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盲目彼女  作者: 弘前三郷
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第三話 君が輝くその時に

第三話を投稿します。

次で完結すると思います。

かのアルベルト・アインシュタインは相対性理論を子供に説明する時、恋愛に例えたという。恋人と過ごす時間は途轍もなく短く感じると彼は説いたらしいが、残念ながら僕にはその感覚が今一つ分からない。僕にとっては一人で過ごしていた時間も、琴音さんと過ごす時間も、一定のリズムを刻んで過ぎ去っていく。今までも、これからもそれは変わらない。そこに違いがあるとすれば密度くらいだろう。

 どれだけコートで武装しても、木枯らしの矢が体に突き刺さる。琴音さんと付き合い始めた夏もすっかり過去になり、気が付けば今年ももう一か月を切っていた。琴音さんと過ごした半年はそれまで過ごしてきた二十年間よりも充実していたが、それでもたった半年のことでしかない。そして今日も三百六十五日の一日を琴音さんと過ごす予定だ。

 すれ違う人と同じように身を丸めながら、歩みを続けていた。今日は久しぶりに琴音さんの家で過ごす。昨日琴音さんから話したいことがあるので家に来てほしいとの電話があった。嬉しそうに話していたので悲報という訳ではなさそうだ。躊躇わず快諾したが、電話では話せない事なのか少し気になった。一応聞いてみたが、案の定琴音さんはもったいぶった様に

「秘密です」

 と答えた。

 なんとか寒さに耐えながら琴音さんの家にたどり着く。こんなに寒いならバスを利用すればよかった。待ち時間と料金を払わなければいけない事を考えたら徒歩の方が効率的だと履んだが、寒さがこれほど辛いとは思わなかった。打算的すぎるのも考え物だと身に染みて実感する。半ば寒さから逃げるようにインターホンを押す。

「こんにちは」

珍しく琴音さんが出迎えてくれた。

「こんにちは。今日はどうしたの」

「一刻も早く裕太さんに会いたくて、少し無理しちゃいました」

 琴音さんは笑った。ああ、どうして琴音さんはこんなにも魅力的に映えるのか。お淑やかな振る舞いの中に、お茶目な一面を覗かせる。これがギャップ萌えというやつなのか。

「それでは、自室までのエスコート、よろしくお願いしますね」

 琴音さんはそう言って、手を差し出してくる。琴音さんはやはり魅力的だ。

「それで、話したいことって何?」

 僕は琴音さんの部屋に入るなり、すぐに本題を切り出した。琴音さんもそのつもりだったらしく、嬉々として話し始めた。

「実は、私目が見えるようになるかもしれないんです」

 その時、僕の時間が止まった。え…目が見えるようになる?言葉の意味は分かるのに理解が追い付かない。

「いきなり、どうして、そんな…」

 思わず心の声が漏れる。動揺を隠しきれていない僕を余所に、琴音さんは僕の疑問に丁寧に答えた。

「元々、私の眼は最新の手術で治せたらしいのです。ですが、その手術は数年前に認証されたばかりで、莫大なお金が必要でした。私の家はそれなりに裕福ですが、そんな手術を行えるお金はとてもなく…結局諦めざるを得ませんでした。ですがSNSでそのことを伝えたら、多くの方が私のためにお金を募ってくださって。この度、晴れて手術を受けられる様になったんです」

 お望みの回答が得られたのに、心の整理がちっともつかない。まるで脳がその事実を受け入れることを拒否しているみたいだった。

「これも裕太さんのおかげです。裕太さんと出会えたおかげで、私は人生を変えることができました。本当にありがとうございます」

 その言葉を以て、僕の海馬は機能を停止した。この後、琴音さんと少し会話をして帰ったが、何の話をしたのか全く覚えていない。ただ一つ覚えていることは、琴音さんの屈託ない笑顔を見ながら曖昧な相槌を繰り返していたことだけだった。


