でもできるんですから」
……一体、何を拗ねているのだろう。
辰砂がよくわからない。
けれど、とりあえず間違いは正さねばならない。
「辰砂がいなければ生きていけるはずがないだろう。
「え?」
ぱっとわかりやすく表情が明るくなった。
「辰砂がいなければ、食事を始め、生活がままならなくなる」
「……僕は単なる家政婦ですか」
ぷぅと頬を膨らます。
役割としては、間違っていない。
けれど、その重要性を彼は理解していない。
「今の私には、その家政婦がいないと食事も忘れて作業に没頭するだけだ。
それはつまり、お前がいなければいつ飢えて死んでしまってもおかしくはないということだ。
もうすっかり、家事も忘れてしまった。一体、お前以外の誰が私を管理できるというのだ?」
「……先生。それはどうかと思いますよ」
呆れた声色で深い溜息。
俯いて、藍玉の瞳が隠れてしまった。
あの色は、とても気に入っているのだがな。
そして待つこと数秒。
「あーもー!わかりましたよ僕の負けです!」
がばりと顔を上げた。
うぅぅと呻きながらじとりとした目線が向けられる。
「もう家政婦でいいですよ……。その代わり、対価をください」
「対価?何かほしいものでもあるのか?金銭なら……」
言ってくれるならいくらでも渡したのに。本当に辰砂は遠慮しすぎで……。
などと、続けようとした。
けれども辰砂のほうは真剣な表情をして、こちらに近づく。
こつんと額をくっつけ、鼻先を摺り寄せる。
そういえば動物の挨拶はこんな感じだっただろうか。
どうでもいいことをふと、思った。
「お金なんていりません」
ずいぶんと低い声を出した。
辰砂にしては珍しい、威嚇のような。
喉奥を鳴らして、唸るような。
「そんなものいらないから、口付けをください」
うん?
切実な顔をした割には、ずいぶんと単純な要求だった。
とりあえず、乞われたままにちょんと口付ける。
たったこれだけとは、やっぱり辰砂は欲がなかった。
「……え」
目が見開かれる。
うん、やはり美しい藍玉の色だ。
そろそろこういう色の石を相手にしてみたい。
「あの、せんせ?」
「どうした?」
「いやそんなあっさり。っていうかもっとこうムードとかそういうのはないんですかっ!?」
身を離してちょっと距離を置く。
がしっと肩が掴まれた。
「……ムード?そういうのがいるのか。なんというか、ずいぶんと……こう……乙女?」
適切な言葉が浮かばず、とりあえず使った言葉が気に食わなかったらしい。
盛大に、不機嫌な顔をされた。
「どーせ女々しいですよ。僕は」
「いやそういう意味では……」
前に可愛いと言ったらどうせ男らしくないと拗ねられたので一応考えたというのに。
「……一世一代の告白だったのに流された。どうすればこの人は気付いてくれるんですかもう」
「辰砂?」
「……なんでもないです」
「それで、対価はこんなものでよかったのか?」
「え」
固まった。
そわそわと落ち着かない様子で視線を巡らせ、溜息。
じとりとした目線で、再び額が合わせられる。
「もういいです」
「そうか。ところで辰砂」
「はい」
肩を掴んだままの手をちらりと見る。
くん、と漂う匂いを嗅ぐ。
なんとなく、口角が上がった。
「オレンジの匂いが、染み付いているな」
「あ、あぁもぉぉぉ」
みるみる頬を染め、耳を染め、しがみついてくる。
さすがに成長すると重苦しい。子供の頃の可愛げはすっかりないので覆いかぶさるという表現のほうが正しいのかもしれないが。
辰砂の名前の由来とした赤毛が視界の端で揺れる。
服にもしっかり染み付いたオレンジの香り。
「ほんともうなんなんですか先生は……」
半ば泣き言のような呻きを上げる辰砂は、相変わらず子供らしさもあり。
何故かそのことに、少しだけ安堵している自分に、何故だろうかと心の中で首を傾げるしかなかった。