最終話 盲目彼女
最終話を投稿します。
「では、包帯を外しますね」
そう言って、看護師さんは私の顔に手をかけます。
手術が終わってから早一週間、いよいよこの時が来ました。手術は無事成功したと先生は仰っていましたが、やっぱり不安です。
包帯が徐々に解かれてゆきます。私はただ目を瞑って待つことしかできません。それは実際には数十秒の出来事ですが、とても長く感じました。
「篠田さん、見えますか」
先生の言葉につられる様に、恐る恐る瞼を開けます。
私の視界にゆっくり、しかし確かに光が差し込んできました。何年ぶりの光でしょうか。まだ視界はぼやけていますが、景色はしっかりと見えます。病室には先生、看護師さん、そしてお母さんがいました。
「先生、ありがとうございます。私、目が見えるようになりました」
「そうですか。それは良かったです」
先生の表情はまだ識別できませんが、その声色からは安堵が感じ取れました。
「残念ながら視力を完全に回復することはできませんが、矯正をすれば支障なく生活できます。」
「先生、本当にありがとうございました」
お母さんは先生に深くお辞儀をした後、私に向きました。
「琴音、本当によかったわね」
「お母さん…」
お母さんと喜びを分かち合うように抱擁しました。
その後も、予後観察のために一週間ほど入院していました。先生に言われた通り、視界は未だにぼやけたままでした。ですが、眼鏡を掛けることで視力を一近くまで矯正することができました。予後も良好だということで無事に退院することができました。
小学生以来の目に映る景色は、とても新鮮に感じました。こうして自宅に帰ってきたのも随分久しい気がします。
「琴音、これを渡しておくわ」
リビングで寛ぎながら記憶の家と間違い探しをしている時、お母さんが藪から棒に手紙を差し出してきました。
「これは?」
「貴女の手術は終わった後、裕太さんがこの手紙を渡してほしいと」
そういえばあの日以降、裕太さんとは一度もあっていません。お母さんの前で読むのが少し恥ずかしかったので、自室で読むことにしました。
罫線のみが引かれた無機質な白紙に、裕太さんの丁寧な字が書かれていました。
この手紙を読んでいるということは、手術は無事成功したのですね。自分の事のように嬉しく思っています。直接会って伝えることができれば良かったのですが、手紙でしか伝えることが出来なくてごめんなさい。目が見えるようになった琴音さんに会う勇気をどうしても出すことができなかったのです。
琴音さんの目が見える様になることを知った時、僕はそのことを素直に喜ぶことができませんでした。僕は琴音さんの目が見えるようになることを恐れていたんです。
僕が小学生六年生の時、父親が痴漢冤罪に遭いました。そしてそのことが原因で、僕はクラスメイトから拒絶されるようになりました。この一件以来、僕は他人の視線が怖くなったんです。今まで気が置けない友人がいなかったのも、無意識のうちに他人の眼を避けていたからです。
僕は琴音さんのことが好きです。純粋に好きだと信じて疑っていませんでした。でも気づいたんです。僕が琴音さんとの交友を避けなかったのは、僕にとって居心地のいい存在だったからです。そのことに今更気づきました。
そしてそれを知ってしまった以上、僕には今の琴音さんの傍にいる資格はありません。このまま琴音さんと付き合い続ければ、いずれ僕は琴音さんのことを避けるようになるかもしれません。いや、既にもう避け始めています。そして、いつかこの気持ちも偽りのものになってしまうかもしれないと思うと、僕は自分のことが怖くて仕方ありません。
僕は琴音さんに幸せになってもらいたいと心から思っています。こんな僕とこのまま付き合っていても、琴音さんに辛い思いをさせるだけです。これからの琴音さんの未来のためにも、僕は身を引くことを選びました。一人で結論を出してしまって本当にごめんなさい。
琴音さんは、僕と出会ったことで人生を変えることができたと言っていました。思えば、僕は琴音さんの人生が光り輝くための陰だったのかもしれません。
そこには私の知らない裕太さんの姿が書かれていました。そんなことを考えていたなんて全く知りませんでした。確かに、私は裕太さんのおかげで人生を変えることができました。でも、それは決して…
「裕太さん…」
琴音さんと別れた日から、流れるように月日が過ぎた。それなのに僕の心はあの日から止まったままだ。まだ琴音さんへの未練を断ち切れていない。自ら別れの道を選んだのに未だに過去の思い出に縋っているとは、何とも情けないことだ。
冷え切った心とは対照的に、外はもう桜が咲く季節になっていた。春期休暇も終わり家と大学を行き来する生活が始まっていた。無事三年生に進級することができたが、だからといって生活に変化が起こる訳ではなかった。そして今日もいつも通り講義を終え、車窓から途切れ途切れに見える桜並木をただ目で追っていた。
そういえば琴音さんと会ってからもう一年が経とうとしているのか。この一年はとても短く感じたがそれ以上に充実していた。
琴音さんとの日々を回顧していると急に虚無感が込み上げてきた。もう琴音さんのことは忘れよう。
ようやく踏ん切りがついたところで駅に到着した。改札を出て歩道橋の先にあるJR駅を目指す。
「あの」
JR駅の改札が見えたので財布を取り出す。改札に近づいたところで不意に声を掛けられた。声の先には見覚えのない初老の女性の姿があった。人違いかと思ったが初老の女性は間違いなくこちらを向いていた。
「どうかしましたか」
「これ、ポケットから落としましたよ」
初老の女性はペンダントを差し出してきた。これは琴音さんとの初めての買い物で買った三日月のペンダントだ。このペンダントは僕と琴音さんの友好の証だ。だから今の僕にはどうしても着けることができない。だからといって押し入れの奥に封じ込めるのも忍びない。苦肉の策としてポケットに入れて持ち歩くことにしていた。財布を取り出すときに一緒に落ちてしまったのだろう。