 白銀が視界一面に広がっている。僕は一体何時からこの白銀を眺めているのか。この汚れない白銀とは対照的に、僕の心は様々な感情が混ざり合いどす黒く変色していた。

 夢現の中帰宅した途端、猛烈な気怠さが体を襲った。もう何も考える気力すら無く、体の赴くまま自室のベッドに倒れこみ現在に至る。

「おーい、もうご飯だぞ」

 遠くから父の声が聞こえた。もうそんな時間なのか。

「悪いけど今は食欲がないんだ。食欲が出たら食べるよ」

 父はそうか、とだけ言い静かに部屋を後にした。父には悪いが、今まで時間感覚が一切欠落していたのに、急にご飯と言われてもお腹は空かない。それに、今は食事が喉を通る気がとてもしない。こんな気分になったのは生まれて初めてだ。琴音さんの眼が見えるようになる事は喜ばしいはずなのに、なぜ僕はこれほど悩んでいるのか。

 心の陰を彷徨っているとやがて睡魔が襲ってきた。もう心も体もすっかり疲弊しきってしまい、思考から逃げるように目を閉じる。朦朧とした意識の中、瞼の裏にある記憶が過ぎった。これは、小学生の時の記憶か。この記憶に心の陰の正体を知る手掛かりがあるのだろうか。


 僕の家は夫子家庭だった。母親は僕が三才くらいの時、病気で亡くなったらしい。母親については顔をかろうじて覚えているくらいだ。母親が亡くなったことを理解したのは小学高に入学したころだった。

 生活には苦労しなかった。父はいつも明るく振舞っていたので、母親がいなくても寂しいと感じることはあまりなかった。父も無理をしていた訳ではなく元々陽気な性格だったので、気を遣わず生活できたことも今思うと大きかった。しかし母親がいない影響は少なからずあった。僕が引っ込み思案で人見知りになってしまったのは、大切な人がいないことに対する不安の表れだったと思う。それでも小学校では一緒に遊ぶ友達はそれなりにいたし、人付き合いもそこまで苦手ではなかった。あの出来事が起こるまでは。

 あれは、確か小学六年生の春頃だった。たった一日で僕を取り巻く環境は一変した。新学期が始まってから一か月が経ち、新しいクラスに慣れてきた頃だった。

父が痴漢として拘束された。父がそんなことをする人間ではないことは解っていたし、父自身も否認していた。しかし父は示談に応じてしまった。父は痴漢を行ったことを事実として認めてしまった。男手一つで僕を育てていた父には、裁判を戦うお金も時間もなかった。これでこの事件に関しては決着したが、その爪痕は僕の人生に深い影を落とすことになった。

 痴漢冤罪が原因で社会的信頼を失い、家庭崩壊に至る事例も少なくないらしい。しかし幸いなことに、父は無事に社会復帰することができた。父の性格からして、会社でも信用が厚かったのだろう。おかげで僕は前と変わらない生活を享受することができた。しかしそのまま何事も起こらない訳はなく、案の定父の事件は近隣住民に病原菌の如く広まった。犯罪の事実は公表されていないはずなのだが、一体どこから情報を集めてくるのか。恨めしいほどの情報収集能力である。その癖その情報の真偽を確かめようとせず、ただ拡散させるしか能がない思考停止集団なのだから滑稽である。しかし一度広まった病原菌を止めることは出来ない。そしてその病原菌は遂に小学校にまで感染した。

それからしばらくすると、僕を見るクラスメイトの眼が変わった。僕はどちらかというと一人でいる方が好きだったが、クラスメイトとはそれなりに会話していたし満更でもなかった。しかし父の一件が露見してから、クラスメイトとは事務連絡ぐらいでしか話さなくなった。明らかに僕を避けていた。これが無垢な低学年であれば、茶化される程度で済んでいたのかもしれない。しかし思春期真っただ中の小学六年生では、痴漢の意味する所は皆解っている様だった。

唯一幸運だったのはいじめに発展しなかったことだ。良識のある集団だったのか、いじめを行う気概すらないほど大人しい集団だったのかは分からないが、僕は忌避されるだけで終わった。僕自身もそのことについては何も語らなかったので、一週間もすればその話題をする者はいなくなった。中学校に入学する頃には父の事など誰も覚えていなかった。   

これで父の一件は形式上終わった。


 回想が一通り終わったので、ゆっくりと瞼を開ける。そういえば、そんなこともあったか。辛い出来事だったが、既に僕の中では完全に風化されていた記憶だ。何故、今更こんな過去の記憶を思い出したのだろうか。今と関係があるのか。