「ありがとうございます。大切なものだったんです」
「そうですか。それは良かったです。それでは、私はこれで」
その女性はにこりと微笑み、踵を返して出口に向かっていった。僕とは逆方向なのにわざわざ届けてくれるとは、随分親切な人もいたものだな。
そういえば、あの日からまともに人と話していなかったな。つい渡されたペンダントに目を落とす。…だめだ、どうしても琴音さんのことを思い出してしまう。もうこのペンダントは手放した方がいいのかもしれない。
「やっと、やっと会えました」
ペンダントをポケットにしまい込んだ時、再び声を掛けられた。篠田さんの事で相当気が滅入っていたが、無視する訳にもいかず渋々声の方を向く。
そこには僕が最も忘れようと努力し、しかし最も会いたいと願っていた人物が立っていた。
「久しぶりです、裕太さん」
「琴音さん、どうして…」
予想だにしなかった出来事に、思わず二の句が継げなくなった。どうして僕のことが分かったのか。どうして僕の前に現れたのか。聞きたいことが山ほどあるのに、僕は夢現の中ただ琴音さんを見つめることしかできなかった。琴音さんはまるで僕の心を見透かしたかのように話し始めた。
「実はずっと裕太さんのことを探していたんです。でも裕太さんのことはこのペンダントと声ぐらいしか判らなくて、どうしても見つけることができなかったんです。でもさっきおばあさんと話している所を見てやっと見つけることができたんです。そのペンダント、まだ大事にもっていてくれたのですね」
琴音さんは首にかけてある三日月のペンダントを見せてくれた。まだ僕のことを覚えていてくれたことに少し笑みが漏れた。しかしそれも束の間の夢、いつかは醒めてしまう。
直ぐに鉄仮面を被り、一番の疑問をぶつける。
「どうして僕を探して?」
「裕太さんともう一度寄りを戻すためです」
「それは…それは駄目だよ。琴音さんの未来を考えたら僕とは付き合わない方が…」
「それは嘘です」
琴音さんは強い口調で僕の言葉を遮った。
「嘘?」
「そうです。裕太さんは自分から逃げているだけです。裕太さんは前に私に言ってくれました。人は弱いからこそ自分と向き合うことが必要だと。それを人の所為にして逃げることが最大の罪であると。今の裕太さんは私を言い訳にして自分から逃げているだけです」
ぐうの音も出なかった。確かにそうだ。僕は琴音さんの将来だとか未来だとかもっともらしいことを言って、結局はただ自分から逃げていただけじゃないか。
「ごめん、琴音さんの言うとおりだよ。僕は自分から逃げていた。自分の事しか考えていなかった。琴音さんに言われてようやく気付くなんて、僕は本当に大馬鹿野郎だ。でも、だからこそ琴音さんから逃げてしまった僕には、君の傍にいる資格はないんだ」
煮え切らない僕に痺れを切らしたように、琴音さんは何かを取り出した。それは僕が琴音さんに宛てた別れの手紙だった。琴音さんは僕の目の前でその手紙を真っ二つに破り去った。
呆気に取られている僕を尻目に、琴音さんは毅然として続けた。
「私は裕太さんのことが大好きです。裕太さんがどう思っていても、この気持ちはずっと変わりません。だから、裕太さんが私のことをまだ好きなら、ずっと私の傍にいてください。私には裕太さんが必要なのです。どうか、お願いです…」
気が付くと、琴音さんは目に涙を浮かべていた。その涙を見ながら、僕は琴音さんに掛ける言葉を漠然と探していた。
僕は琴音さんに許されない大罪を犯した。こんな僕が琴音さんの傍にいるなんて、やはり間違っているのかもしれない。でも琴音さんがそれを望むのなら、僕はその願いを叶えなければならない。それが僕を赦してくれた琴音さんに対する贖罪なのだから。
それに、琴音さんと話してやっと自分の気持ちに決心がついた。僕はもうこの心を偽りたくない。やっぱり僕は…
「あの、裕太さん?」
目を閉じて立ち尽くしていた僕に、琴音さんが心配そうに近づいてきた。その瞬間、僕は琴音さんに抱きついていた。
「大好きだよ、琴音さん」
最初は戸惑っていた琴音さんだが、その言葉を聞いて僕の背中に手を回して嬉しそうに答えた。
「その言葉を、ずっと待っていました」
ここまで読んでくださって本当にありがとうございました。
今は頭の中に浮かんでいたイメージを文章化できた余韻に浸っている所です。とにかく疲れました(笑)。語彙力不足が祟って色々描写不足な点があると思いますが、どうかご容赦ください(笑)。
さて今回は視覚障害者をメインとしたお話を書きました。私なりに色々調べて書いたつもりですが、想像で書いた部分も大きいため現実味が薄い部分が多々ありました。特に展開の都合上で全盲を治療できるという設定にしましたが、残念ながら現在の医療では全盲を完全に治すことは出来ないそうです。しかし、今後の医療技術の発展で視力の回復が期待される技術は存在します。注目されている技術としては人工網膜やiPS細胞を用いた網膜移植などがあります。詳しい内容は面倒くさいので割愛するとして(笑)、これらは決して夢の技術ではありません。人工網膜は既に低解像度ながら視力の回復に成功しており、iPS細胞の網膜移植は臨床試験にまで至っています。このお話のような世界もそう遠くないのかもしれません。
小難しい話はこれくらいにして、今後についての話を少ししたいと思います。私は元々このお話を書ききることを目標にしていました。今は次の話のことは何も考えていません。もしかしたらこれを最後に筆を置くかもしれません。まあ、書くにしてももう連載小説はこりごりです(笑)。
それでは、また会う機会があればその日まで。