 止まっていた思考が再び動き出した時、別の記憶が突然フラッシュバックする。

クラスメイトから向けられる侮蔑の視線…それにただただ耐え続ける僕…終わりの見えない日々…

心臓を鷲掴みにされた様な気分だった。それはただ辛い記憶が蘇ったからではない。僕にとってあまりにも残酷な答えが導き出されたからだ。心の影の正体を掴んだのに、それを払拭するどころかさらに深い闇を知ることになるなんて。そしてそれを知ってしまった以上、もう琴音さんに合わせる顔がない。僕には琴音さんと一緒にいる資格はない。

「そんな…」

 悲鳴にも似た呟きは、誰にも聞こえることなく消えていった。


 琴音さんの手術が行われたのは一月の末頃だった。琴音さんは手術のため、数日前から入院している。そしていよいよ明日が手術日だ。

 僕は今、市営バスに揺られながら、琴音さんが入院している病院に向かっている。明日は大学があるため、今日が琴音さんと手術前に話せる最後の機会だ。

市営バスに揺られること十五分、終点の総合病院前に到着した。この病院に来るのは初めてだが、やはり総合病院というだけあってかなり大きい。しかし僕が驚いたのは建物の規模よりも外装だった。なぜなら、僕の病院に対するイメージに大きな変化をもたらしたからだ。僕は病院と聞くと白一色で質朴というイメージを連想していた。しかしその病院はマンションといわれても違和感がない様な、モダン風の外装をしていた。

病院内も、やはり僕のイメージとは異なっていた。今日は定休日なので一階の待ち受け室には誰もおらず閑散としていた。それが却って病院である実感を沸かせなかった。琴音さんの病室は三階だと聞いていたので、エレベーターで向かうことにする。思えば病室にエレベーターが存在するのも可笑しい気がした。

四階にたどり着いてから、僕はここが病院である事を始めて認識できた。エレベーターから降りた瞬間、病院の雰囲気にも似た匂いを感じることができた。幾許かの感動を覚えつつ琴音さんの病室に向かう。琴音さんの病室は409号室だと聞いている。一本道の廊下を歩きながら401、402と病室を通過していく。やがて最果ての409号室に辿り着いた。ドアには琴音さんの名前しかない。どうやら個室のようだ。

三回ノックし、引き戸のドアを開く。琴音さんはベッドから上半身を起こして音楽を聴いていた。イヤホンをしていて、僕には気づいていないみたいだ。僕は近づき少し大きな声で挨拶をする。

「こんにちは、琴音さん」

 琴音さんははっとしたようにイヤホンを外し、慌てて挨拶を返した。

「こ、こんにちは、裕太さん。あの、何時から来ていましたか?」

「いま来たところだよ。随分集中して音楽を聴いていたみたいだけど」

「うぅ、見られていたんですね」

 琴音さんは顔を赤らめた。音楽を聴いている所を見られることが、そんなに恥ずかしかったのか。

「き、今日はどうしたのですか?」

 琴音さんは羞恥心を紛らわすかのように慌てて話題を作った。

「明日は大学があって琴音さんには会えないから、今日会いに来たんだ」

「そ、それはどうもありがとうございます」

 会話が終わってしまった。さっきのこともあってか、気まずい空気になる。しかしこの空気はそれだけが原因ではない。得てして病院という場所は寡黙になりやすい。普段ならば何気ない世間話も、相手が神経質になっているとどんな言葉が気に障るか分からない。そうして言葉を選びながら話せば当然口数は減る。それに僕は入院したこともないし誰かのお見舞いに行ったこともないので、こういう時はどのように振舞えばいいのかわからない。手術を翌日に控えた人の見舞いならなおさらだ。

 立っているのも疲れたので、とりあえず傍にあった椅子に腰かける。

「ふう」

 少しため息が漏れた。僕はまだこの状況に対する最適解を見出せずにいた。いや僕の中では解は出ているが、それを解答欄に書く自信がない。琴音さんは表面上は明るく振舞っているが、どこか余裕がない。現に、琴音さんは会話が途絶えてから一言も発していない。無理もないだろう。そんな琴音さんに対して僕はどう接するべきなのだろうか。どんな言葉を伝えるべきなのか。

きっと模範解答は誰にも解らないだろう。それなら、僕は今琴音さんに伝えたいことを話すべきだ。それが模範解答であることを信じて。

「琴音さん」

「は、はい」

いきなり話しかけられて、琴音さんは少しびっくりした様だった。

「やっぱり、手術は怖い?」

琴音さんは小さく頷く。

「僕には手術のことは分からない。だから琴音さんの境遇を知ることができない。こんな僕が何を言っても無責任だと思う。でも一言言わせてほしいんだ。

 琴音さんは前に僕に言っていたよね?僕と出会えたことで人生を変えられたって。その言葉が本当ならこの手術は絶対成功する。運命は変えられる。だから信じてほしいんだ。自分の言葉を、自分の運命を、自分の未来を」

 僕が話を終わる頃には琴音さんは涙を浮かべていた。しかしその表情は晴れやかだった。

「ありがとうございます、裕太さん。私を元気づけてくれて。わかりました。私は信じます。裕太さんと出会えた奇跡を。そして裕太さんが私を光へ導いてくれることを」

 もう琴音さんの眼に不安はなかった。これでいい。これで僕の役目は終わりだ。


 結局、翌日の講義の内容は頭に入らなかった。これなら病院に行っていた方が良かったか。流れるように時が過ぎ、気が付けば今日の講義は全て終わっていた。ともあれ、急いで病院に向かう。ほとんどの時間は公共交通機関で移動するので、急いだところで到着時間はさほど変わらない。しかし気持ちが焦っているためか、すぐに病院に到着した気がした。

 病院の待ち受け室は昨日と打って変わって賑わっていた。決して明るい雰囲気ではないが。喧騒は無視してエレベーターで四階に上がり、ナースステーションで琴音さんの手術について聞く。どうやらまだ手術は終わっていないらしい。手術室の場所を聞き、そこに向かう。手術室の前にある病院特有のソファーに琴音さんのお母さんが座っていた。お母さんは僕に気づくと、立ち上がって会釈をした。つられて僕も会釈をする。

「失礼します」

 僕はそれだけ言って同じソファーに座った。

「今日は琴音のために来てくださってありがとうございます」

「いえ…」

 それだけ話すとお互いもう口を開かなかった。あとはただ手術の成功を祈るばかりだった。時間の進みが途轍もなく遅く感じた。

 一体どれくらいの時間が経ったのだろうか。永遠とも思えた静寂を扉の開く音が破った。中から医者と琴音さんが寝かされているベッドが出てきた。琴音さんは目に包帯を巻いて眠っている。麻酔が効いているのだろう。琴音さんが病室に運ばれていく傍ら、主治医と思われる医者が琴音さんのお母さんに話しかけてきた。

「手術は無事成功しました。これからのリハビリで視力は回復していくでしょう」

 それを聞いたお母さんは大喜びするわけでもなく、泣き崩れるわけでもなく、ただ一度深々と頭を下げた。

「本当にありがとうございました」

 お母さんはいつもと変わらず礼儀正しい所作を崩さなかったが、その声からは紛れもない喜びが感じられた。一通り会話を終え主治医が一礼をして去った後、お母さんは僕に向き直し再びお辞儀をした。

「裕太さんも、本当にありがとうございました」

「いえ、手術が成功して本当に良かったです」

 社交辞令的な祝辞を述べる。しかしこの言葉は本心からのものだ。このやりとりで手術が成功したことを実感することができた。そして緊張の糸が切れたように急に体の力が抜けた。ただ待っていただけなのに随分気を張っていたみたいだ。このまま腰を下ろして休みたいが、僕にはまだやらなければいけないことがある。

「あの、お母さん、琴音さんにこれを渡してください」

 僕はお母さんに封書を手渡した。

「これは?」

「手紙です。琴音さんに読んでもらいたいのです」

 お母さんは、そういうことを聞きたいのではないと言わんばかりに尋ねてきた。

「ご自分で渡さないのですか」

 僕は言葉の代わりに首を横に振る。この先はあまり人に話したくない。お母さんもそれを察してくれたのか、もう何も聞かずに懐に収めてくれた。

 これでいい。これですべて終わらせることができた。

「では、僕はこれで」

 もう病院に長居する理由もない。別れの挨拶をして、踵を返そうとした時だった。

「待ってください」

 お母さんに呼び止められた。僕は顔だけ向き直す。

「なにか?」

 お母さんは少し考えた後、優しい声で話した。

「これからも、琴音をよろしくお願いしますね」

 その言葉は、手紙の内容を理解したからこそ出たのだろうか。それとも、ただの考えすぎなのだろうか。

 逆方向に向いていた体をしっかりと向き直し、無言で頭を下げた。そして、今度こそ静かに病院を後にした。

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